自殺ダメ



 言うまでもなく性は本来悪ではない。目によって美しいものを観賞し、舌によって美味しいものを味わうのと同じように、性器によって肉体の快楽を味わうことは極めて自然なことであり、有り難いことであり、これが自然に出来ることに感謝しなければならない。これを罪悪感や過度な羞恥と結び付けるなどは、もっての外というべきである。身体そのものが性的快楽を味わうように出来ているのであるから、罪悪感や羞恥心から性行為を忌み嫌うというのは実に愚かなことである。
 イヤ、私の言わせれば、性を否定することこそ神を否定することだと言いたい。性を抑制せんとする人達がとかく病的なまでに精神的に歪められている事実が、その何よりの証拠だと思う。神は何一つ不要なものは与えていない筈である。又具わっている道具は使うのが自然な筈である。
 宗教的とは別に、生理的な面から性行為を有害視する人がいるが、これも又大変な誤りである。精子も卵子も適度に消費するように出来ている。生理的機能に異常のある場合は別として、正常な機能を具えた健康な男女なら、欲するままに行動して決して害はない。正常であれば害になる前に欲求が止まる筈である。少し位の疲労は、若い健康な男女なら一晩熟睡すれば回復する筈である。
 若者は自然な性行為を知る迄には、色んな形で性の快楽を味わい欲求のはけ口を求めようとするものである。その一つの現れが自慰行為であるが、これも至って自然な行為であり害もない。大人になってからでも、これを性のはけ口として精神安定の為に行なうことは極めて賢明なことである。
 ところがこの自慰行為においても、キリスト教的罪悪感に根ざした有害説によって、どれだけ多くの若者が精神的に苦しい思いをさせられてきたか測り知れない。つまり生理的に抑えようにも抑え切れなくて自然な衝動によって行なうのだが、その時の心理状態は悪いことをしているという罪悪感が付き纏い、それがかえって生理的にも悪影響を及ぼし、結局は精神的にも肉体的にも性のはけ口としての効用を少しも果たさないことになるのである。これほど愚かで罪作りな話はないといっていい。
 ある孤児院で興味深い調査が行なわれた。そこの子供達は当初は性的行動についてあまり厳しい監視をされていなかった。それで殆ど全員が自慰行為の体験を持っていたが、ある時、実験的にその子供達を二つのクラスに分け、一つのクラスではそれまでどおり自由に行動させ、もう一つのクラスには厳格な監視と説教を徹底させてみた。
 やがて成人して社会へ巣立って行った後、福祉員が追跡調査を行なった。その結果は、厳格に育てられたクラスの全員が何らかの精神的症状を訴え、中には精神病院に入院した程の重症患者もいたが、一方自由に行動させたクラスには一人も病的症状を訴える者はいなかった、ということだ。