自殺ダメ



 いかなる宗教も、元はと言えば一個の人間から生じたのです。その人は大抵心霊能力を具え、普通の人に見えないものを見たり聞いたり予言したりしました。或いは手を触れたり祈ったりするだけで病人を治すこともしました。が、その人が教祖となったというのではありません。
 その人自身はそうなって自分の能力を駆使して衆生済度を実践したまでなのですが、その死後、後に残った弟子達はどうしても能力が劣ります。すると能力で統率するのでなくて、教義や戒律でもって信者を纏めようとする動きが出てきます。こうして宗教団体が出来上がるのです。
 例えばキリスト教を例にとってみますと、イエスは元々ユダヤ教徒で、アラブ人の容貌をした、色の浅黒い人間だったろうと想像されます。恐らく早くから心霊的な勉強と修養を重ね、少しずつ真理に目覚めていった筈です。やがて数々の心霊現象と病人の治療によって人々を引きつけ、多くの弟子を連れて放浪しました。そして最後に、ローマの為政者によって弾圧され悲劇的な最後を遂げたわけですが、イエス自身は一度たりとも〝キリスト教〟などという言葉を口にしたことはなく、最後までユダヤ教徒だったのです。
 ところがその死後、弟子達はイエスへの畏敬の念が強かった為に、その生前の行跡を色んな形(手紙など)で書き残しました。それがいつの時代かに誰かによって編纂されたのが聖書なのです。が、その聖書に書かれている行跡が果たして本当がどうかは極めて疑問のあるところで、あまりに矛盾が多い為に聖書学者の中にイエスという人物の実在そのものを否定する人もいる程です。
 ですが一方聖書には一貫して流れている珠玉の真理があることも事実です。それは愛と奉仕とが最高の美徳であると説き、人類は皆平等であり、一人の例外もなく死後に存続するという思想です。
 実を言うと、こうした素朴な真理はどの宗教でも説いていることなのです。それが時代の違い、民族の違い、或いは環境の違いなどによって様々に脚色され、変形され、又土着の民話や神話などが付着して、次第に複雑になり、もったいぶった仰々しい教義が作られていったのです。そうした交雑物を拭い去れば、いずれの宗教も皆同じ真理すなわち人類同胞、愛と奉仕、死後の存続を説いているのです。
 私は非常に信心深い人間ですが、教会その他、宗教施設には一切通いません。私にとってそうしたものは単なる建造物にすぎず、信仰の場としてより、むしろ人間の自惚れの記念碑としてしか目に映らないのです。
 私にとって宗教とは、端的に言うと自分本来の霊的生命と、この世で与えられた物的生命の融合です。つまりこの物質万能主義の世の中にあって、霊性に目覚めていない人と神との縁の架け橋の役目を務めることです。