自殺ダメ



 人間にはある限られた範囲内での自由意志が許されている。この自由意志と宿命についてはとんでもない説が横行している。まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。人生は既に〝書かれてしまっている〟-つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どう足掻こうと、なるようにしかならないのだと観念して乞食同然の生活に甘んじる。
 もう一方の極端な説は、何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも〝自分〟というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけて生きていく連中である。物事の価値を全て物質的に捉え、「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。
 両者共完全に真実を捉え損ねている。まず宿命について考えてみよう。仮にヨーロッパの白色人種として生まれたとしよう。これだけは変えようにも変えられない。黒人に生まれる可能性もあったし東洋人に生まれる可能性もあった。が現実は長身で細身で色白、そして青い目をしている。両親の系統の遺伝的特質を少しずつ受けている。これもどうしようもない。
 又、あなたはこの二十世紀に生を享けた。出来ることなら十六世紀に西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。が、どうしようもない。そうした条件の下であなたは今という一つの時期にこの世に生を享けている。寿命の長さも決まっている。どんな人生を送るか、その大よその型も決まっている。また苦難の内容-病気をするとか、とんでもない女と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気-こうしたこともみな予め分かっている。
 あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。但し地上生活中のある時期に必ず霊的自我に目覚める瞬間というのがある。これも分かっている。
 宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。従って自由意志はあってもその因果律の支配からは逃れることは出来ない。水仙の球根を植えれば春になると水仙の花が咲く。決してひまわりやチューリップは咲かない。自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしようもない自然法則である。
 それは極めて単純な法則である。科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。それが地上生活を支配するのである。大切な行為には必ず反応がある。あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。
 先に、地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際は僅かながら潜在意識の中に残っているものである。それが地上生活中のどこかで、ふと顔を覗かせることがある。その程度は人によって異なるし、霊的進化の程度にもよる。
 例えば、酷い痛みに苦しんでいるとする。仮に骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。散々苦しんだ挙句に、ある心霊治療家を知って、奇跡的に治った。嬉しい。涙が出る。感謝の念が湧き出る。
 実はその時こそあなたが真の自我に目覚めた時である。この機に、その感謝と喜びの気持でもって、自分に奇跡をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来上がっているのか、信仰とは、幸福とは、といったことを一心に学べば、その時こそあなたにとっての神の啓示の時なのである。
 こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちの道をとるかに迷っている時が考えられる。道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。左をとれば確実に大金が入るが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる、といった場合もあるであろう。神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的瞬間である。
 更にもっと日常的な例では、自分自身は厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐をもって臨む、その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。
 因果律は絶対に変えられない。歪めることも出来ない。無視することも出来ない。このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、困難を神の試練と受け止め、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭的には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶのである。生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種-こうした枠組の中で、あなたにも自由意志が与えられているのである。