自殺ダメ



 罰にも様々な意味がある。みんなと同じことが許してもらえないというのも罰であろう。例えば他の友達がお菓子を貰ったのに自分だけ貰えないという罰がある。学校で弱い者虐めをしている内に次第にみんなから嫌われて友達がいなくなる。これも罰を受けたのである。良心の呵責も罰である。良心に背く行為をして「悪いことをしてしまった」という気持が高じて心身共に病的状態に陥ることがある。
 思考力を具えた成人が過ったことをすると、それ相当の苦しみを味わう。これは因果律の働きである。たった一度の過ちが人生を歪め、何をやっても上手くいかない。良心が痛み、心穏やかな日が一日として無い。晩年になって我が人生が惨めで迷いの連続であったことを知る。何の為に生まれて来たのか分からないということになる。
 反対に良い行いは気分を和ませ、すっきりとして晴れやかである。その気持が周りの人々にも好感を与え、何もかも上手く行く。晩年に我が人生を振り返って、充実した幸せな人生であったと思う。
 善か悪か、正しいか間違っているかの判断は生涯付きまとう問題である。正しく生きれば充実した幸せな人生となるし、過ちを犯すと無味乾燥な人生に終わる。現代の精神科医は色んな理屈をこねるようであるが、善悪は厳然と存在し、霊的に成長する程その感覚が鋭くなるものである。
 過ちを犯さない者はいない。が、ある一定の条件下において何が一番正しいかを判断することは誰にでも出来る。例えば、今盛んに行われている生体解剖と動物実験は惨酷な行為であり間違っている。道義的に間違った行為が医学的に正当化される訳がない。人を騙す。嘘を付く。約束を破る。これらはみな悪である。仕事においても真っ正直でなければいけない。同義的に間違ったことが仕事の上で正当化される訳がない。
 毎日の人と人との関係において、各自の道義の鑑に照らした行動の規範というものを維持することは可能である。それを過ると人生が無意味で空虚となる。あなたが求めようとしたものが逆にあなたを蝕んでしまう。そこに因果律の働きがある。
 そこであなたは尋ねるであろう。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、良い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうか、と。
 そんなことは絶対にない。が、次のようなことは必ず体験させられる。まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊と共に地上生活を振り返る。正しかったことも間違っていたことも細大漏らさずビデオのように再現され、この判断は正しかったが、ここはいけなかった。ここでこんなことをしたから、こうなったのだ、といった調子で背後霊から説明を受ける。
 それから背後霊と話し合って、もう一段高い世界へ挑戦するか、それとももう一度地上生活を体験する必要があるかを判断する。もし再度地上に戻ると決まったら、暫く休息を取り、精神統一をしながら調整する。
 やがて準備が整う。指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。それまでに何世紀も経っていることもある。いよいよ時機が到来すると、前と同じように深い睡眠状態に入り、それまでの一切の記憶を捨てて地上の一女性の胎内へと入って行く。宇宙学校の第二学期が始まったのである。