自殺ダメ



 敗戦は日本国民の全てにとって過酷だったが、母にとっては長兄の死と重なって、たとえようもない悲哀をもたらした。その上、本土への引き揚げも急がねばならない。父が要職にあった為に、手入れがあることは間違いない。兄の葬儀を済ませ、敗戦の残務整理を終えると、両親は徹夜で荷物を纏め、家族を連れて夜中に二手に分かれて港へと向かった。
 私は当時十歳で、兄の死も、敗戦も、引き揚げも、その本当の意味は分からないまま、ただ親に言いつけられる通りにしていただけで、本当の悲しみも、苦しみも、大変さも分かってはいなかった。夜陰に乗じて家を出て、身を隠すようにして港へ向かう途中、暗い線路の枕木の上を、乳飲み子の末っ子を背負い、片手で三つになったばかりの妹の手を取り、もう一方の手に荷物を持った母の後ろ姿を見ながら、弟と一緒に、両手に荷物を持って、テクテクと歩いた時の様子だけが、妙に目に焼き付いている。
 父と次兄は万一を考えて、別行動を取った。父の話によると、我々が家を出払ったその翌日、中国軍が官舎に踏み込んだという。もう一日遅れていたら、父は戦犯として抑留されたに相違なく、我々家族の運命もどうなっていたか分からない。
 本土に引き揚げてからの悲惨な生活は日本人の大半が味わったことであるから、ここでは語らないことにする。熊本の田舎の母方の遠い親戚の家に一年間身を寄せた後、現在の福山市の、出来たばかりの引揚者住宅に移り住むことになった。父は名誉ある地位から一朝にして無冠の身となり、行商をしながら糊口をしのぐ毎日で、さぞかし辛く、苦しく、無念の思いをしたことであろう。
 一方、母は長男の死の痛みが消えやらず、あれだけの子がこの宇宙から消えて無くなる筈はないとの信念を抱き続け、霊能者の話を耳にすると、直ぐに訪ねて長男の死後の消息を訊ねた。が、どの霊能者に会っても満足のいくお告げが得られない。
 そんな時、昭和二十八年のことであるが、ある人から間部詮敦という先生が福山市に来ておられるという情報を耳にした。そして早速訪ねてみた。その日こそ、母にとって、そして私にとって、運命が大きく転回する重大な日であった。
 八畳間の座敷に通されて、座敷机に向かって和服姿で端座しておられる先生の姿を一目見た時、母は
 「あ、自分が求めていたのはこの人だ!激流を泳ぎ切ってやっと向こう岸に辿り着いた」
と思ったという。その直感は当たっていた。その直後にこんな話があったのである。
 挨拶を交わして、母が相談事を述べかけた時のことである。先生が母の少し横の方へ目をやりながら
 「今そこに若い男の方が立ってますよ。両手に何か持ってますね。ほう、弁当だと仰ってます。お母さんには申し訳ないことをしたと仰ってますが、何か心当たりがございますか?」
と仰った。
 一瞬、母の瞼にあの日のことが甦った。そして、その場にどっと泣き崩れた。兄にとっても、あの別れ際の母の寂しげな姿が死後もずっと気になっていたのだと思った。そしてそのことが、母にとって、あの子は間違いなく今も生きている、という確信を持つ何よりの証拠となった。先生を訪ねた時、母の頭には長男のことはあっても、弁当のことなど欠片もなかった。それを先生の方から指摘されたのである。
 間違いなく兄は死後も存在し、そしてその場に出現したのである。もしかしたら兄自身がそのことを母に知らせたくて、先生に引き合わせたのかも知れない。それは十分に考えられることである。
 こうして十年近い歳月をかけて、兄の死という一つの出来事が、間部詮敦という霊覚者との出会いによって母の心に先生への強烈な信頼感を植え付け、それが直ちに先生と私との長い縁を結ばせることになり、それが更に時代を遡って、日本におけるスピリチュアリズムの草分けである浅野和三郎の著作へと私を案内してくれることになったのである。