自殺ダメ



[よくわかる世界三大宗教]という本より抜粋。


 ここでは、イスラム教の死生観を紹介したいと思います。それはなぜかといえば、スピリチュアリズムの死生観と比較してもらい、どちらがより理性が納得するかを、あなた自身で判断して頂きたいからです。



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イスラム教の地獄の様子。勿論刑期は永遠である。


 最後の審判・天使の記録

 イスラム教徒の行動を記した「記録の書」によって来世の行先(天国・地獄)が決定される。

 現世の善行や悪行は二人の天使によって記録され、最後の日に審判が下される。
 キリスト教の終末思想はイスラム教にも大きな影響を与えた。


 『コーラン』に描かれる終末
 『コーラン』に描かれる終末の描写は、大地が崩壊し天使がラッパを吹くなど『新約聖書』に似ている部分が多く、多大な影響がうかがえる。しかし、そもそもこの終末と最後の審判に関するモチーフは、善悪の二元論を特徴とするゾロアスター教を由来としており、それはユダヤ教、キリスト教を経由してイスラム教にもたらされたと考えられている。

 【大まかな流れ】

 ①ヤージュジュとマージュジュ(両方とも巨人の悪魔)が現れ、世界を荒らす

 ②天が大きく揺れて割け、星と共に落ちる

 ③大地が崩壊し、世界が始まる前の状態になる

 ④天使がラッパを吹くと、生きている人々は気を失う

 ⑤もう一度ラッパを吹くと、死者が蘇る

 ⑥アッラーの前で最後の審判を受ける

 ⑦「記録の書」によって天国と地獄に振り分けられる


 ムスリム(イスラム教徒)の人生観

 『コーラン』では、生前の人間には常に二人の天使が付き、向かって左にいる天使が善行を、右にいる天使が悪行を記録しているとされる。審判はこの記録を元に下される。

 【天の書】
 (世界の歴史は、天地創造の日から最後の日まで、この書に記録されている)

 【記録の書】
 (毎週木曜日に一週間分の記録(善行と悪行)が見直され、最後の審判に関わると思われる記録以外は消去される)

 ここまでが現世。

 【最後の日】

 ここから来世。

 【最後の審判】
 (審判の日に「記録の書」に残された善行と悪行の数が計算され、行先が決まる)

 【天国】か【地獄】


 キリスト教と同様に最後の審判で行く先が決まる

 イスラム教が発生する前のアラビア半島では「死=消滅」であり、来世の存在を信じていない人々が多かった。しかし、イスラム教は、最後の審判、天国と地獄、終末における死者の復活などの概念を認めており、これはユダヤ教やキリスト教の影響と考えられている。
 『コーラン』には「現世の行いによって来世の運命が決まること」が繰り返し警告として記されている為、イスラム教徒は、現世の繁栄よりも来世の幸福が重要だと考える。
 一般的にイスラム教では、人が死ぬ時、死の天使が現れて肉体から霊魂を抜き取る。このとき信仰者の霊魂は天国へ飛び、不信仰者の霊魂は地獄へ向かうと教えられている。
 又、地獄に行った霊魂は肉体に戻され、週末の日まで、墓の中でムンカルとナキールという天使から審問を受けるとされている。
 そして、世界に終末が訪れる時には、全ての朽ち果てた肉体が蘇り、全員が広場に集められ、最後の審判を受けるのである。
 ここで「記録の書(生前の行為が書き付けられた帳簿)が開かれ、善行と悪行が秤にかけられ、天国と地獄に振り分けられる。この時は、殺人など重大な罪を犯した者でも、天国へ行ける可能性は残されると考えられている。
 天国は水と緑に溢れる美しい豊饒の楽園で、時には神の尊顔を目にすることも出来る。一方で地獄は火が燃え盛る絶望の場所で、熱湯を浴びせられて火に焼かれるという。
 イスラム教徒の葬儀では一般的に火葬を避ける。これは最後の審判の日に生前の姿で復活する為と考えられているが、「地獄で焼かれることを連想させるから」という理由も考えられる。


 死後の世界に関する論争は様々ある

 『コーラン』では、死後の出来事に関して非常に感覚的な表現で描写されている。その為、これを文字通りに受け取る立場と比喩的に解釈する立場が存在する。
 前者は伝統的なイスラム教徒の立場であり、物体は一度滅んだとしても、全能の神の力によって元通りの姿に蘇ることが可能であるとしている。
 後者は古代ギリシア哲学の影響を受けたイスラム哲学の立場で、一度滅びた肉体が元に戻ることはないと理性的に考える。しかし、霊魂は物体ではないので死後も残るとしている。
 これ以外にも「死」や「死後の世界」に関する論争は様々な形で発生している。
 例えば、ムハンマドの時代にも「全ての運命が神に委ねられているなら、人は自分の行為に対しても責任がなく、最後の審判で裁かれる必要はないのではないか」という疑問が提示され、論争に発展した。
 この論争を収めたのは、アシュアリー学派の「獲得理論」で、これは「神によって予定されている行為であっても、人はその行為を自分の力で獲得することによって行動している為、責任は回避出来ない」とする考え方である。
 そして、これによって「天命(カダル)が六信の一つとなった。