自殺ダメ



 [とっておきのエピソード⑥ 日本人のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]


 十四年間も絶飲絶食、大小便は全くなし。それでいて相撲取りと腕相撲をしても負けない程頑健そのもので、肉付きも良かった。そしてその女性の周りで様々な霊現象が日常茶飯事に発生した。
 これは、常識的には誰が聞いても「そんなバカな」と一笑に付すに決まっているが、しかし事実だったのである。真面目な科学的調査の対象とするに値する驚異的現象ばかりであったが、それが曖昧な官憲による弾圧で、ただの語り草で終わってしまった。その女性の名を長南年恵(おさなみとしえ)という。明治時代の話である。
 この女性が世間で話題になっていた頃、後にこの道の先駆者となる浅野和三郎氏は新進気鋭の英文学者として翻訳と教育に携わっていた。その後、本文で紹介したような経緯で霊的世界へ飛び込んだ時は、年恵は既にこの世の人ではなかった。
 残念に思った浅野氏は、せめてその真相でも確かめたいと思い、実弟の長南雄吉氏に面会した。その時の取材記事を頼りに概略を紹介すると-

□官憲による妨害
 娘の頃の年恵の変わったことと言えば女性の生理が全くないといった程度で、それ以外に外見上これといって異常なところは見られなかった。それが三十五歳頃から、煮たり焼いたりしたものが食べられなくなり、ホンの小量の生水と生のサツマイモを摂るだけになった。弟の雄吉がわざと生水だと偽って湯冷ましを与えたところ、その水を吐き出したばかりでなく、その後で血を吐いた。何度やっても同じだったという。
 それと同時に、家中で不思議なことが発生するようになった。いきなり家鳴りがしたり、いつの間にか品物が持ち込まれたりする。空中で様々な音楽が聞こえる。笛、篳篥(ひちりき=雅楽用の縦笛)、筝(こと)、鈴などによる合奏である。その音楽を聞きつけた人達が家を取り囲むように群がり、時には警官が何事かと見張りに来ても鳴り続け、その中で年恵はいつもと違った形相で見事な絵画を描いていたという。トランス状態になっていたのである。
 その内官憲は、事実の有無、真偽の調査を無視して年恵を逮捕した。その罪状には「妄(みだ)りに吉凶禍福を説き、愚民を惑わし、世を茶毒(だどく)する詐欺行為」とあった。
 年恵は二度投獄されている。明治二十八年に六十日間、翌二十九年に七日間である。その後の警察の横暴さに雄吉はついに憤慨して、三十二年九月二十一日付で年恵の在監中の生活の実情に関する証明書類を提出した。それは次の八項目からなるものである。
 (1)両便通が皆無であった事
 (2)飲食をしなかった事
 (3)署長の求めに応じ、監房内で神に祈って霊水一瓶、御守り一個、経文一部、散薬一服を授けられて、これを署長に贈った事
 (4)囚人の一人の求めに応じて散薬を神より授かって与えたが、身体検査の時にその事実が発覚した事
 (5)監房内に神々ご降臨の時は係官達も空中で笛その他の鳴り物を聞いている事
 (6)監房生活中一度も洗髪していないのに、年恵の喋々髷(まげ)は常に結い立ての如くつやつやしていて、本人は神様が結って下さると言っていた事
 (7)一寸五升の水を大桶に入れ、それを軽々と運んでみせた事
 (8)夏に蚊の大群が襲っても年恵の身体には一匹もたからず、ついに在監中、年恵一人が蚊帳の外で寝た事
 右の証明願いはやがて次のような、たった二行の文言をもって却下された。
 「明治三十二年九月二十一日付をもって長南年恵在監中の儀につきて願い出の件は、証明を与える限りにあらざるをもって却下する」
 この件について雄吉氏と浅野氏が語り合った部分を紹介しておく。

 雄吉「何と面白いではありませんか。事実は事実だが証明を与える限りではないから却下する、というのですから確かなものです。こんな結構な証拠物件はございません。私も、こりゃあ大事な品だ、と考えましたから、この通り立派に保存してあります」
 浅野「いやぁ、素敵な証拠物件が残っていたものですなぁ。是非写真にも撮り、また文句も写し取っておきたいと思いますから、暫時拝借を願いたいのですが・・・」
 雄吉「承知いたしました。お持ち帰りになられても構いません」

□ついに裁判沙汰に
 右の八項目の内の(3)の《霊水》というのは年恵が最も得意とし、又よくやって見せたもので、空瓶を置いて祈ると一瞬の内に霊薬が入り、それを飲むとどんな難病でも治ったという。一本や二本ではなく十本でも二十本でも瞬間的に充満したという。
 雄吉氏によると、最も多い記録では四十本程三方の上に並べたこともあり、それでも皆色が違っていたという。試しにどこも悪くない人が適当な病名を書いて置いてみたところ、何も入っていなかったという。
 そんなある日のこと、突如として家が警官に包囲され、家宅捜査が執行された。何か薬品でも隠しているのではないかという嫌疑からで、床下まで調べられた。しかも、年恵は連行されて十日間の拘留となった。
 このことで雄吉氏の堪忍袋の緒が切れて、正式の裁判に訴えることとなった。場所は神戸地方裁判所で、裁判長、陪席判事、立会いの検事をはじめ弁護士、被告人等、全て型の如く座席を占め、型の如く尋問が一通り済むと、裁判長から
 「被告人はこの法廷においても霊水を出すことが出来ますか」
という質問が述べられた。年恵は平気で
 「それはお安い事でございますが、ただ、ちょっと身を隠す場所を貸して頂きとう存じます」
と答えた。
 そこで適当な場所において実験執行ということになり、公判廷は一旦閉じられた。実は当時その裁判所は新築中で、弁護士の詰所にやっと電話室が出来上がったばかりで、電話そのものはまだ取り付けられていなかった。そこでその中を徹底的に改めてから、被告人に使用させることになった。
 実験の段階に入ると年恵は裸にされて着衣その他について厳重な検査をされた。そして裁判長自ら封印をした二合入りの空瓶一本を年恵に手渡し、多数の眼が見守る中、電話室へ入ることを許された。
 入ってものの二分程で中からコツコツという合図があり、扉が開けられて出て来た年恵の手には、茶褐色の液体で満たされた二合瓶が、封印されたまま握られていた。それを裁判長の机の上に置くと、裁判長が
 「この水は何病に効くのか」と尋ねた。
 「万病に効きます。特に何病に効く薬と神様にお願いした訳ではございませぬから」
 「この薬を貰ってもよろしいか」
 「よろしゅうございます」
 この珍無類の問答で尋問は終わり、即刻年恵に「無罪」の言い渡しがあったという。
 年恵は五十に満たない年齢で他界している。二ヶ月程前から「神様」からその時期を予告され、自分でも周りの者にそう告げていた。その頃は警察その他の理不尽な行為に嫌気がさしていたことも事実である。
 それにしても、これ程の人物を科学的に、ないしは学問的に研究・調査しようとする学者が現れなかったのはなぜであろうか。年恵は文久三年の生まれであるから、西暦で言うと1863年になる。その頃は西欧では心霊現象の科学的研究が本格的になり始めていて、年恵が“酷い目”に遭っている頃は霊媒が貴重な存在として重宝がられていた。
 もっとも、日本でも三田光一や長尾郁子、御船千鶴子などの超能力者が脚光を浴びていたが、透視や念写の域を出ていない。同時代に長南年恵という、世界の舞台に出しても引けを取らない程の大霊能者が出現していたのである。それがこうしたエピソードとして紹介するしかないというのでは、浅野氏と共に残念無念の感慨を禁じ得ない。
 なお、「長南」という姓は山形県に多く、土地の人は「ちょうなん」と呼び、又この年恵を紹介している書物でもそう呼んでいるようであるが、その実弟をインタビューした浅野氏がわざわざ「おさなみ」とルビを振っているところから筆者は、この家族はそう呼んでいたものと判断して、それに従った。