自殺ダメ



 間部氏は当時三重県の上野市にお住まいで、浅野氏との出会いまでに、既に多くの信奉者がいて、《霊光道》という一派を従えていたようである。《霊光道祝詞》まであって、定期的に集会を催していたものと推察している。それが浅野との出会いでスピリチュアリズムという地球規模の霊的指導原理を知り、それまでの自分の考えの狭さを痛感し、更に浅野氏を通じての啓示に触れて組織の解散を決意する。すると「忙しくなるぞぉ」の予言通り、大阪地方から中国地方にかけての、霊的治療と人生相談による伝道の旅に出ることになる。月の半分以上を地方の巡回に費やしている。
 筆者はその頃広島県の福山市に住んでいて、大学受験を目指して猛勉強中だった。中学時代はどちらかというと理系の学科が得意だったが、高校に入学してからはなぜか英語が得意で好きにもなった。今から思えば、その頃から背後霊団は本格的に英語力の養成に力を入れていたようで、学校の授業では飽き足らず、自宅では一学年上の問題集に取り組んでいた。未だに完璧な全訳がないと言われる程難解なミルの『功利説』 Utilitarianism by John S.Millの原書に挑戦したのもその頃で、最後までさっぱり分からなかったが、その格闘によって一段と読解力が付き、それ以後は学校の教科書が童話を読むように簡単に思えるようになった。
 そんな時に間部氏との出会いがあった。近藤家が霊的に因縁が深いことを直観していた母は、霊能者の話を耳にすると直ぐに訪ねていた。そしていつも兄と筆者を誘い、兄は必ず付いて行ったものだが、筆者は一度も行く気がしなかった。それが間部氏の時だけはなぜか筆者だけが「うん、行く」と言って付いて行った。これも霊団の導きであろう。筆者十八歳、間部氏七十歳、孫子程の年齢差があった。が、その日の出会いが筆者の人生を決定付けることになるとは知る由もなかった。(ここからは「先生」と呼ばせて頂く。漱石の『こころ』の冒頭の文句ではないが、姓で呼ぶのはどこかよそよそしい感じがしてならない)
 一方、同行した母にとっても、その日は人生最大の運命的な出会いの日となった。先生との出会いではない。終戦の翌日、即ち昭和二十年八月十六日に事故死した長兄の霊との再会であった。(これについてはハート出版から出した『人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅』で詳しく述べたので、ここでは簡単に述べるに止める)
 通された八畳間の座敷には、座敷机に向かって先生が和服姿で端座しておられた。一通りの挨拶の後、母が悩み事を述べようとした時である。先生が「ちょっとお待ちください。今直ぐ側に若い男の方が立っていますよ。両手で何か持ってますね。ほう、弁当だそうです。お母さんには申し訳ないことをしたと仰ってますが、何かお心当たりがございますか?」と言われた。
 これは、まさに、長兄と母の今生の別れとなる最後のシーンの再現に他ならなかった。もっとも弁当を両手で持っていたのは母の方で、十五歳だった兄が学徒動員で弁当だけ持って級友達と共にトラックで出発するのを母が見送った。なぜか弁当を持たせるのを忘れたと勘違いした母が、大急ぎでこしらえて兄を追いかけ、やっと間に合ったが、「持ってるよ」と言って兄が弁当を見せた。その時は既にトラックが動き出して、母は弁当を胸の辺りに両手で持ったまま見送った。そして、それが今生の身納めとなったのだった。
 それから僅か十数分後に事故で即死した兄が、霊界で意識が戻り平静を取り戻した時に真っ先に思い出したのもやはりそのシーンで、以来十年近くを経て、やっと詫びを言いに出て来たのだった。弁当を受け取らずに別れたその最後の母の姿と、その後の母の悲しみようが憐れに思えていたのであろう。「お母さんには申し訳ないことをした」というのはそのことである。その時の母には様々な悩み事があったが、少なくとも事故死した長兄のことは脳裏には無かったという。それが思いも寄らなかった先生の言葉で、あの日のあの場面が甦った。何の説明も要らなかった。母はその場にどっと泣き崩れた。母にとっては「弁当」こそが我が子の死後存続の生きた証拠であった。何の理屈も要らなかった。