自殺ダメ
さて私の霊査の話に戻って、当時の私は勉強の時の姿勢が悪かったらしく、胃の裏辺りに歪みがあり、先生はしきりに擦っておられたが、そのうち私は寝入ってしまった。やがて起こされて先生に背を向けて正座すると、拍手が二つ聞こえて「はい、結構です」と言われた。
私がその時に聞いた言葉はその一言だけであるが、実は私が寝入っている間に、私の今生の使命を示唆する啓示が先生に下りていたらしい。「らしい」というのは、傍らにいた母がそれを見聞きしていて、ずっと後-私が一人前の社会人になってから-「実はネ、お前が寝入っている間に先生が・・・」と語ってくれたのである。それは私がスピリチュアリズム思想の普及に重大な使命を帯びていることを暗示するもので、どうやらその啓示と共に私の守護霊団と英国の霊団が姿を見せたらしいのである。そう推察する根拠は、先に紹介したドロシー・トゥールが最近になって同じようなことをE-メールで伝えてきているからである。
そういえば月一回の霊査で先生が必ず仰ったのが「あんたの霊団は相変わらず外国の霊団とよく連絡を取り合っているなぁ」というセリフで、これは、今にして思えば、四十歳代から始まったシルバーバーチの霊訓を初めとするスピリチュアリズム関係の文献の翻訳に備えていたことを指しているのであろう。
これに関連して不思議でならないのは、関西地方と中国地方だけを回っておられた先生が、私が東京の大学へ進学して直ぐから、毎月一回先生も上京され、三日ばかりの滞在中に必ず私を呼び出して霊査をしてくださり、卒業と同時に先生も上京されなくなったことである。まるで私の霊的身辺警護の為に上京されたみたいで、これも霊団側の配慮だったのかと思うと、恐縮この上なく思うと同時に、使命の重大さを改めて思う次第である。
私がシルバーバーチの霊言と出会ったのは大学二年生になったばかりの時で、同じく浅野和三郎の弟子で『心霊と人生』(現在は廃刊)の編集主幹だった脇 長生氏から「君は英文科だったね?」と言われ「そうです」と言うと「じゃあ、この中から何かいい記事を訳してくれないかな」と言いながらPsychic Newsという英国の週刊心霊紙を手渡してくれた。
初めて見る英字新聞ということで、わくわくする気持で下宿に持ち帰って二ページ目を開いた時に真っ先に目に飛び込んできたのが、あのインディアンの似顔絵だった。その瞬間、なぜかその似顔絵に何とも名状し難い親しみを覚えた。更にそれを取り囲むように掲載されている霊言を読むと、実に平易な語り口でありながら、その一語一語に秘められた意味がどこか深遠であることだけは直観できた。が、訳そうとすると適切な日本語が全く出てこない。英語どころか日本語もまだまだ力不足だったということである。
それでシルバーバーチは敬遠して、今なお話題性が消えていない<ヒマラヤの雪男>の話が出ていたので、真偽のほどは別として、ともかくも訳した。それが『心霊と人生』に掲載された時の嬉しさは、自分の書いたものが活字になった最初だったので言葉に尽くせないものがあったが、実はその訳文を間部先生も読んでおられて、私の翻訳家としての素質を直観されたらしく、三年後に大学を終えて帰省する途中で上野市のご自宅に先生をお訪ねした際には、先生の霊団には既にシナリオが出来ていたらしい。
座敷へ通されて先生と対座した時、先生がまだキチンと居ずまいを正さない内に「ああ、分かった、分かった」と独り言のように呟いてから私の方を向いて「あたしと一緒に仕事をしませんか?」と仰って、心霊週刊紙や月刊誌から抜粋して翻訳する役目を私に依頼された。その第一号が僅か一ヵ月後に『心霊時報』のタイトルで出た。その記事は上野市駅から福山までの、あのガタガタと揺れる列車の中で訳したものだった。
それはA3判を二つ折りにしただけのガリ刷りで、体裁はお粗末だったが、回を重ねる毎にページ数を増し、年に何回か別冊を出す程までになった。それを全て先生は、そうでなくても苦しい財布から賄われた。引用したジャーナルは英国のPsychic NewsとTwo WorldsとSpiritual Healer 米国のPsychic ObserberとCHIMES 計五種類の週刊紙と月刊誌で、その全ての出版社から私が翻訳転載の権利を取得し、その中から貴重なものを選んで翻訳した。
先生も懐が苦しかったが、私もたまに小遣いを頂く以外、翻訳に関する限りは無報酬なので、生活費は家庭教師をして稼ぐしかなく、やがてそれが英語教室(塾)という形に発展して行ったが、そこには霊団側の遠謀深慮があったようである。つまり翻訳の仕事によって飛躍的に英語力がつく一方で、「教えることは学ぶこと」の格言通り、受験生を教えることによって自分の英語を細かく点検することになり、それが翻訳に緻密さと大胆さを与えてくれたように思う。結局それは、その後のシルバーバーチを初めとするスピリチュアリズム関係の古典的名著を翻訳する為に訓練だったように思える。
さて私の霊査の話に戻って、当時の私は勉強の時の姿勢が悪かったらしく、胃の裏辺りに歪みがあり、先生はしきりに擦っておられたが、そのうち私は寝入ってしまった。やがて起こされて先生に背を向けて正座すると、拍手が二つ聞こえて「はい、結構です」と言われた。
私がその時に聞いた言葉はその一言だけであるが、実は私が寝入っている間に、私の今生の使命を示唆する啓示が先生に下りていたらしい。「らしい」というのは、傍らにいた母がそれを見聞きしていて、ずっと後-私が一人前の社会人になってから-「実はネ、お前が寝入っている間に先生が・・・」と語ってくれたのである。それは私がスピリチュアリズム思想の普及に重大な使命を帯びていることを暗示するもので、どうやらその啓示と共に私の守護霊団と英国の霊団が姿を見せたらしいのである。そう推察する根拠は、先に紹介したドロシー・トゥールが最近になって同じようなことをE-メールで伝えてきているからである。
そういえば月一回の霊査で先生が必ず仰ったのが「あんたの霊団は相変わらず外国の霊団とよく連絡を取り合っているなぁ」というセリフで、これは、今にして思えば、四十歳代から始まったシルバーバーチの霊訓を初めとするスピリチュアリズム関係の文献の翻訳に備えていたことを指しているのであろう。
これに関連して不思議でならないのは、関西地方と中国地方だけを回っておられた先生が、私が東京の大学へ進学して直ぐから、毎月一回先生も上京され、三日ばかりの滞在中に必ず私を呼び出して霊査をしてくださり、卒業と同時に先生も上京されなくなったことである。まるで私の霊的身辺警護の為に上京されたみたいで、これも霊団側の配慮だったのかと思うと、恐縮この上なく思うと同時に、使命の重大さを改めて思う次第である。
私がシルバーバーチの霊言と出会ったのは大学二年生になったばかりの時で、同じく浅野和三郎の弟子で『心霊と人生』(現在は廃刊)の編集主幹だった脇 長生氏から「君は英文科だったね?」と言われ「そうです」と言うと「じゃあ、この中から何かいい記事を訳してくれないかな」と言いながらPsychic Newsという英国の週刊心霊紙を手渡してくれた。
初めて見る英字新聞ということで、わくわくする気持で下宿に持ち帰って二ページ目を開いた時に真っ先に目に飛び込んできたのが、あのインディアンの似顔絵だった。その瞬間、なぜかその似顔絵に何とも名状し難い親しみを覚えた。更にそれを取り囲むように掲載されている霊言を読むと、実に平易な語り口でありながら、その一語一語に秘められた意味がどこか深遠であることだけは直観できた。が、訳そうとすると適切な日本語が全く出てこない。英語どころか日本語もまだまだ力不足だったということである。
それでシルバーバーチは敬遠して、今なお話題性が消えていない<ヒマラヤの雪男>の話が出ていたので、真偽のほどは別として、ともかくも訳した。それが『心霊と人生』に掲載された時の嬉しさは、自分の書いたものが活字になった最初だったので言葉に尽くせないものがあったが、実はその訳文を間部先生も読んでおられて、私の翻訳家としての素質を直観されたらしく、三年後に大学を終えて帰省する途中で上野市のご自宅に先生をお訪ねした際には、先生の霊団には既にシナリオが出来ていたらしい。
座敷へ通されて先生と対座した時、先生がまだキチンと居ずまいを正さない内に「ああ、分かった、分かった」と独り言のように呟いてから私の方を向いて「あたしと一緒に仕事をしませんか?」と仰って、心霊週刊紙や月刊誌から抜粋して翻訳する役目を私に依頼された。その第一号が僅か一ヵ月後に『心霊時報』のタイトルで出た。その記事は上野市駅から福山までの、あのガタガタと揺れる列車の中で訳したものだった。
それはA3判を二つ折りにしただけのガリ刷りで、体裁はお粗末だったが、回を重ねる毎にページ数を増し、年に何回か別冊を出す程までになった。それを全て先生は、そうでなくても苦しい財布から賄われた。引用したジャーナルは英国のPsychic NewsとTwo WorldsとSpiritual Healer 米国のPsychic ObserberとCHIMES 計五種類の週刊紙と月刊誌で、その全ての出版社から私が翻訳転載の権利を取得し、その中から貴重なものを選んで翻訳した。
先生も懐が苦しかったが、私もたまに小遣いを頂く以外、翻訳に関する限りは無報酬なので、生活費は家庭教師をして稼ぐしかなく、やがてそれが英語教室(塾)という形に発展して行ったが、そこには霊団側の遠謀深慮があったようである。つまり翻訳の仕事によって飛躍的に英語力がつく一方で、「教えることは学ぶこと」の格言通り、受験生を教えることによって自分の英語を細かく点検することになり、それが翻訳に緻密さと大胆さを与えてくれたように思う。結局それは、その後のシルバーバーチを初めとするスピリチュアリズム関係の古典的名著を翻訳する為に訓練だったように思える。