自殺ダメ



 以上、前章までに述べたことと若干重複することを承知の上で「スピリチュアリズムの裏話」とでもいうべきものを紹介したが、読者は、多分、それぞれの人生体験からそれぞれの感慨を抱かれたことであろう。筆者も筆者なりの特異な人生を歩んできただけに、何度反芻してもその感慨は変わらない。それをここで披露して本稿を閉じたい。
 筆者は近藤家の三男として昭和十年に台湾で生を享けたが、時あたかも太平洋戦争勃発の直前だった。そして昭和十六年十二月の日本海軍による真珠湾攻撃で、事実上、米国との一騎打ちの大戦へと突入する。物質の乏しい日本に勝ち目はない。その後の太平洋諸島での激突に連戦連敗して追い詰められた日本軍は、やがて神風特攻隊を編成する一方で学徒隊動員令を発し、筆者の長男豪男(ひでお)も学生服のまま弁当だけもってトーチカ工事に駆り出される毎日となった。そして遂に昭和二十年八月十五日に天皇による敗戦宣言、所謂「玉音放送」がラジオで流された。しかし音声が聴き取りにくかった上に「ポツダム宣言を受諾することとなれり」が無条件降伏を意味することを理解出来た人は殆どいなかった。ましてや空襲の少ない台湾の軍隊は一体どうなっているのか分からないまま、その夜はみんなヤケ酒をあおったらしい。
 そのことが巡り巡って筆者のスピリチュアリズム人生を決定づけることになるとは誰に予想出来たであろうか。事実そうなったのであるから、そこに人智を超えた因果律が働いたことは間違いないであろう。しかもその間に大本教事件や関東大震災という大事件があり、長男の死という、母にとっては腕をもぎ取られるような悲しみと苦しみがあり、それらが全て重要な要素となっているのである。「人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅」でその一部始終を述べたが、ここでも煩を厭わずそのあらすじを述べておこう。
 ヤケ酒で二日酔いだった陸軍の兵士達は「敗戦」が確認されないまま、ともかくもトーチカ工事だけは続けることにした。学生達も、いつものように弁当だけを持って送迎のトラックを待った。母もいつものように弁当をこしらえて兄に手渡したが、霊感の鋭い母は、一週間程前から毎日のように続いている不吉な現象が気掛かりだったからであろう、弁当を持たせるのを忘れた!と勘違いして、慌てておにぎり弁当をこしらえて兄の後を追いかけた。
 待ち合わせのバス亭まで来ると、トラックに学生五十人ばかりが次々と後部から乗り込んでいて、兄が最後に乗り込んだところだった。近寄った母が「豪ちゃん、弁当!」と言うと「あるよ、ほら」と言って弁当包みを見せた。勘違いだったと知った母は、しかし、食べ盛りの男の子だったので「二つくらい食べられるでしょう、これも持っていきなさい」と言って差し出した。が、友人達の手前、さすがに照れくさかったのであろう、兄は「いいよ」と言って受け取ろうとしない。「まあ、折角だから、持っていきなさいよ」と母は差し出すが、「いいって言ったら」と、兄はやはり受け取らない。そうこうしている内にトラックが動き出した。やむをえず母はトラックから離れた。そして、その弁当を両手で腕の辺りに抱えるように持ったまま、段々離れて行くトラックと兄の姿をじっと見送った。それがこの世の見納めとなるとは露知らずに・・・兄の方もその母の姿を、内心申し訳ないと思いながら見つめていたことが、死後、明らかとなる。
 そのトラックが川に転落したという知らせが届いたのは母が家に帰って間もなくの事だった。母は脱兎の如く家を飛び出し、当時十歳だった筆者も、母の血相を変えた勢いにつられて飛び出し、母の後を追って走りに走った。現場に来てみると真夏の日照りで干上がった川原の広い範囲に学生が横たわっている。酩酊運転で曲がり角の橋で運転を誤り、欄干に激突して全員が放り出されたという。兄の姿が見当たらないので聞くと、重傷者は陸軍病院に搬送されているという。そこでまた病院まで走りに走った。
 病院に着いて人だかりのしている病室を覗いて目に入った光景は悲惨だった。三人が血だらけの状態で横たわっている。その一人が兄だった。左脚が太ももの辺りで切断され、皮一枚で繋がっている。そこからの出血が致命傷となった。母が名前を呼びながら胸にすがった時はまだ脈があったらしい。母は直ぐに輸血を申し出て、二度三度と試みたが、時既に遅く、間もなく息が途絶えた。兄はトラックの最後部にいたので一番遠くへ飛ばされ尖った岩に叩きつけられたのであろう。生き残った友人の話によると、激突した時兄は靴の紐を結び直していたという。完全に虚をつかれた訳であるが、筆者の考えでは、そこには因果律による配剤があった筈である。兄は死ぬべき時に死んでいったのである。それは母親にとって譬えようもなく惨い仕打ちではあるが、この母にとっては果たすべき使命があったのである。
 シルバーバーチの言葉に「タフな魂にはタフな使命が与えられます」というのがある。タフtoughという言葉には色んな意味があるが、「タフな魂」とは強靱な霊力を秘めた魂、「タフな使命」とは「価値ある仕事」という意味であろう。「価値ある仕事には艱難辛苦がつきまとうものです」という、もう一つのシルバーバーチの言葉と表裏一体と見てよいであろう。恩師の間部先生も「価値ある仕事ほど苦難がつきまといます。苦難が生じた時は喜んで受け入れなさい」と仰っていた。筆者の七十年の人生で見聞きし体験したことからみても、母の人生はまさにこの二つのシルバーバーチの言葉を体言していることを痛切に感じて、尊敬の念すら覚える。シルバーバーチは「苦の極み、悲しみの極みを体験して初めて魂は真の向上進化を遂げるのです」とも述べている。何という冷徹な言葉かと思えるが、霊的次元の段階ではそれが真実なのであろう。
 五人の男児と一人の女児を産んだ母は、ついに男児一人を失った。それも、これから青年期に入る頼もしい長男、しかも終戦日に、行かなくてもいい軍の工事に駆り出され酒気帯び運転の事故で命を失った。両親の無念はいかばかりであったろうか。父が要職にあった為に葬儀は盛大を究めたが、同時に、要職にあったが故に、一刻も早く本国へ引き揚げなければならない。葬儀が終わったその日に両親は徹夜で荷物をこしらえ、まだ暗い早朝に引き揚げ船が出る新竹の港へ急いだ。父は敗戦の残務整理も終えていたという。後で聞くとその翌日中国軍が父の官舎に踏み込んだという。もう一日遅れていたら、我々兄弟は中国残留孤児となっていたかもしれないのである。
 当時私は十歳。兄の死も、敗戦も、引き揚げも、その本当の意味は分からないまま、ただ親に言いつけられるままにしていただけで、悲しみも苦しみも大変さも分かってはいなかった。夜陰に乗じて家を出て、身を隠すようにして港へ向かう途中、暗い線路の枕木を踏みしめながら、乳飲み子の末っ子を背負い、片手で三つになったばかりの妹の手を握り、もう一方の手に荷物を持った母の背中を見つめながら、弟と並んで両手に荷物を持ってテクテクと歩いていった時の様子が、妙に目に焼き付いている。父と次兄は万一を考えて別行動をとった。そして新竹の港で無事落ち合った。
 本土へ帰還してからの大変さは戦後の日本人の大半が味わったことであるから、こと改めて述べるのは控える。熊本の母方の親戚を頼って訪ねたが、次々と引揚者が帰って来てどこも一杯で、落ち着いたのは熊本の奥の奥の更に奥の家の馬小屋だった。切れ者の父がとんとん拍子に出世して頂点を極め、豪邸に住まって四人のお手伝いをおいていた時代もあっただけに、その落差に両親はどういう思いをしたことであろう。
 が、葬儀を終えて慌ただしく引き揚げてきた母は、その言語を絶した苦難とは別に、長兄のことが片時も心から離れることがなかった。「さぞ痛かったことだろう」「今どこでどうしていることだろう。きっとこの宇宙のどこかにいる筈だ。あれ程の魂が消えてなくなる筈はない」こうした思いを何度も反芻していたという。