自殺ダメ
多慶子夫人の守護霊が《小桜姫》の名で知られる、戦国時代の武将・三浦荒次郎の妻であることは浅野氏による『小桜姫物語』で広く知られているが、その夫人が霊媒となり浅野氏が審神者(さにわ)となって入手した膨大な量の霊言通信がその根拠となっているにもかかわらず、多慶子夫人ご自身は米寿(八十八歳)を迎える前年の昭和四十四年(1969)までは実感をもってそのことを信じたことはなかったという。「なぜ?」と驚かれる方が少なくないことであろう。
夫人は霊媒のタイプとしては入神霊媒、英語でいうトランス霊媒 Trance Mediumの部類に入るが、生涯この子桜姫と名乗る霊以外の霊が喋ったことはない。子桜姫が最初で最後だったということであるが、トランス状態から通常意識に戻った時、トランス中のことは夫人自身には何一つ記憶がない。従って子桜姫がいくら自分はこの女性の守護霊ですと述べても、夫人は浅野氏からそう言われて「そうなのか」と思っただけで、何の感慨もなかったという。そんな中、昭和四十四年、即ち浅野氏が他界して三十二年が経って、《三浦一族会》の会長を名乗る岩間 尹氏が浅野家を訪ねて来た。そして、次のような興味津々の心霊話を語った。
ある夜の丑三つ時(二時)頃、ふと目が覚めると、平安朝風の着物を纏った美しい女性が数メートル先に伏目がちの姿勢で座っているのが目に入った。誰だろうと思っている内に消え入るように見えなくなった。何かの錯覚だろうと思いながらその夜は直ぐに寝入った。が、翌日の夜もほぼ同じ時刻に目が覚めて同じ映像を見た。違うのは前夜より少し近付いていて、見えた時間も少し長かったことである。次の夜も、更に次の夜も同じことが続き、距離と時間が日毎に延び、姿勢もキチンと正し、数日後にはついに口を開いて、自分は横浜の鶴見に住む浅野多慶子という未亡人の守護霊で、地上時代は三浦荒次郎の妻だったという趣旨のことを述べたという。
多慶子夫人はこの話を聞いた時初めて、死後の世界と守護霊の実在に得心がいったという。応接間で撮ったハガキ大の岩間氏の写真の裏には「昭和四十四年十一月二十五日 三浦一族会長 岩間 尹先生 七十五才」という、多慶子夫人直筆の記入がある。よほど嬉しかったのであろう。
多慶子夫人の守護霊が《小桜姫》の名で知られる、戦国時代の武将・三浦荒次郎の妻であることは浅野氏による『小桜姫物語』で広く知られているが、その夫人が霊媒となり浅野氏が審神者(さにわ)となって入手した膨大な量の霊言通信がその根拠となっているにもかかわらず、多慶子夫人ご自身は米寿(八十八歳)を迎える前年の昭和四十四年(1969)までは実感をもってそのことを信じたことはなかったという。「なぜ?」と驚かれる方が少なくないことであろう。
夫人は霊媒のタイプとしては入神霊媒、英語でいうトランス霊媒 Trance Mediumの部類に入るが、生涯この子桜姫と名乗る霊以外の霊が喋ったことはない。子桜姫が最初で最後だったということであるが、トランス状態から通常意識に戻った時、トランス中のことは夫人自身には何一つ記憶がない。従って子桜姫がいくら自分はこの女性の守護霊ですと述べても、夫人は浅野氏からそう言われて「そうなのか」と思っただけで、何の感慨もなかったという。そんな中、昭和四十四年、即ち浅野氏が他界して三十二年が経って、《三浦一族会》の会長を名乗る岩間 尹氏が浅野家を訪ねて来た。そして、次のような興味津々の心霊話を語った。
ある夜の丑三つ時(二時)頃、ふと目が覚めると、平安朝風の着物を纏った美しい女性が数メートル先に伏目がちの姿勢で座っているのが目に入った。誰だろうと思っている内に消え入るように見えなくなった。何かの錯覚だろうと思いながらその夜は直ぐに寝入った。が、翌日の夜もほぼ同じ時刻に目が覚めて同じ映像を見た。違うのは前夜より少し近付いていて、見えた時間も少し長かったことである。次の夜も、更に次の夜も同じことが続き、距離と時間が日毎に延び、姿勢もキチンと正し、数日後にはついに口を開いて、自分は横浜の鶴見に住む浅野多慶子という未亡人の守護霊で、地上時代は三浦荒次郎の妻だったという趣旨のことを述べたという。
多慶子夫人はこの話を聞いた時初めて、死後の世界と守護霊の実在に得心がいったという。応接間で撮ったハガキ大の岩間氏の写真の裏には「昭和四十四年十一月二十五日 三浦一族会長 岩間 尹先生 七十五才」という、多慶子夫人直筆の記入がある。よほど嬉しかったのであろう。