自殺ダメ



 [日本人の心のふるさと<かんながら>と近代の霊魂学<スピリチュアリズム>]近藤千雄[著]より


 (1)霊的構成

 一霊・四魂・五情


 人間誰しも、生涯のどこかで、「自分とは何なのだろう?」「何の為に生きているのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」といった疑問を抱くものである。
 が、食べる・飲む・眠るといった、生きる為の生理的欲求は絶対的なものであり、更には農業・工業・漁業或いは頭脳労働・家事といった、生きる為の必要条件にも追いまくられて、一日があっという間に終わってしまう。
 筆者も理知的思考力の芽生えた高校生時代にそうした疑問を抱くようになり、『哲学入門』や『三太郎の日記』といった、当時の学生の間でよく読まれていた哲学書を読んだものであるが、それ以外の時は受験勉強に追いまくられ、学校ではスポーツでエネルギーを発散していた。
 そうした中でスピリチュアリズムとの出会いがあった。高校二年生の終わりだったと記憶する。その出会いの原点へ遡ると終戦直後の長兄の事故死と母の嘆きに行き着く。それについては今ここで細かく述べると本章のテーマから免れる惧れがあるので、その出会いで筆者の生涯が決定付けられたと述べるに留める。
 さて、神道では人間という存在について《一霊・四魂・五情》という表現をする。意識の本体としての《霊》、それを表現する媒体としての四つの《魂》、そして表現される喜・怒・哀・楽・怨または欲の五つの《情》をもって人間生活を集約している。
 善悪の判断力、所謂良心や理知的能力、それに知性はどうなるのかという疑念を挟む向きもあるかも知れないが、これは《霊》と《魂》にあることがスピリチュアリズムで説明がつく。
 筆者は今、霊のことを[意識の本体]という表現をした。霊とか魂という用語は人によって様々な意味に用いられていて、今もって一定しない。それは英語でも同じで、霊はsprit、魂はsoulであるが、両者はどこがどう違うかと問われて明確に答えられる人はまずいないであろう。それだけ捉え難い性質をしているということでもある。本章ではスピリチュアリズムの観点からそれに具体的な解説を施してみたいと思う。

 三位一体の存在

 スピリチュアリズムの発達によって明らかになったことの一つに、人間が霊と魂と肉体の三位一体の存在であることが挙げられる。三位一体ということは三者を切り離すことが出来ないということで、本来の自我である霊は魂と肉体の制約を受け、魂は霊と肉体の制約を受け、肉体は霊と魂の制約を受けている。
 これを図式化したのがここに掲載したMan`s Bodies(人間の身体)と題するイラストである。



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図①


 荒魂・和魂・幸魂・奇魂は浅野氏の説にならって筆者が書き加えたもので、肉体と魂の一つであることに着目して頂きたい。一般に「精神」と呼んでいるものはそれら諸々の身体の働きの反映である。
 これはRuth Welch:Expanding Your Psychic Consciousness(霊的意識の開発)から借用したもので、筆者の著書や訳書で紹介したことがあるので御覧になった方も多いと思うが、これと全く同じもの(同一物という意味ではなく、別の霊視能力者が正面から見て描いたもの)がRichard Gerber:a Practical Guide to the Vibrational Medicine(バイブレーション医療-現在翻訳中)にも掲載されている。次ページの図②がそれである。これらのイラストから、人間には肉体を含めて四つの身体があることは最早動かし難い事実と受け止めてよいであろう。


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図②


 日本語には複数形というものがないので、「人間の身体」というだけでは「肉体」と誤解されかねないが、英語では“Bodies”と複数形になっていることに注目して頂きたい。つまり全部で四つの身体があって、肉体はその内の一つに過ぎず、地上生活を営む為に必要な機能を具えた身体ということである。言い換えれば肉体は自分ではなく、自我が使用する道具の一つに過ぎず、それを使用する自我は霊的存在で、肉体の死後にも存在し続ける。つまり今度は幽体でもって生活することになる。
 図①に付記してあるように、肉体のことを神道では荒魂と呼ぶ。キメの荒い身体ということで、これが食欲と性欲を主体とする肉体的煩悩の媒体である。もしこれだけであれば動物と選ぶところがないが、イラストで御覧の通り、肉体を包み込むように幽体という、肉眼には映じないが肉体に近い性質(半物質ともいう)の身体が具わっている。これが感情や情緒、芸術的感性や審美眼等の媒体となっている。神道で和魂と呼ぶのは、和やかさを生み出す媒体だからである。
 もっとも、それはプラス面、ないしは陽性の面が顕現した場合であって、仏教で[煩悩]と呼んでその消滅の為に各種の難行苦行を説いているマイナス面、ないしは陰湿な面が顔を覗かせることもある。
 同じことが次の霊体、神道でいう幸魂についても言える。本来は理性や知性、論理性、学術性などを担当する高等な媒体であり、学者などのオーラを霊視すると、その性向を示す色彩が顕著であるという。が、これが一転して利己的な方向へ働くと、知的罪悪を生むことになる。

 人間的規範と霊的規範

 筆者は今[罪悪]という用語を用いたが、これは在来の観念、いわば地上的常道を逸脱した場合や法律を犯した場合のことである。が、スピリチュアリズムの発達によって明らかになってきた意外な事実の一つに、地上的観点から見れば罪悪であっても、霊的観念からすれば罪でも悪でもないものがあり、逆に、地上的常識からすれば立派そうなことでも、霊性の進化という観点からすればマイナスとなるものが少なくないことが挙げられる。
 その一つが煩悩からの解脱を目的とする難行や苦行、或いは座禅や瞑想といった修業である。これが度を超すと危険であり、死後に悪影響をもたらすことすらあると言われる。
 なぜか?その論理的解説よりも、筆者の師である間部詮敦氏が「浅野先生の四魂説を知って、それまでの修養書を全部捨てた」と述べた、その一言の意味を解説する方が解り易いであろう。
 間部氏は生まれながらの霊能者で、若い頃から神道流の修業を積んだ方である。その間部氏が中年に至って浅野氏と出会ったことで、それまでの[行]の空しさを悟ったという。
 もとより試行錯誤の真剣な修業の積み重ねがあったればこそ、浅野氏を介してスピリチュアリズムと出会ったことで一瞬にしてその要諦を悟ることが出来たのであろう。
 これを、神を擬人化して分かり易く表現すれば、神は人間がイラストにある通りの四つの媒体を正しく活用して生活を営むように意図しているのであって、指導的地位にある者は別格として、一般の人が[行]という言葉に安直な魅力を感じて肉体を痛めつけ苦しませても、それだけでは霊性も霊能も開発出来ないということである。マイヤースの通信にも次のような一節がある。

 ナザレのイエスの宗教は怖じけることを知らない宗教である。それに引き換え、ブッダの宗教は一種の論理的臆病とでも言うべき逃避的態度、即ち輪廻に轍(わだち)から逃れることを目的とした宗教であるように思う。それは[霊的開発]とか[霊的完全性の希求]といった高尚な表現で片付けられる性質のものではない。
 ブッダが弟子達にありとあらゆる欲望を抑制せよ、五感を通して得られる楽しみは本質的に[悪]であると説き、それ故、その悪にはまらない為にはそれから逃避せよ-誘惑を避け世俗と肉欲の世界に背を向けよ-と説いた時、それは苦への恐怖、神が賦与した人間的本性への恐怖を自ら表明したも同然であった。
 イエスはその逆を説いた。肉体的欲求と悪の世界から眼を逸らさなかった。ありとあらゆる階層の人間との交わり、程よく抑制した欲望の満足を悪とは決め付けなかった。それどころか、そもそも人間がこの地上に生を享けるのは物的生活が教える教訓を勇気をもって学び、性格を発達させ、来るべき死後の世界での旅に備える為であることを認識していた。
 確かに、イエスは祈りと瞑想だけに生きる隠遁者の集団[エッセネ派]の生活を非難しなかった。それは事実である。彼は、そうした生活もある種の人間には必要と見たのである。しかし、彼自身としては世間から隔絶した生活は満足のいくものではなかった。そうした生活の限界が見えていた。つまり偏った人間性のみが発達すると見たのである。彼はそれよりもっと勇気のいる人生を求め、世俗の中に入り、この世にあってこの世に毒されない完璧な人間的生活が可能であることを、身をもって示したのだった。
 イエスは時には怒りをあらわにし、時には悲しみに沈み、時には童子の如く無邪気にはしゃいだ。またユダヤの司祭や律法学者、その他のいじけた魂の持ち主と対峙した時は、威厳に満ち溢れ霊感に輝いて見えた。要するに地上の人間として最高の生き方の手本を見せたのだった。

 神体は《霊的流入》の証

 神体または本体のことを神道では奇魂と呼ぶ。やまとことば的な分析をすれば、奇は「くしび」即ち不可思議、神秘的、霊妙といった意味であるが、「くし」は「櫛」に通じ、多くのものを一つに纏める作用を意味する。例えば生き字引のように知識を蓄えるばかりでは宝の持ち腐れとなるが、それを一つに纏めて新たな知恵ないしは叡智を生み出す力が奇魂である。
 興味深いのは、この神体又は本体が英語でCausal Body(コーザル・ボディ)と呼ばれることがあることである。Causalというのは原因ないしは根源を意味するcauseから来た単語で、要するに存在の根源ということである。
 これを学術的な用語で表現したのは、十九世紀の英国の自然博物学者アルフレッド・ウォーレスで、アメーバから始まって植物、動物と進化し、最後に人類(ヒト)となる段階で《霊的流入》、英語でいうとSpiritual  Influxがあるという説を唱えた。
 これはウォーレスの最高・最大のインスピレーションというべきもので、マレー諸島の標本採集旅行中に思いついた有名な《自然淘汰説》よりも価値の高いものである。ウォーレスは学者としては有名なダーウィンと同時代の博物学者として知られているが、博物学以上に心血を注いだのがスピリチュアリズムで、その研究成果を臆することなく学術誌に発表していった。
 そのことが博物学界の顰蹙(ひんしゅく)を買い、学者としての名誉も地位も失うが、掛け替えのない霊的真理を手にしていたウォーレスはそのことを歯牙にもかけなかった。《霊的流入》の発想はそうした中で得たインスピレーションだった。スピリチュアリズム関係の唯一の著書『心霊と進化と』(潮文社)の「まえがき」の中でこう述べている。

 さて、ここでいささか個人的なことについて述べて置かねばならない。学界の知友が私の妄想だと決め付けているもの(スピリチュアリズム)について皆がその理解に大いに戸惑っていること、そしてそのことが博物学思想の分野で私が持っていた影響力に致命的なダメージを与えたと信じていることを、私は十分承知している。(中略)
 が、事実というのは頑固なものである。知人宅で起きた原因不明の小さな心霊現象がきっかけとなって生来の真理探究心が頭をもたげ、どうしても研究してみずにはいられなくなった。そして、研究すればするほど現象の実在を確信すると同時に、その現象の種類も多岐にわたることも分かり、その示唆するところが近代科学の教えることや近代哲学が思索しているものからますます遠ざかって行くことを知ったのである。
 私は「事実」という名の鉄槌に打ちのめされてしまった。その霊的解釈を受け入れるか否かの問題より前に、まずそうした現象の存在を事実として認めざるを得なかった。前にも述べたように、当時の私の思想構造の中にはそうしたものの存在を認める余地はまるでなかったのであるが、次第にその[余地]が出来てきた。それは決して先入観や神学上の信仰による偏見からではない。事実を一つ一つ積み重ねていくという絶え間ない努力の結果であり、それより他に方法がなかったのである。

 では、《霊的流入》とは一体何が流入するのか。これは霊界通信の中で《神性》と表現されているもので、具体的に言えば良心とか道義心と呼ばれている、善悪の判断力のことである。《神の声》とか《霊的モニター》と呼ばれることもある。
 ここで注意しなければならないことが二つある。一つは、善悪といっても絶対的な善、絶対的な悪、というものは哲学的には存在しない-あくまでも相対的な善であり相対的な悪であるから、霊的視点からすれば当人の霊性の進化を促進するものがその者にとっての善であり、阻害するものがその者にとっての悪である、ということになる。信心深い老若男女が拘る、教義に反するとか伝統にもとるといったこととは、全く無関係である。その時々の《神の声》に忠実に従い素直に行為に移すことが、霊性を高めることになる。
 もう一つ注意しなければならないことは、先に述べた肉体的煩悩や感情的煩悩が余りに強烈な場合は《神の声》が聞こえなかったり、それが常習的になると《霊的モニター》が麻痺してしまうことである。火災報知器が作動しなくなるのと同じであろう。凶悪犯罪の原因は、直接的には因縁霊による憑依とか唆(そそのか)しが考えられるが、間接的にはそれ以前の、良心の麻痺が遠因となっていることを知らねばならない。良心にこそ人間の人間たる所以(ゆえん)があり、従って最終的にはそこに責任が求められるのである。

 「自我」の謎

 以上説明してきたものは霊が自我を表現する為の媒体であって、霊そのものではない。霊と魂と肉体が一体となったのが人間であるから、こうして執筆している「私」という意識も、それをお読みになっている「あなた」という意識も、自我の本体である霊そのものではないことになる。
 シルバーバーチと名乗る古代霊は、それを説明するに当たってpersonality(パーソナリティ)とindividuality(インディビジュアリティ)は「分割出来ない」という意味であるから、これを強いて日本語に置き換えれば、パーソナリティは「地上的人物像」、インディビジュアリティは「究極の存在」となる。
 では究極の存在である《霊》とは何なのか。その問に対してシルバーバーチは次のように述べている。
 霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。無限だからです。言語は全て有限です。私はこれからそれを何とかして説明してみようと思いますが、いかに上手く表現してみたところで、お粗末でぎこちない描写でしかないことを御承知ください。
 宇宙の大霊すなわち神が、腹を立てたり惨酷な仕打ちをしたり我侭(わがまま)を言ったりするような人間的存在でないことは、既に御存じでしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後で働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。それに極小と極大の区別もありません。
 こうした大まかな表現によって私達は自分自身の本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗を掴むことが出来ます。全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させる為です。(中略)
 では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を発現させることが出来るのでしょうか。
 これに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて、本来の生命力との調和を促進しようというものです。要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私は、どれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出して行くべきものだからです。

 これは『シルバーバーチの霊訓』第一巻の九章「霊とは何か」の一部であるが、同じ第一巻の一章は「あなたとは何か」、二章は「なぜ生まれてきたのか」、三章は「なぜ苦しみがあるのか」といった、誰しもが抱く疑問にスピリチュアリズム的観点から答えている。
 しかし、右の引用文からも察せられるように、これまでの常識的人間観とは全く異なる観点から説いているので、まずはスピリチュアリズム的人間観と宇宙観を理解しないことにはラチは明かないであろう。本章を設けたのはその為であって、人体の霊的構成、即ち「四魂説」については既に述べた。これから死後の階層、即ち「四魂説」について述べてみたい。