自殺ダメ




 見れば係りの役人は卓(つくえ)に寄りかかって吾輩の来るのを待って居た。側の卓には書記も居た。仕方がないから吾輩は脱帽して首を下げたが、無作法な奴があればあったもので一向知らぬ顔の半兵衛である。
 「私は契約書の調印をしに参りましたが・・・」
 吾輩がそう言っているのに奴さん依然として返答をしない。次の瞬間に書記の方を向いてこんなことを言っている-
 「モー十分待ってみてもあいつが来なかったら事務所を閉めてしまおう」
 「このつんぼ野郎!俺はここに来ているじゃないが!」
 吾輩は力一杯そう叫んだが、先方では矢張り済まし切っている。色々やってみたが、先方はとうとう立ち上がって、吾輩が約束を無視したことを口をきわめて罵りながら室を出てしまった。
 吾輩も負けずに罵り返してみたものの、どうにもしようがないので、諦めて室を出た。
 「あいつは俺よりももッと酔っていやがる・・・」
 吾輩は心の中で固くそう信じた。
 再び限界の扉を通り抜けたと思った瞬間に何やら薄気味の悪い笑い声が耳元に聞こえたので振り返って見ると、昔吾輩の悪友であったビリーが其処に立って居た。流石の吾輩もびッくりした。
 「何じゃビリーか!とうに汝は死んだ筈じゃないか!」
 「当たり前さ!」と彼は答えた。「しかしお前もとうとう死んじゃったネ。容易にくたばりそうな奴ではなかったがナ・・・」
 「この出鱈目野郎!俺が何で死んでいるものか。俺は少しばかり酔っているだけだ」
 「酔っている!」ビリーはキイキイ声で笑った。「酔っているだけで扉を突き抜けたり、姿が消えたりしてたまるものか!お前がただ酔っているだけならあの役人の眼にお前の姿が見える筈ではないか」
 そう言われて吾輩も成る程と思った。同時に自分の死骸を捜したい気になった。
 次の瞬間に我々はストランド街に行っていた。するとビリーは其処で一人の美人の姿を見つけた。
 「どうだいあの女は?」
 彼は無遠慮に大きな声でそう吾輩に言った。
 「これこれ汝はそんな声を出して・・・」
 「馬鹿!先方の女にこの声が聞こえるもんか!俺は彼女の後をつけて行くのだ」
 「付けて行ってどうする気なのだ?あの女はそんな代物ではない」
 「馬鹿だナお前は!」と彼は横目で睨みながら、「お前もモ少しこの世界のことが判って来ればそんな下らない心配はしなくなる。俺は兎も角も行って来る」
 次の瞬間にビリーは居なくなってしまった。
 吾輩もビリーに居なくなられて急に寂しく感じたが、やがて自分の死体が気になった。不思議なもので幽界へ来てみると、犬のような嗅覚が出来て来て、自分の死体の臭気がするのである。
 臭気を頼りに足を運ぶと、間もなく傷病者の運搬車に突き当って、それに自分の死体が積まれてあることが直ぐ判った。車は病院に行くところなので、吾輩もその車の側について歩いて行った。
 やがて医者が来て我輩の死体を検査した。
 「こりァモー駄目だ!」と医者が言った。「中々手際よくやりやがった。どうだい、この気楽な顔は!」
 吾輩は若しも出来ることならこの藪医者の頭部をウンと殴りつけてやりたくて仕方がなかった。
 「可哀相に・・・」
と言ったのは看護婦であった。
 すると付いて来た巡査が言った-
 「ナニ別に可哀相な奴じゃない。轢かれた時にすッかり泥酔していたのじゃから責は全然本人にあるのじゃ。ワシはこやつをよう知っとるが、何とも手に負えぬ悪党じゃった。こやつが亡くなったのは却って社会の利益になる」
 その瞬間にケタケタ気味の悪い笑い声がするので振り返って見ると、そこに居るのは世にも獰猛な面構えの化け物然たる奴であった。
 「一体きさまは何者だい?」
と吾輩が訊ねた。
 「フフフフ俺の事をまだ知らんのか?」とそいつが答えた。「俺は何年間かお前に付き纏っている者だ!」
 「な・・・・何だと・・・・?」
 「俺はお前の親友だ!お前の気性に惚れ込んで蔭から大いに手伝ってやっている一つの霊魂だ。まァ俺の後に付いて来い。少し方々案内してやるから・・・」
 その瞬間に病院は消え失せてしまった。