自殺ダメ



 これは1914年5月18日の霊夢で現れた実録です。いよいよ地獄のドン底生活の描写が始まります-
 さて自分の居所が大体見当がつくと同時に吾輩は早速その辺をあちこちぶらついてみたが、イヤ驚き入ったことには、今度の境涯は以前の境涯よりも更に一段と品質が落ちる。闇の濃度が一層強く、そして一望ガランとして人っ子一人見当たらない。
 が、だんだん歩き回っている中に、忽ち耳を劈(つんざ)くものは何とも形容の出来ない絶望の喚き声である。オヤ!と驚いていると忽ち闇の裡から一団の亡者共が疾風の如く駆け出して来た。そしてその直ぐ後から遮二無二追いかけて来たのが一群の本物の悪魔・・・。
 悪魔にも本物と偽物とある。幽界辺でおりおり邂逅(かいこう)したのはありァ悪魔の影法師で決して本物ではない。即ち悪魔を信ずる者の想像で形成される、ただ形態だけのものである。ところが、地獄の底で出くわす悪魔と来ては、正真正銘まがいなしの悪魔で、幽界辺りのお手柔らかな代物ではない。想像から生み出された悪魔には蝙蝠(こうもり)のの翼だの、裂けた蹄(ひづめ)だの、角の生えた頭だのがつきものであるが、地獄の悪魔にはそんなものはない。彼等は人間の霊魂ではなく、とても想像だも及ばない恐ろしい族、つまり一種の鬼なのである。
 彼等は手に手に鞭のようなものを打ち振りながら人間の霊魂の群を自分達の前に追い立て追い立て行く。
 「こらッ往生したか!」鞭で打ってはそう罵るのである。「本当の神というのは俺達より外にはない。汝達が平前神と唱えているのはただ汝等の頭脳の滓(かす)から出来た代物だ・・・・」
 そんなことを叫びつつ、段々こちらへ近付いて来て、鬼の一人が忽ちピシャリ!と吾輩の顔を殴りやがった。吾輩もかねて地獄のやりッ振りには慣れているので、早速ソイツに武者振りついてみた。が、どういうものか今度はさっぱり力が出ない。幾ら気張ってみても、ただ目茶目茶に殴られるばかり、さすがの吾輩も今度ばかりは往生させられてしまった。忌々しいやら口惜しいやらで胸の中は張り裂けそうだがいかんとも致し方がない。もがきながら地面にぶっ倒れると、今度は誰かが錐(きり)のようなものを吾輩の体に突き通すので思わず悲鳴をあげて夢中に跳び起きる。イヤその苦しさ!とうとう吾輩も他の亡者共と一緒に、何処をあてともなく一生懸命駆け出すことになってしまった。
 これからが真の恐怖時代の始まりであった。先へ先へと我々は闇の空間を通して駆り立てられ、ただの一歩もただの一瞬間も停まることを許されない。終いには『自我』が体の内部から叩き出されるような気持がした。無論我々は逃げるのに忙しくてお互い同志言葉を聞くことも出来ない。躓く、倒れる、起きる、走る-ただそれだけである。仲間は男もあれば女もある。大抵は衣服を着ているが、どうかすると素っ裸のもある。衣服はあらゆる時代、あらゆる国土のもので、ただの一枚としてボロボロに引き千切れていないのはない。
 我々は陰々たる空気を通してお互い同志の顔位は認めることが出来たが、しかし我々の通過する地方がどんな所であるかはさっぱり見当が取れない。ただ一途に鬼共の鞭から逃れたいと思うばかりで、無我夢中で闇から闇へと潜り入る。
 我々の背後からは鬼共の凄文句が間断なく聞こえて来る-
 「どうだい。これでもかい!これでもかい!呵責は重く褒美は軽い。走れ走れ永久に!汝達の前途は暗闇だ。汝達は永久に救われない。汝達の犯した罪は何時まで経っても許されない。汝達は神を拝まずして悪魔を拝んだ不届き者だ!
 イヤイヤこの世に神は無い。神があるなどとは人間の拵(こしら)え上げた真っ赤な嘘だ。悪があるから善がある。悪が根元で善は影だ。この世に善人などは一人もない。キリストの話は神話に過ぎない。本当にあるものは我々ばかりだ。もがけ!泣け!諦めろ!汝達の幸福の日はもう過ぎた。死後の生命などは汝達の為にはない方がよかった。地上に於いて我々は汝達に仕えた。汝達は今後我々に仕えるべき順番だ・・・」
 こんな種類の悪罵嘲笑が間断なく我々の耳に聞こえて来る。無論彼等の述べるところは大抵は嘘で、言わば我々をがっかりさせる為の出鱈目に過ぎない。しかしその言葉の中には極小量の真理も含まれているので人を惑わせる魅力は充分にある。
 これまでの吾輩は一目で先方の胸中を立派に洞察する力量を有していたものだが、どういうものか今度の境涯へ来てからはさっぱりそれが出来なくなってしまった。付近にいるのは何れも意思の強烈な奴ばかりで、自分の思想を堅固な城壁で囲んであるので、いかに気張ってみてもそれを透視することが出来ない。
 とうとう吾輩は鬼の一人に向かって叫んだ-
 「何時までもこう追われてばかりいてはとてもやり切れない。追われる代わりに追いかける役目にはなれないものかなァ?」
 「訳はないさ」と彼は吾輩の顔をピシャリと叩きながら叫んだ。「もう一つ上の境涯へ行って百人の霊魂をここまで引き摺って来ることが出来さえすれば、その功労で直ぐにその役目になれる。こんな容易な仕事はない。引っ張って来た奴等には皆悪魔を拝ませる・・・・」
 「でも、どうして上の境涯へ行けるだろう?」
 「俺達の方で案内してやるよ。が、向こうへ行ったからとて到底俺達の手から逃げられはしないぞ。ただ俺達の仕事の下働きをやるだけだぞ・・・・」
 とうとう吾輩は悪魔に弟子入りをすることになってしまった。