自殺ダメ



 岩の上も随分暗いことは暗いが、しかしもう触覚に感ずる程の闇ではなかった。が、周囲の状況が少しずつ判るにつれて吾輩は返って失望の淵に沈まない訳には行かなかった。吾輩の打ち上げられた岩というのは、千尋の絶壁から丁度卓のようにちょっぴり突き出たもので、いかにその付近を捜して見ても其処から路らしいものはどこにも通じていない。この時も我輩又例の奥の手を出して祈祷を始めることにした。
  暫くの間何の音沙汰とてもないのでがっかりしかけていると、吾輩の視力が次第に加わって来たものか、左手の崖に開いている一つの孔(あな)が眼に入った。どうやら片手だけはそれに掛かりそうなので、散々足場を探した後で、やっとのことでその孔に縋(すが)り付くことが出来たが、その孔は案外奥の方が開け、暫くトンネル様の箇所を通って末は狭い谷に出抜けている。
 こんな風に述べるとあなた方は地獄はイヤに物質的の所だなと感ぜられるかも知れませんが、しかし我々超物質的の者にとりて超物質的の岩はさながら実体のあるように感じられるのです。そりゃ無論、何処やらに勝手の違ったところはないのではないが、しかしとてもその説明はしかねる。ワードさんはちょいちょい霊界探検に来られるから大体の見当はおつきでしょうが一般の方には事によると腑に落ちないところが多いかも知れません・・・。
 それはそうと吾輩は非常な苦心努力を重ねて歩一歩右の谷を上へ上へと登って行った。暫くして崖の中腹の一地点に達すると、其処から馬の背のような岩が崖に沿いて延長しているので、吾輩はその岩の上を辿ることにした。
 が、やがてその岩もつきてしまったので、吾輩は再び絶望の淵に沈んだ。これ程までに苦心したとどのつまりは矢張り失敗なのかと思うと、最早立っている根気も失せて一旦はベタベタと地上に崩れた。
 そこで色々考えてみたものの結局何の工夫も浮かばない。せうことなしに又祈祷を始めることになったが、余り度々のことで格別の希望をこれに繋ぐ気にもなれなかった。が、不思議なもので、祈祷をやると幾らか精神が引き立って来て、終いにはとうとう又起き上がって出口を探してみる気分になった。
 と、俄かに雷のような轟然たる響きが起こって、巨大な岩の塊が崖の壁面から崩れ落ち、それが狭い谷の上に丁度橋を架けたような按配にピタリと座った。橋の彼方がどこへどう通じているかは無論自分の居所からは見えはしないが、こうなったのは確かに自分の祈祷の効き目に相違ないと感じられたので、大骨折でこのギザギザした橋を上り始めた。随分危ない橋で何度か下の隙間に墜落しそうになったが、構わず前進を続けた。
 やっとの思いでその頂点まで達してみると、その向こう側の渓谷はごろ石だらけの難所であった。其処を歩くには随分骨が折れ、寸前尺退、いつ果つべしとも思えなかったが、吾輩は歯を食いしばって無理に前進を続けた。この時ばかりは平生の負けず嫌いが初めて役に立った。
 が、これが最後の難関であった。出抜けた場所は随分石ころだらけの荒地ではあったが、割合に平坦なので、思わずはっと安心の吐息をついた。吾輩は地獄のどん底から二段目の所まで逆戻りしたのである。しかし吾輩の胸には同時に又新たな心配が起こった-「自分はここで又あの恐ろしい鬼共に追い立てられるのではないかしら・・・・。若しそうであるならやり切れないな・・・」
 が、いつまで経っても何事も起こらず、又何者も出て来ない。すると又別な恐怖が胸に湧き始めた-「自分は折角地獄の底から出るは出ても、矢張りあのイヤにガランとした無人の境に置き去りを食うのではないのかしら・・・・こいつも実に堪らない・・・・」
 自分は一時途方に暮れた。「吾輩の祈祷が受け容れられたと思ったのはあれは当座の気休めで、神様は皮肉に吾輩をからかっているのではないかしら・・・」
 散々煩悶に煩悶を重ねたものの、兎に角闇が幾分薄らいでいることだけは確かなので、この事を思うと幾らか又希望の曙光が煌(きらめ)き出すのであった。