自殺ダメ



 これは6月1日の夜の霊夢で陸軍士官から聞かされた物語の記録です。例によりて理屈抜きで単刀直入的に自己の体験の続きを述べています。

 吾輩は何処を目標ともなしに、ごろ石だらけの荒野をとぼとぼと歩き出した。暫くすると遠方に微かな物音がするので兎も角そちらの方へ足を向けた。すると、直にその物音の正体が判り出した。外でもない、それは鬼の鞭に追い立てられる不幸な者共の叫び声なのである。吾輩はがっかりして足を停めた。今更あの痛い目に遭わされてはやり切れないが、さりとてまるきり仲間無しの孤独生活も堪ったものではない。
 「ハテどうも困ったものだな・・・」
 頭を悩ましている間もなく、俄かに一群の亡者共が、例の大勢の鬼共に追い立てられて闇の裡(うち)からどっと押し寄せて来たので、吾輩は否応なしにその中に巻き込まれて一散に突っ走らざるを得ないことになった。
 暫く駆り立てられてから自分はどうにかしてこの呵責から逃れる工夫はないものかと考え始めた。
 見ると吾輩の直ぐ側を走って行く一人の男がある。吾輩はよろめく足を踏みしめながら辛うじて件の男に話しかけた-
 「ねえ君、何とかしてここから逃げ出す工夫はないかしら・・・」
 「そ・・・そいつが出来れば誠に有り難いが・・・」
 すると鬼の一人が早くも聞き咎めた-
 「ふざけた事をぬかす奴がいやがるな、この中に・・・覚えていやがれこの畜生!」
 一言叫ぶ毎に鬼は我々二人を鞭でビシャビシャ殴った。
 殴る、走る。走る、殴る。まるで競馬だ。が、吾輩はそうされながらも四辺に眼を配った。すると路は次第にデコボコになり、向こうの方に高い崖が突き立っている。その崖の所々に隙間があるのを認めた時に吾輩は仲間の男に囁いた。
 「あれだあれだ!」
 自分達は成るべくそちらの方に近寄るように工夫して走り、いよいよ接近したと見るや矢庭に岩の割れ目の一つに逃げ込もうとしたが、鬼の一人が忽ちそれと感づいて後から追跡して来た。こっちも死に者狂いに走ってみたが、無論鬼には敵わない。忽ちむんずとひっ捕まえられてしまった。
 しかし吾輩は怯まず、仲間の男に入れ知恵した。
 「神様に祈れ祈れ!地獄の中でも神様は助けてくれる・・・」
 入れ知恵したばかりでなく、自分から早速その手本を示した。
 「おお神よ、我を救え!」と吾輩は叫んだ。「キリストの為に我を救え!」
 「黙れ!」と鬼が怒鳴った。「神様が何で汝を助けるものか!神様は正しい事がお好きだ。最初汝の方で神様をはねつけたのだから、今度は神様が汝をはねつける番だ。黙れ!何をどう祈ったところで聴いてくださるものか!神様だって忙しいや。汝のような謀反人の無心などを聞いている暇があってたまるものか。無益な仕事はさっさと止して、大人しくこっちへ戻って来い!」
 それに続いて、例の恐ろしい鞭が、ピシャリピシャリと我々の体を見舞った。吾輩はそれに構わず一心不乱に祈祷を続けたが、仲間の男はとうとう我慢し切れなくなって、元来た方へ逃げ戻った。大勢の中に混じっておれば、幾らか鬼の鞭を避けられると思ったからで・・・。
 その瞬間に吾輩はふと崖の直ぐ下に黒光りのする、イヤに汚らしい池があることに気がついた。吾輩は一瞬の躊躇もなしにその池の中に跳び込んだ。