自殺ダメ



 その池の水が何であるにしても、少なくともそれが以前地獄の底で経験した闇の固形体でないことだけは明白で、どちらかと言えばギラの浮いた地上の汚水に一番よく似寄っていた。
 吾輩は兎も角もこの池を泳ぎ越そうとした。すると鬼も続いて水の中まで追い掛けて来て、吾輩が少しでも水面に顔を出しかけるとビシャビシャ鞭で打つ・・・・。イヤその苦しさと云ったらありません。が、一心に神様を念じながら屈せず前進を続け、首尾よく対岸までこぎつけた。
 それから吾輩は絶壁の真下に蹲(うずく)まりて祈願を込めた。と見れば、吾輩の腰の周囲に一條の細い紐がかかっている。なおよく調べて見ると、それは沢山の環を繋ぎ合わせて拵(こしら)えた一本の鎖で、その環というのが、つまり吾輩が生前積み来たれるホンの僅少の善行のしるしなのであった。それまで吾輩はそんなことにはまるきり無頓着でいたが、かくと認めた瞬間にどれだけ吾輩の胸に勇気が湧き出でたか計り知られぬものがあった。
 かかる中にも、いつしか接近せる鬼は背後から吾輩をビシャビシャ打った。が吾輩はそんなことには少しも頓着せず、急いで腰の鎖を解いた。鎖は心細いほど細いものだが、しかし長さは予期したよりも遙かに長かった。
 吾輩はその鎖の一端をワナに作り、雨のように打ち降ろさるる鬼の鞭を堪えて断崖の面を調べにかかった。間もなく眼に入ったものは壁面からヌッと突き出した岩の一角、しかもその上には狭い一條の畦(うね)がついている。
 何回もやり損ねをした後で、とうとうその岩角にワナを引っ掛けることに成功した。そして細い鎖を頼りに、片手代わりに絶壁を登り始めた。
 「どうぞこの鎖の切れませぬよう・・・・」
 吾輩はこの時ばかりは今迄にも増して真剣に祈念を神に捧げたのであるが、不思議なもので鎖は見る見る太くなるように思われた。暫しの間鬼は依然として背後から吾輩を打ち続けたが、やがてその鞭も届かなくなり、最後に辛くも例の壁面の畦まで辿り着いた。が、四辺は真っ暗がりで、何が何やらさっぱり判らず、鎖はと思って後を振り返って見たが、いつしかそれさえ消え失せていた。
 暫時はただ絶望の吐息を漏らしていたものの、その中良い考えが少しずつ湧いて来た。つまり役にも立たぬ絶望の非を悟り、兎も角もここまでの救護に対して神に感謝する気持になったのである。
 これで気分が幾らか落ち着くと共に、吾輩は再び起き上がってそろりそろりと前進を始めたが、踏み行く路がイヤに狭く、いつ足を踏み外して千尋の絶壁を転がり落つるかと寸刻の油断も出来なかった。
 それでも道幅は先へ進むに連れて次第に広くなり、あまり苦労せずとも歩けるようになった。
 「イヤ何事も強固な意思の力に限る」と吾輩は早くも得意になりかけた。「強固な意思さえあればどんな仕事でも成功する。大抵の人間なら、これ程の目に遭えばがっかりして匙(さじ)を投げたであろうが、憚(はばか)りながら吾輩はちと品質が違う。どんなものだい・・・」
 そう思うと同時にふと爪先を軽石にぶっつけて足を踏み外し、ゴロゴロと絶壁を矢を射る如く転落し始めた。が、あまり遠くも行かない中に岩と岩との亀裂の中に頭部をグイと突き込んだ。
 七転八倒の苦しみを閲(けみ)した後、やっとの思いで亀裂から脱け出して元の場所へ辿り着くは着いたが、それからは、幾らか前よりも清浄な気分になり、気をつけながら前進を続けた。その辺の道路はガラガラした焼け石ばかりの箇所もあれば、ギザギザした刃物の刃のような箇所もあり、そうかと思えば割合に平坦な歩き易い箇所もあった。
 最後にある一つの洞穴の入り口に出たので吾輩は構わずその中に歩み行ったが、不思議なことには穴の内部の方が却って外部よりも明るい。こいつァ変だと思いながら一つの角を回ってみるとそこに待ち伏せしてた四人の奴が出し抜けに飛び掛って来て吾輩を殴り倒し、縄でグルグル巻きにしてしまった。
 その際無論吾輩は全力を挙げて彼等と格闘を試みたのであるが、以前この境涯に居た時とは違って吾輩の力量がめっきり減っていたには驚いた。悪一方の時には地獄で大変幅が利くが、善性が加わるにつれて段々力が弱くなる。その代わり一歩一歩に上の方へ昇って行く。
 今回はこれだけにしておきます。これでつまり吾輩はもう一度地獄の第三の境涯まで盛り返したのですが、前回は他人を虐めて大威張りであったに引き換え、今度はアベコベに他人から虐められる破目に陥ったのであります。
 イヤ今日はこれで失礼します。これから学校へ行って授業を受けるのですが、学問という奴は馬鹿に難しいので吾輩大弱りです・・・。