自殺ダメ
暫くして吾輩は図書館を後に、ガランとした一つの荒野を横切ると、そこには果たして所謂地獄の病院が建っていた。図書館もかなり気味の良くない代物であったが、病院と来た日には尚更とてつもない所であった。兎に角門を潜って玄関口に入って見ると、広いことも馬鹿に広いが、汚いことも又古今無類であった。
「地上の病院とは少々勝手が違うな」と吾輩は考えた。「地上の病院はちと潔癖過ぎるが、こいつぁまるでそのあべこべだ」
汚い廊下を進んで行くと、図らずも一つの手術室に突き当たった。其処には一脚の手術台が置いてあって、その上に一人の男が横たわっていた。手や足がイヤにしっかり縛られているという以外には格別の異状も認めなかったが、やがて一人の医者が来て、その患者の中枢神経の一つに対して恐ろしく痛い手術を開始した。切開される患者の悲鳴、それを凝視する見物人の悦に入った顔付き-いかな吾輩にもそれを平気で見ている気がせぬので、こそこそ部屋を逃げ出して、今度は解剖室へ入って行った。
ここでは生きている男と、それから女とが解剖に附せられつつあった。一個の切り刻まれた体が放り出されると、そいつは再び原形に復する。原形に復したと見ると他の医者が再びそれを切り刻む。何回同じ惨酷事が繰り返されるか知れない。
ある一つの解剖台では、一人の婦人が若いお医者さんの手にかかって今しも解剖されつつあった。婦人の方では悲鳴を挙げて赦してくれと哀願するのでさすがの医者もちょっと躊躇いかけて再びメスを取り上げた。
見るに見兼ねて吾輩がそこへ歩み寄った-
「一体この婦人は何者で、又あなたはどういう訳でそんなにこの婦人を苦しめるのです?何かあなたに対して恨みを買うような事でもしたのですかこの女が・・・」
若い医者はすまし切って冷淡に答えた-
「僕が何でこの女の身元などを知っているものですか!それを知りたいなら、あなた自身で勝手に女に訊いてみるがいい」
仕方がないから吾輩は婦人の方を向いて姓名を訊ねた。すると彼女は手術をちょっと待ってもらって吾輩の問に答えた-
「私ニニイて言いますの。元はパリの花柳界に居たのですがね、あるユダヤ人の囲い者にされて三年ばかりその男の世話になっていましたの」
「厭(いや)な奴だね、ユダヤ人などの世話になって・・・・」
「私だって厭でしたわ。厭で厭でしようがないから時々口直しに役者買いなどをしたのですワ。ところがある日一人の若い俳優と密会している現場に踏み込まれ、骨の砕ける程ぶたれた上に家から叩き出されてしまったの・・・・。
私旦那も怨んだけれど、意気地なしの情夫のことも恨みましたわ。だって、私の事をちっとも庇(かば)ってもくれないで、兎みたいに風をくらって逃げちまったんですもの。それで私は是非この二人に怨みを返してくれようと固く決心したのです。
そうする中に丁度うまい機会が回って来ました。私がその次の懇意になったのはアパッシ(市内無頼団)の団長で、ちょっと垢抜けのした紳士くさい好男子・・・。ずるくて、残忍で人を殺す位のことは何とも思っていないで、私の仕事を頼むのにはそりゃ全く誂(あつら)え向きの人物でした。私は早速ユダヤ人の話をして、あそこへ入れば金子は幾らでも奪えるとけしかけてやりました。
とうとうある晩ユダヤ人の家に押し込むことになって、私がその案内役を引き受けましたの。無論そのユダヤ人はこの上なしのしみったれで、家には泊まり込みの下男が一人と、他に通いの下女が一人雇ってあるだけです。
住居はパリの郊外の、辺鄙(へんぴ)な、くすぶったような所です。
団員の一人が先ずその下男というのをひっぱたいて気絶させておいて、それからどっとユダヤ人の寝室に飛び込んで、爺さんをグルグル巻きにして猿轡(さるぐつわ)をかませてしまいました」
「酷い事をしたものだね」
と吾輩も感心して叫んだ。
暫くして吾輩は図書館を後に、ガランとした一つの荒野を横切ると、そこには果たして所謂地獄の病院が建っていた。図書館もかなり気味の良くない代物であったが、病院と来た日には尚更とてつもない所であった。兎に角門を潜って玄関口に入って見ると、広いことも馬鹿に広いが、汚いことも又古今無類であった。
「地上の病院とは少々勝手が違うな」と吾輩は考えた。「地上の病院はちと潔癖過ぎるが、こいつぁまるでそのあべこべだ」
汚い廊下を進んで行くと、図らずも一つの手術室に突き当たった。其処には一脚の手術台が置いてあって、その上に一人の男が横たわっていた。手や足がイヤにしっかり縛られているという以外には格別の異状も認めなかったが、やがて一人の医者が来て、その患者の中枢神経の一つに対して恐ろしく痛い手術を開始した。切開される患者の悲鳴、それを凝視する見物人の悦に入った顔付き-いかな吾輩にもそれを平気で見ている気がせぬので、こそこそ部屋を逃げ出して、今度は解剖室へ入って行った。
ここでは生きている男と、それから女とが解剖に附せられつつあった。一個の切り刻まれた体が放り出されると、そいつは再び原形に復する。原形に復したと見ると他の医者が再びそれを切り刻む。何回同じ惨酷事が繰り返されるか知れない。
ある一つの解剖台では、一人の婦人が若いお医者さんの手にかかって今しも解剖されつつあった。婦人の方では悲鳴を挙げて赦してくれと哀願するのでさすがの医者もちょっと躊躇いかけて再びメスを取り上げた。
見るに見兼ねて吾輩がそこへ歩み寄った-
「一体この婦人は何者で、又あなたはどういう訳でそんなにこの婦人を苦しめるのです?何かあなたに対して恨みを買うような事でもしたのですかこの女が・・・」
若い医者はすまし切って冷淡に答えた-
「僕が何でこの女の身元などを知っているものですか!それを知りたいなら、あなた自身で勝手に女に訊いてみるがいい」
仕方がないから吾輩は婦人の方を向いて姓名を訊ねた。すると彼女は手術をちょっと待ってもらって吾輩の問に答えた-
「私ニニイて言いますの。元はパリの花柳界に居たのですがね、あるユダヤ人の囲い者にされて三年ばかりその男の世話になっていましたの」
「厭(いや)な奴だね、ユダヤ人などの世話になって・・・・」
「私だって厭でしたわ。厭で厭でしようがないから時々口直しに役者買いなどをしたのですワ。ところがある日一人の若い俳優と密会している現場に踏み込まれ、骨の砕ける程ぶたれた上に家から叩き出されてしまったの・・・・。
私旦那も怨んだけれど、意気地なしの情夫のことも恨みましたわ。だって、私の事をちっとも庇(かば)ってもくれないで、兎みたいに風をくらって逃げちまったんですもの。それで私は是非この二人に怨みを返してくれようと固く決心したのです。
そうする中に丁度うまい機会が回って来ました。私がその次の懇意になったのはアパッシ(市内無頼団)の団長で、ちょっと垢抜けのした紳士くさい好男子・・・。ずるくて、残忍で人を殺す位のことは何とも思っていないで、私の仕事を頼むのにはそりゃ全く誂(あつら)え向きの人物でした。私は早速ユダヤ人の話をして、あそこへ入れば金子は幾らでも奪えるとけしかけてやりました。
とうとうある晩ユダヤ人の家に押し込むことになって、私がその案内役を引き受けましたの。無論そのユダヤ人はこの上なしのしみったれで、家には泊まり込みの下男が一人と、他に通いの下女が一人雇ってあるだけです。
住居はパリの郊外の、辺鄙(へんぴ)な、くすぶったような所です。
団員の一人が先ずその下男というのをひっぱたいて気絶させておいて、それからどっとユダヤ人の寝室に飛び込んで、爺さんをグルグル巻きにして猿轡(さるぐつわ)をかませてしまいました」
「酷い事をしたものだね」
と吾輩も感心して叫んだ。