自殺ダメ



 この長物語を聞いて吾輩はニニイに向かって訊ねた-
 「君は、ユダヤ人の事をあんな酷い目に遭わせて気の毒には思わんかね?」
 「気の毒?何が気の毒なものですか!あれ位の事をしてやるのは当たり前だわ-しかし何ぼ何でもこの解剖室に置かれるのはまっぴらですわ」
 吾輩は今度は若い医者に向かって言った。
 「それにしてもあなたはこの女を苦しめて何が愉快なのです?そりゃこの女は今は随分醜いことは醜い。犯した罪悪の為にさっぱり器量が駄目になっている-しかしこれでも矢張り女です。個人として何もあなたに損害を与えた訳ではないじゃありませんか。なぜこんな酷い目に遭わせるのです?」
 「それでは」と医者が答えた。「この女の代わりに君を解剖してあげるかな」
 「吾輩は御免被る!それにしても君は解剖するのが愉快なのかね?」
 「愉快なのかって?ちっとも愉快じゃないさ。そりゃ最初は他人の苦しがるのを見ると一種の悪魔的快感を感ぜぬではなかった。自分が詰まらない時に他人を詰まらなくしてやるのは何となく気が晴れるものでね・・・。しかし、暫くやっているとそんな虚偽の楽しみは段々厭(いや)になる。現在の我々は格別面白くも可笑しくもなく、ただ器械的に解剖をやっている。自分の手にかける犠牲者に対して可哀相だの、気の毒だのという観念は少しも起こらない。我々は死ぬるずっと以前から、そんなしゃれた感情を振り落としてしまっている。のみならずここに居る者で憐憫に値する者は一人もいない。何れも皆我々同様残忍性を帯びた者ばかりだ。兎に角地獄という所は何をしてみても甚だ面白くない空虚な所だ。ここでは時間の潰し様が全くない。イヤ時間そのものさえも無いのだから始末に行けない・・・」
 そう言い終って、彼はプイとあちらを向いて、グザと解剖刀をば婦人の胸部に突き立てた。
 吾輩は思わず顔を背けその部屋から出ようとすると、忽ち三、四人の学者共が吾輩を捕まえた。
 「今逃げ出した奴の代わりにこいつで間に合わせておこうじゃないか」
 そう彼等の一人が叫ぶのである。
 「冗談言っちゃ困る!」
 吾輩は怒鳴りながら命懸けで反抗してみたが、とうとう無理矢理に解剖台の上に引き摺り上げられ、しっかりと紐で括り付けられてしまった。それから解剖刀で体の所々方々を抉り回されたその痛さ!イヤとてもお話の限りではありません。
 が、そうされながらも吾輩は油断なく逃げ出すべき機会を狙いつめていた。
 間もなくその機会が到来した。二人の医者の間に何かの事から喧嘩が開始された。天の与えと吾輩は台から跳び下り、一心不乱に神様に祈願しながら玄関さして駆け出した。
 一人二人は吾輩を引き止めにかかったが、こんな事件はここではしょっちゅうありがちの事と見えて、多くは素知らぬ風を装って手出しをしない。とうとう吾輩は戸外へ駆け出し、それから又も荒涼たる原野を生命限り根限り逃げることになった。
 が、暫くしても、別に追っ手のかかる模様も見えないので、やがて歩調を緩め、病院に於ける吾輩の経験を回想して見ることにした。
 吾輩が当時痛感したことの一つは、地獄の住民が甚だしく共同性、団結性に欠けていることであった。暫しの間は仲良くしていても、それが決して永続しない。例えば吾輩の逃げ出した際などでも、若し医者達が、どこまでも一致して吾輩を捕まえにかかったなら到底逃げおうせる望みはないのである。ところが一旦逃げられると、そんなことはすっかり忘れてしまって、やがて相互の間に喧嘩を始める。現に吾輩が病院に居る間にも一人の医者がその同僚から捕まえられて解剖台に載せられていた。
 ある一つの目的に向かって義勇的に協同一致する観念の絶無なこと-これは確かに地獄の特色の一つである。
 イヤ今日の話はこれで一段落としておきます。左様なら-
 語り終わって陸軍士官は室外に歩み出ましたので、ワード氏も叔父さんに暇乞いをして地上の肉体に戻ることになったのでした。