自殺ダメ



 吾輩は自分を救ってくれた恩人と別れて、思い切って愛欲の市の城門を潜ると、其処には一人の女が、薄気味悪い面相の門番を捕まえてふざけ散らしていた。その女も無論碌な器量の持ち主ではない。元はこれでも美しかったのかも知れないが、今では悪徳の皺が深く深く刻み込まれているので、一目見てもゾッとする程であった。
 それから暫く市内を歩いてみたが、頓と要領を得られないので、吾輩はギリシャ風の服装をしている一人の男に行き会ったのを幸い、呼び止めて質問を開始した-
 「もしもしこれは何という市です?」
 彼は怪訝な顔をして吾輩を見つめていたが、やがて答えた-
 「一体お前さんは何処から来なすった?いかなる野蛮人でもコリンスを知らない者があろうかい!あの有名なコリンス湾も其処に見えてるじゃないか!」
 そう言って彼は薄汚いドブ池みたいなものを指さすのであった。
 吾輩はこれを聞いて呆れ返ってしまった-
 「君達はあんなドブみたいなものを風光明媚なコリンス湾と見立てて歓んでいるのかね?冗談じゃない・・・」
 「そう云えばホンにちとさっぱりしていないようだね、理屈はちっとも判らないが・・・・。近頃は天気などもどうも何時もどんよりしている・・・」
 「オイオイいい加減に止してくれ。ここは地獄だ。地獄だからこんなに汚らしい・・・・」
 「デタラメを言ってくれては困るよ」と相手の男は吾輩の言葉を遮って叫んだ。「我々が不老長寿の秘伝を発見したものだから神々がお腹立てになってこんなにこの市を汚くしたのだ。お前さんは知るまいが、我々は何時まで経っても死にっこなしだ。ワシなどは何千年生きているのかとても勘定などは出来はしない。が、あんまり長生きも考えもので、死ねるものなら死んでみたいような気にも時々はなるよ。いつもいつも同一事ばかり繰り返していると面白みがさっぱりないからな・・・」
 吾輩は先刻恩人から聞かされたことを思い出して、
 「それほど嫌なら何故ここから逃げ出さないのです?吾輩と一緒にもっと気持のよい境涯へ行こうじゃないか?」
 「ウフフフフ」と彼は笑い出した。「お前さんは余程の田舎者だね。さもなけりゃそんな馬鹿げた考えを起こす筈がない。此処を出るが最後生命が亡くなる。世の中は矢張り生命あっての物種だ。ワシだって本当はまだ死にたくはない・・・」
 「でも君はもうとっくに死んでいるじゃないか!一遍死ねば二度と死ぬる心配はない」
 「死んでいるものがどうしてこう生きていられるかい。馬鹿馬鹿しい!お前さんは狂人だね。黙っていないとみんなから石でもぶっつけられるぜ・・・」
 そう言って彼はプイと行ってしまった。仕方がないから吾輩は独りで往来をブラブラ歩いて行ったが、この辺の建物の大半は朽廃してしまって不潔を極め、元の面影などはさっぱり残っていない。生前吾輩もしばしば廃墟のようなものを目撃したことがあるが、地獄の廃墟は一種それと趣を異にせるところがあった。何処やら妙にむさ苦しく、頽廃気分が濃厚で、画趣風韻と云ったようなものが微塵もない。例えば場末の大名邸を改造して地獄宿か酩酒屋でも開業したと云った按配式なのである。
 吾輩がこんな感想に耽っている間に、それまでガランとして人っ子一人通らなかった街路がにわかに飲んだくれの浮かれ男女で一杯になって来た。そいつらがわっしょいわっしょいこっちへ押し寄せて来て、いつの間にやら吾輩もその中に巻き込まれてしまった。
 オヤッと驚く間もなく、二人の女が左右から吾輩の首玉にしがみつくと、一人の男がいきなりコップを突きつけて葡萄酒らしいものを並々と注いで口元にもって来た。何しろこんな御親切は当時の吾輩に取りて真に所謂空谷の響音、久しい間ただ辛い思い、苦しいことのやり続けで、酒と女とには渇き切っている最中なのだから、無論悪い気持のしような筈がない。とうとう勧めらるるままに一杯振る舞い酒を飲んでしまった。
 すると忽ち四辺にはどっと歓呼喝采の声が破裂した-
 「やぁ飲んだ飲んだ!仲間が一人殖えたぞ殖えたぞ!」
 飲んだ酒は無論美味くも何ともない。酸っぱいような、苦いような、随分ヘンテコな味である。そして飲めば飲む程ますます渇を覚える。吾輩はヤケクソになって矢鱈にそれを飲んだが、さっぱり陶然として酔った気持にはなれなかった。ただ酔ったつもりになって滅茶苦茶に騒ぎ散らすだけのことであった。それから続いて起こった馬鹿馬鹿しいその場の光景、これは到底お話するがものはない。ただ想像に任せておきます・・・・。