自殺ダメ



 言うまでもなく境涯の主なる仕事は酒と女であって、必ずしも残忍性を帯びてはしない。無論稀には残忍な行為も混じる。色情の結果しばしば喧嘩などもしかねない。しかし余りに惨酷な行為をやると、治安妨害者としてコリンス市から放逐されて憎悪の市へと送り届けられる。無論一度や二度の突発的な喧嘩位では追放処分にならないが、それが段々常習性を帯びて来ると、快楽主義の市民は決してそれを黙過しなくなる。
 コリンス市で奨励されることは暴飲、暴食、利欲並びに淫欲-なかんずく淫欲はその中の花形で、ありとあらゆる形式の不倫行為が極度に奨励されるのである。
 コリンス市の女という女はみな売春婦の類で、いかなる娯楽機関もその中心は皆女である。が、吾輩はここいらで黒幕を引くとしよう。言わずにおくところは想像してもらいたい。ただ一言ここに断っておきたいことは、我々が何をやっても頓と満足を得られぬことである。燃ゆるような欲望はありながら、それを満足すべき方法は絶対に無い。
 兎に角吾輩は一時コリンス市の風潮にすっかり被れてしまった。それは幾らか恩人の忠告を忘れた故ではあるものの、主として吾輩に好きな下地があったからである。こんな生活は甚だ下らないものには相違ないが、しかし地獄の底の方で体験した恐怖の後では中々棄て難い趣があったのである。
 その後段々調査を遂げてみると、地獄にはこのコリンス市の外にも愛欲専門の市は沢山あった。吾輩が実地探検しただけでも、パリみたいな所、ロンドンみたいな所は確かにあった。無論コリンスといい、又その他の市といい、愛欲のみが決してその全部ではない。色々の所が切れ切れになって地獄の他の部分、又は霊界のずっと上層に出現しているのである。
 暫くふらついてから吾輩はロンドンの一部らしい所へ迷い込んだ。其処には種々の盗人共が巣を食っていて、お互いに物品の盗みっくらをしていたが、不思議なことには隣人の物品を盗み取ることに成功すると、その物品は忽ち塵芥に化するのである。こんなところを見るにつけても吾輩はしみじみこの空虚な世界が嫌になって来た。ここでは何をやっても真の満足を得ることがなく、真の人生の目的らしいものはまるきり影も形もない。
 が、地獄の中で初めてこの境涯から教会らしいものの設備がある。その司会者というのは地上に居た時分に怪しげな一つの宗派を起こした男で、最初の内は中々上手に愚民をたぶらかし、散々うまい露を吸ったものだが、やがてその陋劣(ろうれつ)な目的と邪淫の行為とが次第に世間に広まりホンの少数の有り難連を残してさっぱり無勢力になったという経歴の男なのであった。
 死後この境涯に置かれてから、彼は生前と同一筆法を用い、コケ脅しの詭弁や人騒がせの予言をもって人気取策を講じ、盗人、山師、泡沫会社の製造人、その他色々の無頼漢などを糾合することに成功した。それ等の中には吾輩の昔の知人なども混じっていて大変吾輩の来たことを歓迎してくれた-イヤしかしその教会の説教と云ったら実にヘンテコなまがい物で、神を汚し、神を傷付けるようなことばかり、そのくせ、説教者自身は故意にそうしようとするのではなく、自分ではせいぜい正しい事を述べるつもりであるのだが、やっている中にいつしか脱線するらしいのであった。その教会で歌っている賛美歌などときては実に猥褻極まる俗謡に過ぎなかった。
 聞くにつけ、見るにつけ、吾輩はますますこの境涯に愛想を尽かしてしまって、一時も早くこんな所から逃げ出したくてしようがなくなった。そうする中に、ある日吾輩がパリの広場を通行していると、沢山の群衆が一人の人物を取り囲んで盛んに悪罵嘲笑を浴びせているのを見出した。よくよく見ると右の人物は体から後光が射して、確かに天使の一人に相違ない。で、吾輩は嘲り笑う群衆の中に混じってその説教に耳を傾けた。彼は熱心に神の恩沢を説き、かかる邪悪な、そして空虚な生活の詰まらないこと、一時も早く悔い改めて、この暗黒界を脱出し、光明の世界を求めねばならぬことを説明した。
 するとこの時群衆の中から怒鳴り出した者があった-
 「馬鹿なことをぬかしやがれ、この嘘つき坊主めっ!俺達は嘘つきの玄人だい。汝達に騙くらかされてたまるかい。汝が講釈(こうしゃく)を叩いているキリスト教では、一旦地獄に堕ちた者は永久に救われないと教えているじゃないか。今更悔い改めたところで間に合うものかい!下らないことをぬかしやがるな!」
 すると又他の一人が叫んだ-
 「汝はこの辺にいる他の坊主共より看板が一枚上だ。汝の姿は天使みたいだが、こいつぁ俺達からお賽銭を巻き上げる魂胆に相違ない。つい先達も一人の奴が出て来やがって、金子を出しぁ救いの綱がかかるなどとお座なりを並べ、馬鹿者から散々大金を絞り上げておいて姿をくらましやがった。ヤイ汝達の手にはもう乗らないわい・・・・」
 この男の言っているところは事実には相違なかった。吾輩も実際そんな詐欺師に会ったことがある。が、偽物と本物との区別は吾輩には一目見ればよく判った。ここにあるのは正真正銘の天使に相違ないので、吾輩は群衆の四散するのを待って早速その傍に歩み寄った。