自殺ダメ



 1914年6月29日の夜、ワード氏は地界から一気呵成に霊界に飛躍し、其処で叔父さんと陸軍士官とに会いました。例によって陸軍士官は地獄巡りの話の続きを始めました-

 吾輩はあの休憩所で何をして暮らしていたか、余りはっきりした記憶がありません。何せ光が馬鹿に強いので、其処に居た間殆ど盲人も同様でした。が、そのお蔭で幾らか心の安息を得た。地獄の他の建物と違って、あそこに入っていると妙に平和と希望とが胸に湧き出るのです。
 あそこでは又、誰だか知りませんが、ひっきりなしに吾輩に向かって心を慰めるような結構な談話をして力をつけてくれる者があった。お蔭で、すさみ切った吾輩の精神も次第に落ち着いてくると同時に、何とも言えぬ気持のよい讃美歌-従来地獄で聞かされた調子外れのガラクタ音楽とはまるで種類の違った本物の賛美歌が、吾輩の心の塵を洗い落としてくれたのであった。
 最後に吾輩を案内してくれた天使がこう言われるのであった-
 「あなたの身も心ももう大変回復しかけて来たから、もう一度下の邪淫境に立ち戻って仲間の一人を説得してこちらへ連れて来ねばなりません。そうすればあなたが前年突き放した大事の大事の御方に会われることになる・・・」
 この逆戻りが規則であってみれば致し方ない。吾輩は再びあの邪淫の市に下って行ったのであるが、お恥ずかしい話だが、こんなイヤに明るい休憩所に居るよりか、暗い邪淫境の方が当時の吾輩にはよっぽど気持よく感ぜられたのであった。
 が、あちらへ行っていざ自分の味方を一人見つけようとしてみると、その困難なるには今更ながら驚かされた。散々捜し回った後で、やっと地獄の生活に嫌気が差して来た一人の女に巡り合った。
 「なぜあなたはこんな境涯から逃げ出そうとはなさらないのです?」と吾輩は彼女を口説き始めた。「あなたの様子を見るに確かにここの生活が嫌になっている。ここにはただの一つも真の快感というものがない。いずれも皆空虚な影法師である。いかに淫事に耽ってみたところでそれで何物が得られます?-一時も早くこんな下らない境涯から脱出してもっと気のきいた所へ行こうではありませんか!吾輩が案内役を務めますから、あなたは後から付いてお出でなさい。道連れがあったらそんなに心細いこともないでしょう」
 「でもねぇ、そんなことをして何の役に立ちますの?」と彼女は中々吾輩の言葉に従おうとはしない。「あなたも御存じの通りここは地獄でしょう。地獄の蟲(むし)は永久に死ぬることなく地獄の火は永久に消ゆることなしと言うじゃありませんか。無駄ですから止めましょうよ・・・」
 「地獄の火が消えようが消えまいが我々がここから脱出出来ないという方はない・・・」
 「でもねぇ、私達は永久に呪われた身の上じゃございませんか。生きている時分に私達は死後の世界のあることを夢にも思わず、地獄のあることなどは尚更存じませんでしたわ。兎角浮世は太く短く・・・・。そんなことばかり考えていましたわ。今になってはその間違いがよく判りました。矢張り正しい道を踏んでいればよかったと思われてなりません。死んで全てが消え失せてしまうなら結構でございます。が、中々そうじゃないのですもの・・・。矢張りお説教で聞かされた通り、ちゃんと地獄がこの通り立派にあって、其処へ自分が入れられているのですもの・・・。しかし何も彼ももう駄目です。今更死にたいだって死なれはしません」
 「イヤ地獄があることはそりゃ事実に相違ないが」と吾輩躍起となって説いた。「坊さん達の言うように、それが決して永久なものでも何でもない。イヤ地獄そのものは永久に存在するかも知れないが、何人も永久にその中に留まる必要はない。吾輩が何よりの証人です。今こそ吾輩こんな所に来ているが、その以前には地獄のずっと低い境涯へ堕ちていたのです。一旦地獄の底まで降りた者が、ここまで登って来たのだから確かなものです」
 「マアそれなら地獄の中にも他に色々変わった所がありますの?私そんなことちっとも知らなかったわ」
 「ある段じゃないです。下にもあれば上にもある。これから大いに上に登って行くのです」
 彼女はじっと吾輩を見つめながら、
 「どうもあなたの仰ることは事実らしいわ。しかし随分不思議な話ね・・・」
 「まあいいから一緒にお出でなさい」
 「お伴しましょうか。しくじったところで目先の変わるだけが儲けものだわ。こう毎日同一事ばかり繰り返しているのでは気が滅入ってしようがありゃしない・・・」