自殺ダメ



 その時闇を通して強く明らかに何やら聞き慣れぬ不思議な音声が響いて来た。それは何処やらラッパを連想させるような一種の諧調を帯びたものであった。耳を澄ますとこう聞こえる-
 「我が兒(こ)よ、余は汝が一歩一歩余に近付きつつあるを嬉しく思うぞ。多くの歳月汝は余に遠ざかるべく努めていた。されど余は暫しも汝を見棄てる事なく、何時か汝の心が再び神に向かう日のあるべきをひたすらに祈っていた-ただ余の姿を汝に見せるのはまだ早きに過ぎる。余の全身より迸(ほとばし)り出る光明は余りに強く、とても現在の汝の眼には耐えられそうにもない」
 「ああ天使様!」と吾輩は叫んだ。「私が神の御前にまかり出ることが出来ないのは、神の御光の強過ぎる為でございましょうか?」
 「その通りじゃ。何人も直に神の御光の前に出ることは出来ぬ。されど何事にも屈せずたゆまず飽くまで前進を続けて行かねばならぬ。余の声をしるべに進め!進むに連れて余の姿は次第に汝の眼に映るであろう」
 そうする中に休憩所の天使の一人が室内に歩み入り、吾輩の手を取りて入り口とは別の扉を開けて戸外に連れ出してくれた。ふと気が付くと、遙か遙か遠い所にささやかな一点の星のような光が見え、次の声が其処から発するように感ぜられた-
 「余に従え!導いてやるぞ」
 吾輩は少しの疑惑もなしに闇の中をとぼとぼとその光を目当てに進んで行った。すると守護神-これは後で判ったのですが-は間断なく慰撫奨励の言葉をかけてくださった。路は険阻な絶壁のような所についていて、吾輩は何回躓き倒れ、何回足を踏み滑らしたか知れないが、それでも次第に上へ上へと登って行った。丁度路の半ばに達したと思われる所に、とある洞穴があってその中から一団の霊魂共が現れて、吾輩目掛けて突撃して来た。そいつ等は下方の谷間に吾輩を突き落とそうとするのである-が、忽然として救助の為に近付いて来たのはかの道標の光であった。それを見ると襲い掛かった悪霊共は悲鳴を挙げて一目散に逃げ去った。
 最早心配なしと認めた時に吾輩の守護神はいつしか元の位置に帰っておられたが、その為に吾輩もほっと一息ついたのであった。何故かというに、吾輩の体も敵程ではなかったが、光に射られていくらか火傷をしていたのであるから・・・。
 その中に路はとある大きな瀑布(滝)の所へ差し掛かった。地上のそれとは違って、地獄の瀑布はインキのように真っ黒で、薄汚いどろどろの泡沫が浮いている。そしてその付近の道はツルツル滑って事の外危険である-が、何人かが人工的にそこえらに足場を付け、しかもひっきりなしに手入れしているらしい模様なのである。吾輩はその時まで成るべく口をつぐんでいたが、とうとう思い切って守護神に訊ねてみた-
 「一体ここの道路を誰が普請するのでございますか?どうしてこんなに手が届いているのでしょう?」
 すると守護神は遠方からこれに答えた-
 「それは地獄の中に休憩所を設けておらるる天使達が義侠的にした仕事じゃ。ここの道路は地獄の第四部と第五部とを繋ぐものでこれを完全に護るのが彼等の重大なる任務の一つじゃ。下の境涯に居る霊魂共は隊伍を組んで、飽くまでもこの道路を壊しにかかっているから油断などは少しも出来ない・・・・」