自殺ダメ



 さて吾輩は又も守護神に導かれて、橋を渡って対岸の哨所に入った。が、ここではちょっと足を停めただけで、再び濃霧の立ち込めた闇の戸外に歩みを運んだ。
 しばらく一つの大きな汚い河流の岸を歩いて行くと、やがて一大都会に到着した。これは世にも陰湿極まる所で、見渡す限り煙突ばかり、製造所やら倉庫やらがゴチャゴチャと建ち並んで、その間にはゴミだらけの市街が縦横に連なっている。何処を見てもむさ苦しく、埃くさく、そして工場の内外には職工がゾロゾロ往来している。吾輩は足を停めて職工の一人に訊ねた-
 「一体君達は何をしている?」
 「工業さ、無論・・・」
 「製造した品物はどうするかね?」
 「売るのだね無論・・・。しかし妙なことには、幾ら売っても売っても其の品物は皆製造所へ戻って来やがる。こんなに沢山倉庫ばかり並んでいるのはその為だ。ここではひっきりなしに倉庫を建てていなけりゃ追っつきゃしない。邪魔でしようがないから一生懸命に売り飛ばしているんだが、それでも何時の間にやら一つ残らず品物が戻って来やがる」
 「焼いてしまったらよかろう」と吾輩が注意した。
 「焼いてしまいって・・・。そりゃ無論焼いている。一遍に大きな倉庫の十棟も焼くのだが、しかし矢張り駄目だね。直ぐに全部がニョキニョキと戻って来る。こいつばかりはしようがない・・・」
 「それなら何故製造を中止しないのかね?」
 「ところがそれが出来ない。不思議な力がここに働いていて、どうしてもひっきりなしに働いて働いて働き抜かなければならなく出来ている。休日などはまるでない。馬鹿馬鹿しい話だが、これも性分だから何とも仕方がない。生きている時分だってこちとらは労働以外に何にも考えたことなんかありゃしなかった。のべつ幕なしに糞骨折って働いたものだ。その報酬がこれだ。せっせと同一仕事を繰り返し繰り返しして、一年、二年、五年、十年、百年・・・。何時までも休みっこなしだ」
 「君達は生きてる時分にはただ物質のことばかり考えていたに相違ない。そのせいで地獄に来ても同じような事をさせられるのだ」
 「なに地獄だって!地獄だの、極楽だのというものがこの世にあってたまるかい!」
 「それなら此処は何処だと思うのかね?」
 「知るもんか、そんなことを・・・。又知りたくもねえや。此処には寺院がありゃ僧侶もある。お前みたいな阿呆に話をする時間はねえ。どりゃ仕事に取り掛かろう」
 そう言ってその男は工場へ入って行った。
 吾輩はやがて大きな広場に来たが、そこには寺院が三つもあった。一つは英国国教、一つはローマカトリック、他の一つは反英国国教の所属であった。吾輩は先ず英国国教派の寺院に入ってみた。一人の僧侶がしきりに説教を試みていたが、随分面白くない説教で、要点は主として他宗の排斥と寄付金の募集とであったが、それを社会の改良だの、下層社会の救済だのという問題に結び付けて長々と述べ立てるのであった。
 会衆はと見るとお説教などに頓着している者は殆どない。隣席の者を捕まえて、ベラベラと他人の悪口を並べるのもあれば、近所に来ている人の衣服の批評を試みるのもある。その他商売上の相談をやる者、議論をやる者等種々雑多で、僧侶の声などは殆ど聞き取れない。
 余りに馬鹿らしいので、吾輩は其処を出て他の二つの寺院へ入ってみたが、何れも似たり寄ったりで、面白くもなんともなかった。
 次に吾輩の出掛けたのは市の中で売店ばかり並んでいる一区画であったが、全体の状況は少しも製造場と変わってはいなかった。人々が買い物に来ることは来るものの、支払った金子は皆その買い主に戻り、又売った品物は皆その売り主に戻って行くのであった。
 余りに不思議なので吾輩はとある商店の主人に向かって訊いた-
 「あなたの売る品物は何処から来るのです?製造所から仕入れて来るのですか?」
 「いやこれ等の品物は皆私と一緒に此処へ付いて来たのです。何れも皆私が死んだ時に店に置いてあった品物ばかりですが、そいつがどうしてもこの店から離れません。見るのももうウンザリしますがね」
 「それなら商売を辞めたらいいでしょうに」
 「冗談言っちゃいけません。商売を辞めたら仕事が無くなってしまいます。私は子供の時分から品物を売って一生暮らして来た人間ですからね・・・」
 彼は吾輩を極端な分からず屋と見くびって、プイと向こうを向いてしまった。そして一人の婦人に新しい帽子を売りつけたが、無論その帽子は右の婦人が店を出て三分と経たない内にキチンと自分の店へ舞い戻って来た。
 その次に吾輩は市会議事堂へ入ってみた。そこでは議員達がしきりに市の改良策について火花を散らして論戦していたが、いくら喋々と議論したところで、いずれその結果は詰まらないに決まっているので間もなく又其処を出てしまった。
 とうとう市街を通り抜けて郊外に出たが、相変わらずそれは一望がらんとした荒地で、廃物ばかりが山のように積まれ、草などはただの一本も生えていなかった。