自殺ダメ



 「我々の趣味道楽はざっと右に述べた通りじゃが」と叔父さんは言葉を続けました。「本業の精神の修業となると中々やかましい。精神の修養には宗教問題が必然的に伴って来る。我々半信仰の境涯に居る者には、宗教的色彩が頗る曖昧である。それを充分見分けるだけの能力が具わってはいないからである。が、一旦上の境涯に進み入ると宗派的色彩が大変鮮明になって来る。いつかも説明した通り、真理というものは多角多面のダイヤモンドで、それぞれの面にそれぞれの真理がある。その一面の真理を掴んでいるのが一つの宗教であり、誰しも先ず一つの宗教を腹に入れ、それを土台として他の方面の真理の吸収に進んで行くのが順序であるらしい。
 が、宗教宗派の異同対立は要するに途中の一階梯で、決して最終の目的ではないらしい。人間が発達するに連れて真理の見分け方が厳密になる。一つの宗教の生命たる真理の部分だけは保存されるが、誤謬の箇所は次第に振り落とされて行く。最後に到達するのが神であるが、神は真理そのものである。
 結局霊界の最高部に達すると再び宗教の異同などは問題でなくなって来る。一遍宗教に入ることが必要であると同時に最後に宗教から超越することが必要なのである。宣教の為に地獄の方に降って行く者は宗教を超越するところまで達した霊魂でなければならない。イヤ霊界の最高部の者でもまだ充分でない。それ等はやっと地獄の入り口、学校の所までしか降ることを許されない。地獄のどん底までも平気で宣教の為に降りて行くのは光明赫灼(かくやく)たる天使達で、それは霊界よりずっと上の界から派遣されるのである。霊界の者があまり地獄の深い所まで降るのは危険である。地獄の学校へ行ってさえも、現世的引力が中々強く、その為に自分の進歩を何年間かフイにしてしまうのである。
 学校は大別して成人組と幼年組との二種類に分かれる。幼年組というものは、夭折して何事も学び得なかった幼児達を収容する場所で、科目は主として信仰に関する事柄ばかりである。霊界では読書や作文の稽古は全く不必要で、そんなものは人間界とは正反対に、純然たる娯楽に属する」
 ワード「幼年組の教師は?」
 叔父「それには霊界の最高部に居る婦人達の中で、生前育児の経験を持たなかった者が選び出されるのじゃ。こうして彼等は婦人の第一本能たる母性愛の満足を求める。その他生前教師であった者、牧師であった者もよく出掛けて行く。時とすると、行ったきり長い長い歳月の間、まるで戻らずにおる者もある。霊界では他人を教えるのは一の道楽であって、決して業務ではないのである。
 最後にワシはくれぐれも断っておくが、ワシがお前に見せたあの霊界の図表は決して固定的のものではない。地上にも相当流点はあるが、霊界の方では尚更そうである。鉄の鋳型にはめたようにあれっきり造りつけになっていると思われては大いに困る-ワシは大概これで説明するだけのことは説明したと思うが、何ぞお前の方に訊きたいことがあるかな?」
 ワード「あなたは先刻成人組と仰いましたが、そこでは何を教えるのです?」
 叔父「信仰問題に関して大体の観念を養ってやる所じゃ。其処に居る者はただぼんやりと信仰でもしてみようかしら位に考えている連中に過ぎない。彼等の眼には生前犯した罪悪の光景が映っても、なぜそれが罪悪であるかがはっきり腑に落ちない。信仰にかけてはまるで赤ん坊なのじゃ」
 ワード「それなら何故幼年組と別々に教えるのです?」
 叔父「それは当たり前ではないか。信仰上又は道徳上の知識に欠けているという点に於いては双方似たり寄ったりであるが、一方は何ら罪穢れのない赤ん坊、他方は悪い事なら何もかも心得ているすれっからし、その取り扱い方も自然に異なると言うものじゃ-今日はこれだけ・・・・。いずれ又出掛けて来る・・・」