自殺ダメ


 2月23日の晩にワード氏は霊夢で叔父のLに会いましたが、その場所は風光絶佳なる一つの湖水の畔でした。
 ワード「叔父さん、あなた方はやはり家屋の内部に住んでおられるのですか?」
 叔父「そりゃそうじゃ-ワシは目下大学の構内に住んでおる」
 ワード「霊界の大学というのは、地上の大学に似ておりますか?」
 叔父「ワシの入っている大学の校舎はオックスフォードのクインス・カレッジの元の建物であるらしい。つまり現在の古典式の建物よりも以前のものじゃ」
 ワード「時に叔父さん、私の父はあなたの葬式のあった当日に、あなたの為に供養を致しましたが、それは霊界まで通じましたか?」
 叔父「ああよく通じました。が、どうもワシにはそれが葬式の当日とは思えなかった。何やらその少し以前らしく感じられた。イヤその供養の方が、葬式よりもどれだけワシにとりて有難いものであったか知れない。いやしくもキリスト教徒たる者が、単に遺骸のみを丁重に取り扱うのは甚だその意を得ない。遺骸は何処まで行っても要するにただの遺骸じゃ。何をされても無神経である。これに反して霊魂は生き通しである。神の助けなしには一刻も浮かばれない。この霊魂を打て棄てておくへき理由は何処にも見出されない。
 あの時分ワシは例の恐ろしい呵責-生前の行為が一々自分の眼前に展開する、あの恐ろしい光景に苦しみ抜いている最中であった。その呵責は現在でも全くないではない。その刑罰のお蔭でワシは辛うじて悔悟の道に踏み入ることが出来るのであるが、兎に角あの時分のワシの精神の苦悩は一通りではなかった。無論学校などへはとても行けない。悶えに悶え、悩みに悩み、身の置き所が無いのであった-と、その真っ最中に、一条の赫灼(かくしゃく)たる光明が、ワシを悩ます夢魔的幻影を一時に消散せしめた。そして右の幻影の代わりに彷彿として現れたのは一つの寺院ではないか。見よ聖壇の上には蝋燭と十字架とが載せてあり、その前には一人の僧が居る。それが取りも直さずお前の父で、おまけにお前までが其処に跪いている。人間の方は二人きりじゃが、人間の外に跪いている者も沢山居る・・・。それが何者であるかはワシにも分からない。が、兎に角寺院に一杯、側方の礼拝堂までも、霊界の参拝者でぎっしり詰まっていたのである。
 この光景に接した時のワシの心の嬉しさ!それはとても筆や言葉で言い表し得る限りでない。数ある地上の人類の中で少なくともその幾人かが真に神を信じてワシの為に祈願を捧げてくれるのである。その祈祷の言葉がどれだけワシの胸に平和と安息とを恵んでくれたことか・・・。
 が、それよりも一層ワシの心に深甚に感激を与えたのは、ワシに先立ちて霊界に入りたるこれ等幾百の霊魂達が、ワシの為に熱心に祈祷を捧げてくれたことであった。思うに彼等も又ワシのように霊界の険路を踏んで、自己の行為の幻影に悩まされた苦き経験から、ワシの一歩一歩の前進に対して心から同情を寄せてくれているのであろう。ああ英国の矛盾だらけの不思議な国教、その裏面には何という美しいものが潜んでいるのであろう!我々の詩聖テニスンが[アーサーの死]を書いた時に、彼は確かに霊界からのインスピレーションに触れていたに相違ない。「我が魂の為に祈れ」-彼はマロリをしてそう叫ばしめている」