自殺ダメ



前回の寧ろ軽い小話の後に引き続いては、例の陸軍士官が地獄から脱出した時の、極めて厳粛な物語が叔父の口から漏らされました。その片言隻語の内にも叔父さんの胸にいかに根強く当時の光景が浸み込んでいるかがよく伺われます。
 叔父「雑談はこの辺で切り上げてワシはこれからお前に一つ、重大な事柄を物語らねばならない。実はワシがPさんに会ってから数日経った時のことであった。ワシはワシの守護神に連れられて、一人の霊魂が地獄から昇って来る実況を目撃したのじゃ。後で判ったが、それがあの陸軍士官なので・・・・。
 ワシは何処をどう通って行ったのか途中はよく判らなかったが、兎も角も突然地獄の入り口に立ったのである。そこはカサカサに乾いた、苔一つ生えていない、デコボコの一枚岩であった。振り返って見ると、自分達の背後には、暗黒色の岩だの、ゴツゴツした砂利道だのが爪先上がりになって自分達の所まで来て、それが急に断絶して底の知れない奈落となるのである。
 何しろこの縁を境界として一切の光明がばったり中絶してしまうのであるから、その絶壁の物凄さと云ったら全く身の毛がよだつばかり、光線はあたかも微細な霧の粒のように重なり合った一枚壁を造り、それが前面の闇の壁と対立する・・・。地上では光と闇とは互いに混ざり合い、融け合っているが、ここには全くそれがない。闇は闇、光は光と飽くまで頑強に対抗している。
 するとその時守護神がワシに命ぜられた-
 「それなる絶壁の最末端まで行って、汝の手を闇の中に差し入れて見るがよい」
 命ぜらるるままにワシは絶壁の端に行った。すると守護神は背後からワシの肩に手をかけて、落ちないように支えてくだすった。
 驚いたことには闇に突き入れたワシの手首は其処からプツリ切り落とされたように全く存在を失ってしまった。イヤ存在ばかりか感覚までも全く消え失せた。呆れ返った無茶な闇もあればあったもので・・・・。
 その内闇に浸かった手首がキリキリと痛み出した。それは酷い寒さの為である。
 「腕を引っ込めてももう宜しうございますか?」
 「宜しい」
 ワシはそう聞くなり急いで自分の腕を引っ込めたが、幸い傷も付かずにいたのでホッと安心した。ワシは訊ねた-
 「何故ここはこんなに暗く冷たいのです?」
 「それは」と守護神が答えた。「信仰の光が地獄には存在せぬからじゃ。又地獄には神の愛も無い。汝は既に霊であるから霊の光と温みとを要求する。あたかも肉体が物質的の温みと光とを要求するように・・・」
 闇の壁はやがておもむろに前後に揺れ始めた。ある箇所では闇が光に食い込んでいるが、他の箇所では闇が光に圧せられている。従って光と闇との境界線は一直線ではなく、波状を呈してうねり曲っている。右の動揺が段々激しくなるので、ワシは闇に吸い込まれぬよう、思わず絶壁の末端から飛び退いた。
 が、ワシの守護神は落ち着き払って、
 「これこれ慌てるには及ばぬ。闇はここまでは届かぬ。ここには堅き信念がある」
 成る程その通りで、闇のひだは幾度が左右から我々の立てる場所まで食い入ろうとしたが、遂に我々を呑み込むことは出来なかった。
 と、突如として脚下の闇の中から一個の火球が現れ出で、迅速に上へ上へと昇って来るのであった。瞳を定めて凝視すれば、それは赫灼(かくやく)と光り輝く一つの霊魂で、いよいよ上へ昇り詰めた時には、闇はその全身から、あたかも水の雫が白鳥の背から転がり落ちるが如くはらはらとこぼれた。
 やがて右の光明の所有者は絶壁の末端に身を伏せて、片腕を闇の中に差し入れた。腕は肩までその存在を失ったが、次第にそれが引き上げられた所を見ると、しっかりと誰かの手を握っていた。闇の中から突き出た手は光ったものではなく、黒く汚れて不健康な青味を帯びていた。
 叔父さんはそこまで物語って一息入れました。