自殺ダメ



D・ダドレー原著/近藤千雄訳編

 西暦325年のキリスト教総会『第一回ニケーア公会議』の真相

 『シルバーバーチに最敬礼』より


 これは、キリスト教が、いかにして現在の教義で雁字搦めの宗教になったかの原点として、第一回ニケーア公会議に着目した資料です。私も、元、カトリックの教会に通って聖書を初心者コースで学習していたし、日曜日のミサにも、けっこう出ていました。しかし、やはり今振り返ってみると、儀式中心だし、その教えも、もう現代人にはあんまり受け入れられないようなことばかりだったような印象です。まあ、産業革命以降、物凄いスピードで先進国は発展してきました。なので、日本にしても、明治維新以前と以後とでは、急速に発展して、短期間でまるで別の国のようになってしまいました。一体、ペリーの黒船が来航して右往左往している時から百年も経過しない内に、その黒船よりもはるかに大きな空母や戦艦や戦闘機等でアメリカと全面戦争するなんて、江戸時代の人々はまるで想像していなかったでしょう。そのように、近年は、平安時代とか鎌倉時代に比べて、信じられないようなスピードで文明社会は発展してきました。個人の生活にしても、ちょっと前までポケットベルだったのが、今では携帯電話はもう古くなって、スマートフォンが主流になりつつあります。人類の歴史は何千年もありますが、今のように、大量の書籍、幾つもの新聞社、雑誌、インターネットの膨大な情報に接するような時代など、今まではけっしてありませんでした。故に、昔の民衆ならば、西洋にしても、東洋にしても、自分の住む村のことや、領主のこと、まあ、せいぜい、その程度の情報だけだったでしょう。しかし、現代人は、一般人であれ、信じられない位の情報に日々接することが出来ます。故に、もう現代人は、昔の、情報がごく僅かしか得られず、司祭や僧侶の言いなりに信じ込んでいた民衆ではないのです。だから、私も、キリスト教のことを勉強しましたが、理性が納得しないので、その信仰は棄てました。だから、今では理性で納得できるスピリチュアリズムを信じ、こうして自殺者にスピリチュアリズムを教えて救うべく、孤軍奮闘しております。
 このニケーア公会議というのは、いかにキリスト教の歴史が、人造の教義で塗りたくられてきたか、という勉強になると思います。また、こういう人間の習性は、洋の東西を問わないと思います。なぜなら、文化は違えど、人の欲というのは、人種によっても国によっても、そう変わらないからです。故に、東洋の、日本の仏教者、日本の仏教の様々な戒律を作り上げた僧侶達にしても、このニケーア公会議に参加し、自分達にとり都合のよい説を色々と追加した司教達と同様の歴史があると思います。まあ、それは、現代では到底信じられないような阿呆な地獄の観念とか、あと、無数の派閥に枝分かれして、互いに自分の宗派が正しいと主張して、お前のところの教えは邪教である、などと罵り合っている現状を見るに、ニケーア公会議よりも一層酷い歴史があるのかもしれません。まあ、物事を複雑化するのが得意で大好きな日本人の性格上、教義に囚われると、このような結果になるのは必然だったのでしょうね。

 まあ、そんなワケで、歴史の一ページとして、読んでみて下さい。大事なのは、偉いと言われている人の主張をそのまま何の検査もせずに受け入れないことです。必ず、自分自身で、自分の頭で考えて、その結果、受け入れるべきだという結論に達したならば、受け入れるべきです。それが、カルトに引っ掛からない効果的な方法だと思います。



 序論

 英語のCouncil,Synod,Conventionはいずれも「会議」を意味する同義語である。有名な『ニケーア公会議』の前にもキリスト教界の会議は幾つも開かれているのであるが、それらはEcumenicalでなかった、つまり全キリスト教界的なものではなかった。多分、初期の頃は指折り数える程の教会から司教Bishopが出席するだけだったのが次第に影響力を伸ばし、代表する地域が広がっていったのであろう。
 イエスの使徒達が伝道していた時代においては、その使徒達が司教を選んでいたが、やがてその使徒の門弟達が選んだ上でその教区の信者達の認可を得るようになった。更に時代が進むと、広い教区の代表が集まって新しい司教を指名するようになったが、それでもやはり住民の許可が必要だった。それが『ニケーア公会議』において大きく改められた。その具体的内容は本文で扱うとして-
 その『公会議』の経緯を見ていくことによって、我々は当時のローマにおけるキリスト教界の特殊事情を垣間見ることになる。即ち、「大帝」と呼ばれたコンスタンティヌスの存在が圧倒的な影響を及ぼしていたことである。残念なことに、見てくれも勇猛さにおいても大帝の称号に相応しかった男が、晩年に至ってライバルや血縁者に残虐非道の限りを尽くして、その歴史に拭いきれない汚点を残してしまった。
 彼自身、洗礼の儀式を行なった位でその罪が洗い流され魂が清められると本気で信じたとは思えないが、彼の周りにはおべんちゃらの上手な取り巻き連中がいて、正義にかこつけてそういう教義をこしらえ、彼に潜む醜悪極まる人間性を操ったのである。
 ただ彼も、臣下の者達に自分が天国に行きたいという願望を持っていることを意思表示していたことは間違いない。というのは、大きな金貨の片面に部分的にヴェールのかかった自分の姿を刻ませ、裏面には自分が乗ったチャリオット[二ないし四頭立ての古代ローマの戦車]が天翔り、それを受け止めようとする手が天上から差し出されている光景を刻ませているからである。
 私は1604年に英語に翻訳されロンドンで出版されたメヒーアというスペイン人の書物を読んで、著者がコンスタンティヌスの生涯についての叙述の最後の部分で妙なことを言っているのに興味を抱いた。それは、彼の姿格好が悪逆非道の行為と似つかわしくないと述べている部分で、しかし「それらの行為は過(よぎ)ってはいなかったのであろう」と一転して弁護し、なぜならば聖ヒエロニムス[五世紀初頭のキリスト教を代表する修道士でラテン語聖書の完成者]を初めとする聖人や教皇が彼のことを立派なクリスチャンであり永遠なる至福の継承者であると明言しているから、と述べているのである。
 近代のプロテスタント系の書物での評価はそんな甘いものではない。アリウス派[四世紀のアレクサンドリアの神学者の一派で“三位一体説”を否定した。そもそも「ニケーア公会議」の目的は“三位一体説”を論じることにあった-訳者]の書物が一冊も存在しないのは一体なぜなのか?“三位一体論者”達が一冊残らず焼き棄ててしまったのである。
 当時は、キリスト教の慣例として異端の信者は懲らしめ、異端の書物は焼き捨てていた。政治制度の大きな側面を担うものとしては、当時の宗教はまだまだ幼稚なもので、為政者がその戒律その他を好きなように改めていた。その目的は自分達の見栄と欲望を満たすことでしかなく、しかもそれが「イエス・キリスト」の名のもとに行なわれた。もしイエス自身がその場にいれば、恥ずかしくかつ嘆かわしい思いをしたことであろう。
 《復活祭》も本来ならユダヤ教の最大の祝日である《過ぎ越しの祭》の日にするのが最も相応しい筈であったが、これもコンスタンティヌスの気まぐれな思いつきで変更された。彼は神がユダヤ民族を最も愛されたというユダヤの言い伝えを認めざるを得ない立場に追い込まれながらも、それまでローマが嫌い迫害してきたユダヤ民族そのものへの嫌悪感が捨て切れなかったのである。
 《安息日》の変更も同じく理不尽な偏見からだった。ユダヤ人にとっては土曜日が安息日であり、ローマ人のキリスト教徒にとってもそれで何の不都合もなかったのであるが、日曜日が聖なる日だと言い張って、それ以外は頑として許さなかった。イエス自身も日曜日が聖なる日だとは言っていない。
 その日曜日の祈りをする時に膝を折ることを禁じている戒律もある。スタンレー博士によると、これはイエスの使徒達が説教しながら立ったまま祈ったからだと言う。しかし私は、跪(ひざまず)くということは卑下することであるという考えから、勝利と喜びの日である日曜日に跪くことを禁じたのではないかと推察している。
 キリストが死者から甦って死と地獄に打ち勝った日は日曜日だったと信じられている。となると、跪くことは敵に屈することであるから、祈る時に膝を屈することは相応しくないとされたのであろう。ちなみに、ニケーアにおける会議で祈りの儀式が一切行なわれなかったのも不思議である。
 更には虚勢された者が司教の職につくことを禁じた戒律もある。かつては男性としての機能を削ぎ落とすことが宗教性を高揚すると見なされた時代があったのである。そうした愚かさを止めさせる為には、司教職を剥奪するという、更に強硬な手段に訴えたのである。
 コンスタンティヌスは証聖者(迫害に屈しないで信仰を守った者)や禁欲に徹する修道士には最大限の敬意を表し、拷問で受けた傷跡に口づけをすることで神の資質を授かると信じていた。多分これは敬虔な司教達の心をつかむ意図もあったと思われるが、コンスタンティヌスが言い出す教義の裏には必ず狡猾な打算があった。修道士、修道女、隠遁者、その他、人間的安楽や快楽を拒否した生活を送っている者を賞賛し、恩着せがましく保護した。ボロを着て不潔な環境で動物のように草類を食べて生きるということが、初期のキリスト教の教父達にとっては、最も神聖な生き方とされたのである。