自殺ダメ



 時の皇帝コンスタンティヌスは、以上のような教会内のトラブルを耳にして、その解決に乗り出した。皇帝はまず信頼する司教の一人であるコルドバのホシウスに直筆の手紙を託し、論争の張本人であるアリウスとアレクサンドルを直接訪ねて、何とか和解へ向けての説得をするようにと命じた。
 ホシウスの努力は実らなかった。そこでコンスタンティヌスはキリスト教会の全司教による総会を開くことを考えた。史家のソクラテスの記述をそのまま引用すると、その経緯は次の通りだった。

 論争についての説明を聞いた皇帝は大そう嘆かれた。そして早速皇帝が最高に信頼するスペインの司教ホシウスに手紙を託し、アレクサンドルとアリウスに直接面会して和解するよう説得させた。その親書は次の言葉で始まっている。

 コンスタンティヌスよりアレクサンドル及びアリウスに告ぐ。

 二人の間で続いている論争についての情報を耳にしたが、アレクサンドル殿、そなたは、たかが書かれた難解な文字の解釈について部下達の意見を求めるに当たって、巧みに言葉を弄して都合のよい意見を出させ、一方、アリウス殿、そなたも熟慮した末の意見とは思えないような意見を吐き、仮に熟慮の末であっても、口にすべきではないような意見を述べているように思える。(中略)
 そもそも、これほど壮大で深遠なテーマについてまともな説明はおろか、理解することすらできる聖職者はまずいないのではなかろうか。これほど微妙なニュアンスを含むテーマを扱うと、どうしても、知らない内に迷宮に入り込み誤りに気が付かないことになりかねないのではなかろうか。“神性”についての信仰は一つ、見解も一つ、そして儀礼も一つであらねばならないはずだ。
 いずれにしても、ここまで錯綜した段階まで至った以上は、このテーマについて意見の一致を見ることは不可能であろうから、互いにそれを思索の糧として、ご自分の精神の一隅にしまって置かれるのが適切かと思う。(中略)
 いずれの日にか双方が互いの友情と好誼(こうぎ)を取り戻されることを切望する。

 しかし、このコンスタンティヌスの折角の仲裁も功を奏さず、二人の心を和らげるには至らなかった。それどころか、一般信者達の間でもその問題で論争と小競り合いが絶えなくなった。そこへ新たな問題が持ち上がった・・・というよりは、それまでも、東部地区に限ったことではあったが、くすぶり続けていた火種が一気に燃え上がった。
 それは“過ぎ越しの祭”の祝い方の問題で、それまでのユダヤ教的なものを更にユダヤ的なものにしようとする一派と、勢いを増してきたキリスト教的なもの[これが後に“イースター”となる-訳者]にすべきだという一派との衝突だった。

 訳者注-Hilton HotemaのMan of the Bible(バイブルの主人公のミステリー)は、その事実を更に具体的に指摘している。それによると、シーザーに始まるローマ皇帝は、コンスタンティヌスに至るまでは、征服した国家や民族の宗教と信仰に関しては寛大だった。当時も東洋のヒンドゥー教と西洋のドルイド教が他の様々な宗教と共に混在していて、その宗教間においては何かにつけて諍(いさか)いが生じていたという。コンスタンティヌスは色々と解決策を授けるが、根が軍人であり、信仰心も人生哲学もない為に、その解決策には説得力がなかった。そこへキリスト教内の論争が表面化する。そして、人類史に禍根を残すバクチ的な策を弄することになる。

 ここでコンスタンティヌスはキリスト教界の総会を思い立つ。そして場所をニケーアと定める。ニケーアは小アジアのビチュニアの古都で、当時はNiceと綴った。現在はイズニークといい、イズニーク湖の東端に位置する小さな村となっている。都から村となったのは1097年の第一回十字軍遠征の暴虐による。
 総会が開かれた当時は都だったとは言え、地図を一見すれば分かるように、当時のローマを中心としたキリスト教界-まだ政教一致の体制とはなっていない-から見ると大変な僻地で、よほどの体力と装備がなければ、ロバやラバや馬での旅行には耐えられなかった。実はそこに知恵者のコンスタンティヌスの奸計(かんけい)の芽生えを見ることができる。つまり古い考えに凝り固まった老司教連中の出席を阻み、新しい政教体制を全員一致で採択させるということだった。
 案の定、目の上のたんこぶであるローマ教会の大司教は欠席し、代わりに傍聴者として200人の聖職者Presbyter(司教Bishopのすぐ下位の職)を送った。それでも、最終的に全部で318名の司教が出席し、聖職者の数は総勢で2000名を超えたという。[司教をはじめ出席者の総数も諸説あることが、次章で述べられる-訳者]
 当時の司教達が今日と違うのは、イエスの弟子達と同じように何らかの霊的能力を備えていたことで、中世のアッシジの聖フランチェスコに見られたような「聖痕」(イエスが処刑の時に受けたのと同じ傷跡)が肉体に現れた者が多かったという。アンティオキアの司教ジェームズは死者を甦らせることなど、イエスと同じ奇跡を度々起こすことが出来たという。
 同時に、ネロに始まるキリスト教徒迫害によって言語に絶する虐待を受けた司教も少なくなかった。灼熱の鉄ごてで両腕を焼かれて使用不能になった者、片目を抉り取られた者、右手を切り落とされた者等々・・・・見方によっては、この総会は殉教者の集会と言っても過言ではないほどだった。
当然のことながら、彼らは遠路を厭わず、喜び勇んで出席した。神聖にして祝福された、待ちに待った会であると信じ、その裏で少数の者達による陰謀が企まれているとは、露ほども疑わなかった。その少数の曲者達は言わば見えざる岩礁だった。記念すべき総会はやがてその岩礁に乗り上げ、(序論で紹介した)ジョン・スチュアート・ミルを嘆かせた程の汚点を西洋史に残すことになる。

 原著者注-歴史に残る残虐な10の迫害を参考までに列記しておくと-
 最初はネロで、64年のことだった。二番目はドミティアヌスで、95年。三番目はトロヤヌスで、107年。四番目はハドリアヌスで、118年。五番目はカラカーラで、212年。六番目はマキシミンで、235年。七番目はデキウスで、250年。八番目がワレリアヌスで、257年。九番目がアウレリアヌスで、274年。最後でしかも最も惨酷だったのがディオクラティアヌスで、303年のクリスマスの日に始まった。ビチュニアの首都ニコメディアの大教会に集まった600人のキリスト教徒を、扉を全てロックして焼き払った。