カテゴリ: ★『新樹の通信』
新樹の通信 目次
新樹の通信 目次
おことわり
新樹の通信 序
新樹の生涯
(一) 通信の開始
(二) 果たして本人か?
(三) 通信の初期
(四) 幽界人の姿その他
(五) 彼岸の修行
(六) 母の守護霊を迎える
(七) 母の守護霊を訪ねる
(八) 一周忌前後
(九) 再生問題その他
序
新樹とその守護霊
乃木さんと語る (一)彼岸の調査
乃木さんと語る (二)新樹の訪問
乃木さんと語る (三)新樹を中継として
乃木さんと語る (四)一問一答
乃木さんと語る (五)お宮とお墓
乃木さんと語る (六)日本国民に告ぐ
幽界居住者の伊勢参宮 (一)最初の参拝
幽界居住者の伊勢参宮 (二)再度の参拝
幽界居住者の伊勢参宮 (三)乃木さんと同行
ある日の龍宮
第三篇 はしがき
帰幽後の一仏教信者
帰幽後の一キリスト教徒
幽界人の富士登山
霊界の音楽修業
父の臨終を見る
天狗探検談
おことわり
新樹の通信 序
新樹の生涯
(一) 通信の開始
(二) 果たして本人か?
(三) 通信の初期
(四) 幽界人の姿その他
(五) 彼岸の修行
(六) 母の守護霊を迎える
(七) 母の守護霊を訪ねる
(八) 一周忌前後
(九) 再生問題その他
序
新樹とその守護霊
乃木さんと語る (一)彼岸の調査
乃木さんと語る (二)新樹の訪問
乃木さんと語る (三)新樹を中継として
乃木さんと語る (四)一問一答
乃木さんと語る (五)お宮とお墓
乃木さんと語る (六)日本国民に告ぐ
幽界居住者の伊勢参宮 (一)最初の参拝
幽界居住者の伊勢参宮 (二)再度の参拝
幽界居住者の伊勢参宮 (三)乃木さんと同行
ある日の龍宮
第三篇 はしがき
帰幽後の一仏教信者
帰幽後の一キリスト教徒
幽界人の富士登山
霊界の音楽修業
父の臨終を見る
天狗探検談
おことわり
自殺ダメ
[霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より
(自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)
「新樹(しんじゅ)の通信」は、「心霊文庫」第七篇、八篇、九篇として発行されたものであるが、今これを一本に纏めることにした。但し「その一」を第一篇、「その二」を第二篇、「その三」を第三篇とすることにした。そうすることが編者の次第に合致するからである。
「新樹の通信」は、その内容は大したものではないかも知らぬが、死後久しからぬ霊魂としては、この程度のものが、先ずよい方であろうと考えられる。その後、新樹の霊魂も、漸く進境を見せているようであるから折を見て、私も後からの通信を得るべく期待しつつある。その暁に於いては再び新樹の通信として、皆様に御覧を願う機会があるかも知らぬ。が、それは後日の事であるから、今日唯その希望があることだけを述べるに止め、当分この通信で我慢して頂くより外はない。
本書は上述の如く、三篇の合本であって、当時編著の俤を存せしめる為、序、はしがき等、纏めて元のままにすることにした。従ってページの丁数も、一貫したものとせず、各篇各別のものとなっている。合本の体裁上は兎も角も、此く取り計らうことを便としたからである。
昭和二十四年六月 浅野 正恭誌す
[霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より
(自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)
「新樹(しんじゅ)の通信」は、「心霊文庫」第七篇、八篇、九篇として発行されたものであるが、今これを一本に纏めることにした。但し「その一」を第一篇、「その二」を第二篇、「その三」を第三篇とすることにした。そうすることが編者の次第に合致するからである。
「新樹の通信」は、その内容は大したものではないかも知らぬが、死後久しからぬ霊魂としては、この程度のものが、先ずよい方であろうと考えられる。その後、新樹の霊魂も、漸く進境を見せているようであるから折を見て、私も後からの通信を得るべく期待しつつある。その暁に於いては再び新樹の通信として、皆様に御覧を願う機会があるかも知らぬ。が、それは後日の事であるから、今日唯その希望があることだけを述べるに止め、当分この通信で我慢して頂くより外はない。
本書は上述の如く、三篇の合本であって、当時編著の俤を存せしめる為、序、はしがき等、纏めて元のままにすることにした。従ってページの丁数も、一貫したものとせず、各篇各別のものとなっている。合本の体裁上は兎も角も、此く取り計らうことを便としたからである。
昭和二十四年六月 浅野 正恭誌す
新樹の通信 序
自殺ダメ
[霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より
(自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)
本編は新樹が彼の母を通じて送りつつある初期の通信の集成であります。即ちその最も早きは彼の死後僅々百日余りを隔てた昭和四年七月頃のもの、その最も晩きも昭和五年二月頃、即ちその一周忌前後のものであります。爾後今日までに現れたのも少なくありませんが、それ等は漸次機会を見て発表して行くことにしましょう。
私共が新樹の通信を発表するにつけては、これに対して世間に必ずしも賛同する者のみも居ないことは、満々承知致しておりますが、私共としては、暫く一切の毀誉褒貶に眼を瞑り、兎にも角にも私共にも現われたる、この活きた心霊事実をありのままに世間に発表して識者の御考慮に供することを以って満足しているので、若しもこれが導火線となりて、いささかなりとも日本国民の間に心霊の動きを促すことにもなれば、それこそ私共に取りて望外の歓びなのであります。
いよいよ本編の編集を終わった八月十六日に、私は新樹を呼びて、汝(お前)も一つそちらの世界から序文を書いて送れ、と命じました。新樹はこれを快諾し、二日後の八月十八日に、彼の母の口を借りて放送して来たのが左記の挨拶であります。恐らくこの方が本書の真正の序文というべきものでしょう。
(新樹の挨拶)
今般父から、僕がこれまでに送った通信の一部を一冊の書物にとり纏めて上梓するから汝も何か一つ序文を書けとのことで、未熟の僕に別段これという良い考えも浮かびませんが、ホンの申し訳に、いささか所感を述べさせて頂くことに致します。
僕の送った初期の通信を御覧の方には、事によると僕を女々しい、愚痴っぽい男と思し召されるかも知れませんが、実際はソーでもないのです。僕はどちらかといえば生来寧ろ陽気な性質で、若き人に許される正常な快楽の殆ど全てを手当たり次第に漁りつつあったものなのです。従って僕は生前ただの一度も『死』の問題などを考えてみたことがない。あんな陰気な、恐ろしいものは僕とは全然没交渉-少なくとも遠い遠い未来の、夢か幻のような事柄位に考えていたのであります。そうした僕がいつの間にか『死』の関門を通過してしまったのですから誠に皮肉極まる話で、叔父から死を宣告されて初めてそれと気の付いた時に、僕がいかに驚き、悲しみ、又口惜しかったかは宜しくお察しを願います。その頃の僕の通信が涙混じり、愚痴混じりの甚だお恥ずかしいものであったのも、同情深き方々は多少大目に見てくださるだろうと存じます。
しかしながら現世の側から前途に死を望み見るのと、こちらの世界から振り返ってそれを回顧するのとは大分勝手が違います。何と言おうがモー致し方がないのですから、僕のようなものにも次第に諦めがついて来まして、現世で使い得なんだ精力の全部を一つみっちり幽明交通の仕事に振り向け、父の手伝いをしてやろうという心願を起こしました。それが現在の僕にとりて活きて行くべき殆ど唯一の途なのです。無論僕の修行が足りない為に、これぞという通信はまだとても送り得ません。父から陸続提出さるる問題の多くは僕の力量に余るものばかりなので、そんな場合には一心不乱に神に伺い、又守護霊にはかり、ドーやら大過なきを期しているような次第で、従って僕の通信と称しても、内容は僕が中継者の役目を務める霊界通信なのであります。兎も角もこうした仕事に精根を打ち込んでいるお蔭で、近頃はこちらの世界の事情も少しずつ判りかけ、幽界生活もまんざらでなく考えられて来ました。
僕の現世の不満はまだ現界が少しも見えないことで、時々はそれがじれったく感じます、が、神さまに伺って見ると、それは僕の地上生活に対する執着がまだすっかり除き切れない為だそうで、この間なども、神さまから『汝はまだ後ろを振り向くことはならないぞ!こちらで汝の為すべき事は多い。全ての準備が出来れば現界も自然と見えて来る・・・。少しも急ぐには及ばない』とお𠮟り言を頂戴しました。なので僕も考えました「成る程そうだ、じれるのは宜しくあるまい。先か際限なく永い生活なのだから、余り焦らずに、現在与えられたる仕事に対して最善を尽くすことにしよう・・・」
大体僕はこんな状態で、相当楽な気持で幽界に生きております。死後の生活-この事が僕の通信で幾分でも皆さまにお判りになれば、皆さまの死に対する不安も安らぎ、同時に皆さまの心の視野も限りなく拡大するでしょう。これからの僕は層一層の修行を積み、より充実した通信を送り、皆さまの期待に負かぬように努力する覚悟であります。今回はこれで・・・・。
昭和六年八月十八日 編者誌す
[霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より
(自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)
本編は新樹が彼の母を通じて送りつつある初期の通信の集成であります。即ちその最も早きは彼の死後僅々百日余りを隔てた昭和四年七月頃のもの、その最も晩きも昭和五年二月頃、即ちその一周忌前後のものであります。爾後今日までに現れたのも少なくありませんが、それ等は漸次機会を見て発表して行くことにしましょう。
私共が新樹の通信を発表するにつけては、これに対して世間に必ずしも賛同する者のみも居ないことは、満々承知致しておりますが、私共としては、暫く一切の毀誉褒貶に眼を瞑り、兎にも角にも私共にも現われたる、この活きた心霊事実をありのままに世間に発表して識者の御考慮に供することを以って満足しているので、若しもこれが導火線となりて、いささかなりとも日本国民の間に心霊の動きを促すことにもなれば、それこそ私共に取りて望外の歓びなのであります。
いよいよ本編の編集を終わった八月十六日に、私は新樹を呼びて、汝(お前)も一つそちらの世界から序文を書いて送れ、と命じました。新樹はこれを快諾し、二日後の八月十八日に、彼の母の口を借りて放送して来たのが左記の挨拶であります。恐らくこの方が本書の真正の序文というべきものでしょう。
(新樹の挨拶)
今般父から、僕がこれまでに送った通信の一部を一冊の書物にとり纏めて上梓するから汝も何か一つ序文を書けとのことで、未熟の僕に別段これという良い考えも浮かびませんが、ホンの申し訳に、いささか所感を述べさせて頂くことに致します。
僕の送った初期の通信を御覧の方には、事によると僕を女々しい、愚痴っぽい男と思し召されるかも知れませんが、実際はソーでもないのです。僕はどちらかといえば生来寧ろ陽気な性質で、若き人に許される正常な快楽の殆ど全てを手当たり次第に漁りつつあったものなのです。従って僕は生前ただの一度も『死』の問題などを考えてみたことがない。あんな陰気な、恐ろしいものは僕とは全然没交渉-少なくとも遠い遠い未来の、夢か幻のような事柄位に考えていたのであります。そうした僕がいつの間にか『死』の関門を通過してしまったのですから誠に皮肉極まる話で、叔父から死を宣告されて初めてそれと気の付いた時に、僕がいかに驚き、悲しみ、又口惜しかったかは宜しくお察しを願います。その頃の僕の通信が涙混じり、愚痴混じりの甚だお恥ずかしいものであったのも、同情深き方々は多少大目に見てくださるだろうと存じます。
しかしながら現世の側から前途に死を望み見るのと、こちらの世界から振り返ってそれを回顧するのとは大分勝手が違います。何と言おうがモー致し方がないのですから、僕のようなものにも次第に諦めがついて来まして、現世で使い得なんだ精力の全部を一つみっちり幽明交通の仕事に振り向け、父の手伝いをしてやろうという心願を起こしました。それが現在の僕にとりて活きて行くべき殆ど唯一の途なのです。無論僕の修行が足りない為に、これぞという通信はまだとても送り得ません。父から陸続提出さるる問題の多くは僕の力量に余るものばかりなので、そんな場合には一心不乱に神に伺い、又守護霊にはかり、ドーやら大過なきを期しているような次第で、従って僕の通信と称しても、内容は僕が中継者の役目を務める霊界通信なのであります。兎も角もこうした仕事に精根を打ち込んでいるお蔭で、近頃はこちらの世界の事情も少しずつ判りかけ、幽界生活もまんざらでなく考えられて来ました。
僕の現世の不満はまだ現界が少しも見えないことで、時々はそれがじれったく感じます、が、神さまに伺って見ると、それは僕の地上生活に対する執着がまだすっかり除き切れない為だそうで、この間なども、神さまから『汝はまだ後ろを振り向くことはならないぞ!こちらで汝の為すべき事は多い。全ての準備が出来れば現界も自然と見えて来る・・・。少しも急ぐには及ばない』とお𠮟り言を頂戴しました。なので僕も考えました「成る程そうだ、じれるのは宜しくあるまい。先か際限なく永い生活なのだから、余り焦らずに、現在与えられたる仕事に対して最善を尽くすことにしよう・・・」
大体僕はこんな状態で、相当楽な気持で幽界に生きております。死後の生活-この事が僕の通信で幾分でも皆さまにお判りになれば、皆さまの死に対する不安も安らぎ、同時に皆さまの心の視野も限りなく拡大するでしょう。これからの僕は層一層の修行を積み、より充実した通信を送り、皆さまの期待に負かぬように努力する覚悟であります。今回はこれで・・・・。
昭和六年八月十八日 編者誌す
新樹の生涯
自殺ダメ
[霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より
(自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)
新樹は日露戦役の起こった明治三十七年六月十日、我等夫婦の間の二男として横須賀軍港で生まれました。彼は稀に見る白哲肥大の小児で、引き続いてずっと健全、やや長ずるに及び中々の腕白小僧となりました。彼が五、六歳の頃新調のナイフの切れ味を試すつもりで、新しい箪笥の角を削り取った事は家庭の笑い話として後々まで語り伝えられました。
小学教育は横須賀市の豊島小学校で受けましたが、何時も首席で、どの学課も殆ど満遍なく出来ましたが、特に目立っていたのは絵書で、ちょっと器用な書才を見せました。
その頃彼の父は血気盛りで土曜から日曜にかけてはよく遠足を試み、又夏は欠かさず水泳を試みましたが、新樹はよくその相伴を務めました。三浦三崎、逗子、葉山、鎌倉、金沢等の諸地方で彼等の足跡を印せぬ所は殆どないと言ってよい位、又海では父の腰に紐でくくしつけた浮子に掴まってしばしば猿島付近まで遠泳ぎをしました。
新樹の中学教育は全部福知山中学で受けましたが、ここでも成績は優等で、ずっと特待生を続けました。在学中家庭から通学したのはホンの最初数ヶ月間だけで、その他は最後まで寄宿舎に居続けました。かくて卒業と共に長崎の高商に入学し、良い成績で同校三年の過程を終わりました。時に数え年正に二十二。
この間に彼の身材は段々延びて、五尺を越すこと五寸、六寸、七寸となりました。同時にその趣味や傾向も次第に定形を為して来ました。彼の父母にとりて寧ろ意外だったのはその幼時の腕白性が段々薄らぎ、寧ろ社交的要素と言ったようなものが多量に加わって来たことで、その道楽の如きも音楽、絵書等が第一に数えられました。ハ-モニカでは確か長崎高商音楽団の選手だった筈です。と言って、彼の性情はどこまでも円満に出来ていて、活発な運動競技、例えばボート、ベースボール、スケート、テニス、山登り等にも相当手を出したらしいのです。
大正十四年学校を巣立ちした彼は直ちに古河電気工業株式会社に入り、東京の本社に勤務することになりました。丁度その頃彼の家族も鶴見に移り住むことになったので、間もなく彼は鶴見に来たり住み、大連支店に勤務を命ぜられるまで、久しぶりで約一年間父母弟妹と家庭団欒の楽しみを味わいました。若くて死んだ彼に取りてこれがせめてもの、現世生活の楽しい思い出の種子だったでありましょう。
彼は昭和二年二月の末に大連に赴任し、以来支店長や同僚の気持も至極良好で、熱心に社務に精励していました。翌三年の七月彼の父は満鉄の途次大連に立ち寄り、同十四日から十八日まで足掛け五日間、専ら彼を案内者として、見物に、訪問に、又座談講演に多忙な時日を送りましたが、特に十七日の旅順見物、203高地の登臨、夜に入りて老虎灘の千勝館に戻って来ての水入らずの会食の状況などは、今も彼の父の心の奥にはっきりと刻まれております。
当時の新樹には露だに不健康な模様は見えませんでした。ただ十四日バイカル丸から下船して一年半ぶりで埠頭で我が子に会った時の第一印象は、彼がいつの間にかずっと大人びて来たということでした。それから彼の父は無事に欧米の心霊行脚を終わり、同年の暮れに鶴見に戻って来て、正月を済ませ、いささか寛ぎかけた二月の二十七日に突如新樹が黄疸にかかり、満鉄病院に入ったという飛電に接しました。二つ三つ電報の交換をやっている中に、その翌二月二十八日の夕刻には早くも彼の死を伝える電報を受け取りました。その際は策の施すどころか、殆ど考える隙さえありませんでした。
新樹の遺した日記帳を紐解いて見ても、彼が病気に対し、又死に対して、全然不用意であった模様がよく窺われます。二月十二日の部に『昨日から風邪気味で今朝は十一時出社す。夜は読書』とあるのが、彼の健康異状を物語る唯一の手掛かりです。もっとも日記が二月十三日で終わり、それから全然空白になっている所を見ると、その頃は筆を執るのも相当大儀だったのでしょう。そのくせ同十七日、即ちその死に先立つことたった十一日というのは彼は同僚二、三人と星ヶ浦に遊び、その際同所で撮った写真には、例の如く両手をズボンのポケットに突っ込んで、大口開いてカラカラと笑いこけています。聞けば二十六日の朝まで殆ど何の異状をも認めなかった病状が、その日の昼頃にわかに亢進して脳を冒し、それっきり充分に意識を回復しなかったのだといいます。満鉄病院に於いても無論昏睡状態を続け、そのまま死の彼岸へ旅立ったということで、正気で死に直面するの苦痛を免れたことは、本人にとりて幾分幸福であったかも知れません。兎に角あまりにも碌い碌い死に方ではありました。
父の手によりて持ち帰られた彼の遺骨は鶴見總持寺の境内に埋められ、一片の墓標がその所在を示しております。が、そんなものは殆ど無意義に近い物質的記念物に過ぎません。彼の現世に遺すべき真正の記念物が、彼岸の彼が心を込めて送りつつある、その続物の通信であることは申すまでもありません。
昭和六年八月二十日 編者誌
[霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より
(自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)
新樹は日露戦役の起こった明治三十七年六月十日、我等夫婦の間の二男として横須賀軍港で生まれました。彼は稀に見る白哲肥大の小児で、引き続いてずっと健全、やや長ずるに及び中々の腕白小僧となりました。彼が五、六歳の頃新調のナイフの切れ味を試すつもりで、新しい箪笥の角を削り取った事は家庭の笑い話として後々まで語り伝えられました。
小学教育は横須賀市の豊島小学校で受けましたが、何時も首席で、どの学課も殆ど満遍なく出来ましたが、特に目立っていたのは絵書で、ちょっと器用な書才を見せました。
その頃彼の父は血気盛りで土曜から日曜にかけてはよく遠足を試み、又夏は欠かさず水泳を試みましたが、新樹はよくその相伴を務めました。三浦三崎、逗子、葉山、鎌倉、金沢等の諸地方で彼等の足跡を印せぬ所は殆どないと言ってよい位、又海では父の腰に紐でくくしつけた浮子に掴まってしばしば猿島付近まで遠泳ぎをしました。
新樹の中学教育は全部福知山中学で受けましたが、ここでも成績は優等で、ずっと特待生を続けました。在学中家庭から通学したのはホンの最初数ヶ月間だけで、その他は最後まで寄宿舎に居続けました。かくて卒業と共に長崎の高商に入学し、良い成績で同校三年の過程を終わりました。時に数え年正に二十二。
この間に彼の身材は段々延びて、五尺を越すこと五寸、六寸、七寸となりました。同時にその趣味や傾向も次第に定形を為して来ました。彼の父母にとりて寧ろ意外だったのはその幼時の腕白性が段々薄らぎ、寧ろ社交的要素と言ったようなものが多量に加わって来たことで、その道楽の如きも音楽、絵書等が第一に数えられました。ハ-モニカでは確か長崎高商音楽団の選手だった筈です。と言って、彼の性情はどこまでも円満に出来ていて、活発な運動競技、例えばボート、ベースボール、スケート、テニス、山登り等にも相当手を出したらしいのです。
大正十四年学校を巣立ちした彼は直ちに古河電気工業株式会社に入り、東京の本社に勤務することになりました。丁度その頃彼の家族も鶴見に移り住むことになったので、間もなく彼は鶴見に来たり住み、大連支店に勤務を命ぜられるまで、久しぶりで約一年間父母弟妹と家庭団欒の楽しみを味わいました。若くて死んだ彼に取りてこれがせめてもの、現世生活の楽しい思い出の種子だったでありましょう。
彼は昭和二年二月の末に大連に赴任し、以来支店長や同僚の気持も至極良好で、熱心に社務に精励していました。翌三年の七月彼の父は満鉄の途次大連に立ち寄り、同十四日から十八日まで足掛け五日間、専ら彼を案内者として、見物に、訪問に、又座談講演に多忙な時日を送りましたが、特に十七日の旅順見物、203高地の登臨、夜に入りて老虎灘の千勝館に戻って来ての水入らずの会食の状況などは、今も彼の父の心の奥にはっきりと刻まれております。
当時の新樹には露だに不健康な模様は見えませんでした。ただ十四日バイカル丸から下船して一年半ぶりで埠頭で我が子に会った時の第一印象は、彼がいつの間にかずっと大人びて来たということでした。それから彼の父は無事に欧米の心霊行脚を終わり、同年の暮れに鶴見に戻って来て、正月を済ませ、いささか寛ぎかけた二月の二十七日に突如新樹が黄疸にかかり、満鉄病院に入ったという飛電に接しました。二つ三つ電報の交換をやっている中に、その翌二月二十八日の夕刻には早くも彼の死を伝える電報を受け取りました。その際は策の施すどころか、殆ど考える隙さえありませんでした。
新樹の遺した日記帳を紐解いて見ても、彼が病気に対し、又死に対して、全然不用意であった模様がよく窺われます。二月十二日の部に『昨日から風邪気味で今朝は十一時出社す。夜は読書』とあるのが、彼の健康異状を物語る唯一の手掛かりです。もっとも日記が二月十三日で終わり、それから全然空白になっている所を見ると、その頃は筆を執るのも相当大儀だったのでしょう。そのくせ同十七日、即ちその死に先立つことたった十一日というのは彼は同僚二、三人と星ヶ浦に遊び、その際同所で撮った写真には、例の如く両手をズボンのポケットに突っ込んで、大口開いてカラカラと笑いこけています。聞けば二十六日の朝まで殆ど何の異状をも認めなかった病状が、その日の昼頃にわかに亢進して脳を冒し、それっきり充分に意識を回復しなかったのだといいます。満鉄病院に於いても無論昏睡状態を続け、そのまま死の彼岸へ旅立ったということで、正気で死に直面するの苦痛を免れたことは、本人にとりて幾分幸福であったかも知れません。兎に角あまりにも碌い碌い死に方ではありました。
父の手によりて持ち帰られた彼の遺骨は鶴見總持寺の境内に埋められ、一片の墓標がその所在を示しております。が、そんなものは殆ど無意義に近い物質的記念物に過ぎません。彼の現世に遺すべき真正の記念物が、彼岸の彼が心を込めて送りつつある、その続物の通信であることは申すまでもありません。
昭和六年八月二十日 編者誌