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カテゴリ: ★『小桜姫物語』

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 小桜姫物語

 修行も未熟、思慮も足りない一人の昔の女性がおこがましくもここにまかり出る幕でないことはよく存じておりまするが、こうも再々お呼び出しに預かり、是非詳しい通信をと、続けざまにお催促を受けましては、ツイその熱心にほだされて、無下にお断りも出来なくなってしまったのでございます。それに又神様からも『折角であるから通信したがよい』との思し召しでございますので、今回いよいよ思い切ってお言葉に従うことにいたしました。私としてはせいぜい古い記憶を辿り、自分の知っていること、又自分の感じたままを、作らず、飾らず、素直に申し述べることにいたします。それがいささかなりとも、現世の方々の研究の資料ともなればと存じております。何卒あまり過分の期待をかけず、お心易くお聞き取りくださいますように・・・・。
 ただ私として、前以てここに一つお断りしておきたいことがございます。それは私の現世生活の模様をあまり根堀り葉堀りお訊ねになられぬことでございます。私にはそれが何より辛く、今更何の取り得もなき、昔の身の上などを露ほども物語たくはございませぬ。こちらの世界へ引き移ってからの私どもの第一の修行は、成るべく早く醜い地上の執着から離れ、成るべく速やかに役にも立たぬ現世の記憶から遠ざかることでございます。私どもはこれでも色々と工夫の結果、やっとそれが出来て参ったのでございます。で、私どもに向かって身の上話をせいと仰るのは、言わば辛うじて治りかけた心の古傷を再び抉り出すような、随分惨たらしい仕打ちなのでございます。幽明の交通を試みられる人達は常にこの事を念頭に置いて頂きとう存じます。そんな訳で、私の通信は、主に私がこちらの世界へ引き移ってからの経験・・・つまり幽界の生活、修行、見聞、感想と言ったような事柄に力を入れてみたいのでございます。又それがこの道に携わる方々の私に期待されるところかと存じます。無論精神を統一してじっと深く考え込めば、どんな昔の事柄でもはっきり思い出すことが出来ないではありませぬ。しかもその当時の光景までがそっくりそのまま形態を造ってありありと眼の前に浮かび出てまいります。つまり私どもの境涯には殆ど過去、現在、未来の差別はないのでございまして。・・・・でも無理にそんな真似をして、足利時代の絵巻物を繰り広げてお目にかけてみたところで、大した値打ちはございますまい。現在の私としては到底そんな気分にはなりかねるのでございます。
 と申しまして、私が今いきなり死んでからの物語を始めたのでは、何やらあまり唐突・・・・現世と来世との連絡が少しも判らないので、取りつくしまがないように思われる方があろうかと感ぜられますので、甚だ不本意ながら、私の現世の経歴のホンの荒筋だけをかいつまんで申し上げることに致しましょう。乗りかけた船とやら、これも現世と通信を試みる者の免れ難き運命-業かも知れませぬ・・・・。
 私は-実は相州荒井の城主三浦道寸の息、荒次郎義光と申す者の妻だったものにございます。現世の呼び名は小桜姫-時代は足利時代の末期-今から約四百余年の昔でございます。勿論こちらの世界には昼夜の区別も、歳月のけじめもありませぬから、私はただ神様から伺って、成る程そうかと思うだけのことに過ぎませぬ。四百年といえば現世では相当長い月日でございますが、不思議なものでこちらではさほどにも感じませぬ。多分それはじっと精神を鎮めて、無我の状態を続けておる期間が多い故でございましょう。
 私の生家でございますか-生家は鎌倉にありました。父の名は大江廣信-代々鎌倉の幕府に仕えた家柄で、父もやはりそこに勤めておりました。母の名は袈裟代、これは加納家から嫁いでまいりました。両親の間には男の子はなく、たった一粒種の女の子があったのみで、それが私なのでございます。従って私は子供の時から随分大切に育てられました。別に美しい程でもありませぬが、体躯は先ず大柄な方で、それに至って健康でございましたから、私の娘時代は、全く苦労知らずの、丁度春の小鳥そのまま、楽しいのんびりした空気に浸っていたのでございます。私の幼い時分には祖父も祖母もまだ在命で、それはそれは眼にも入れたいほど私を寵愛してくれました。好い日和の折などには私はよく二、三の腰元どもにかしづかれて、長谷の大仏、江ノ島の弁天などにお詣りしたものでございます。寄せては返す七里ヶ浜の波打際の貝拾いも私の何より好きな遊びの一つでございました。その時分は鎌倉は武家の住宅の建ち並んだ、物静かな、そして何やら無骨な市街で、商家と言っても、品物は皆奥深く仕舞い込んでありました。そうそう私はツイ近頃不図した機会に、こちらの世界から一度鎌倉を覗いてみましたが、赤瓦や青瓦で葺いた小さな家屋のぎっしり建て込んだ、あのけばけばしさには、つくづく呆れてしまいました。
 『あれが私の生まれた同じ鎌倉かしら・・・』私は独りそう呟いたような次第で・・・・。
 その頃の生活状態をもっと詳しく物語れと仰いますか-致し方がございません、お喋りついでに、少しばかり思い出してみることに致しましょう。勿論、順序などは少しも立っておりませぬから何卒そのおつもりで・・・・。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 先ずその頃の私達の受けた教育につきて申し上げてみましょうか-時代が時代ゆえ、教育はもう至って簡単なもので、学問は読書、習字、又歌道一通り、全て家庭で修めました。武芸は主に薙刀の稽古、母がよく薙刀を使いましたので、私も子供の時分からそれを仕込まれました。その頃は女でも武芸一通りは稽古したものでございます。娘時代に受けた私の教育というのは大体そんなもので、馬術は後に三浦家へ嫁入りしてから習いました。最初私は馬に乗るのが厭でございましたが、良人から『女子でもそれ位の事は要る』と言われ、それから教えてもらいました。実地に行ってみると馬は至って大人しいもので、私は大変乗馬が好きになりました。乗馬袴を穿いて、すっかり服装が変わり、白鉢巻をするのです。主に城内の馬場で稽古したのですが、後には乗馬で鎌倉へ実家帰りをしたこともございます。従者も男子のみでは困りますので、一人の腰元にも乗馬の稽古を致させました。その頃ちょっと外出するにも、少なくとも四、五人の従者は必ず付いたもので・・・・。
 今度はその時分の物見遊山のお話なりといたしましょうか。物見遊山と申してもそれは至って単純なもので、普通はお花見、潮干狩り、神社仏閣詣で・・・・そんな事は只今と大した相違もないでしょうが、ただ当時の男子にとりて何よりの娯楽は猪狩り兎狩り等の遊びでございました。何れも手に手に弓矢を携え、馬に跨って、大変な騒ぎで出掛けたものでございます。父は武人ではないのですが、それでも山狩りが何よりの道楽なのでした。まして筋骨の逞しい、武家育ちの私の良人などは、三度の食事を一度にしてもよい位の熱心さでございました。『明日は大楠山の巻狩りじゃ』などと布達(おふれ)が出ると、乗馬の手入れ、兵糧の準備、狩子の勢揃い、まるで戦争のような大騒ぎでございました。
 そうそう風流な、優しい遊びも少しはありました。それは主として能狂言、猿楽などで、家来達の中にそれぞれその道の巧者なのがおりまして、私達も時々見物したものでございます。けれども自分でそれをやった覚えはございませぬ。京とは違って東国は大体武張った遊び事が流行したものでございますから・・・・。衣服調度類でございますか-鎌倉にもそうした品物を売り捌く商人の店があるにはありましたが、先程も申した通り、別に人目を引くように、品物を店頭に陳列するような事はあまりないようでございました。呉服物なども、良い品物は皆特別に織らせたもので、機織が中々盛んでございました。もっともごく高価の品は鎌倉では間に合わず、やはりはるばる京に誂えたように記憶しております。
 それから食物・・・・これは只今の世の中よりずっと簡単なように見受けられます。こちらの世界へ来てからの私達は全然飲食をいたしませぬので、従って細かいことは判りませぬが、ただ私の守護しているこの女(T夫人)の平生の様子から考えてみますと、今の世の調理法が大変手数のかかるものであることはうすうす想像されるのでございます。あの大そう甘い、白い粉・・・砂糖とやら申すものは、勿論私達の時代にはなかったもので、その頃のお菓子というのは、主の米の粉を固めた打菓子でございました。それでも薄っすりと舌に甘く感じたように覚えております。又物の調味には、あの甘草という薬草の粉末を少し加えましたが、ただそれは上流の人達の調理に限られ、一般の使用するものではなかったように記憶しております。無論酒もございました・・・濁ってはおりませぬが、しかしそう透き通ったものでもなかったように覚えております。それから飲料としては桜の花漬、それを湯呑みに入れて白湯をさして客などに勧めました。
 こう言ったお話は、あまりつまらな過ぎますので、何卒これ位で切り上げさせて頂きましょう。私のようなあの世の住人が食物や衣類などにつきて遠い遠い昔の思い出語りをいたすのは何やらお門違いをしているようで、何分にも興味が乗らないで困ってしまいます・・・・。

自殺ダメ


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 やがて私の娘時代にも終わりを告ぐべき時節がまいりました。女の一生の大事は言うまでもなく結婚でございまして、それが幸不幸、運不運の大きな岐路となるのでございますが、私とてもその型から外れる訳にはまいりませんでした。私の三浦へ嫁ぎましたのは丁度二十歳の春で山桜が真っ盛りの時分でございました。それから荒井城内の十数年の武家生活・・・・随分楽しかった思い出の種子もないではございませぬが、何を申してもその頃は殺伐な空気の漲った戦国時代、北条某(なにがし)とやら申す老獪な成り上がり者から戦闘を挑まれ、幾度かの激しい合戦の挙句の果が、あの三年越しの長の籠城、とうとう武運拙く三浦の一族は、良人(おっと)をはじめとして殆ど全部城を枕に討死してしまいました。その時分の不安、焦燥、無念、痛心・・・・今でこそすっかり精神の平静を取り戻し、別に口惜しいとも、悲しいとも思わなくなりましたが、当時の私共の胸には正に修羅の業火が炎々と燃えておりました。恥ずかしながら私は一時は神様も怨みました・・・・人を呪いもいたしました・・・・何卒その頃の物語だけは差し支えさせて頂きます・・・・。
 大江家の一人娘が何故他家へ嫁いだか、と仰せでございますか・・・・あなたの誘い出しのお上手なのには本当に困ってしまいます・・・・。ではホンの話の筋道だけつけてしまうことに致しましょう。現世の人間としてはやはり現世の話に興味を有たるるか存じませぬが、私共の境涯からは、そう言った地上の事柄はもう別に面白くも、おかしくも何ともないのでございます・・・・。
 私が三浦家への嫁入りにつきましては別に深い仔細はございませぬ。良人を私の父が見込んだのでございます。『頼もしい人物じゃ。あれより外にそちが良人とかしづくべきものはない・・・・』ただそれっきりの事柄で、私は大人しく父の仰せに服従したまででございます。現代の人達から頭脳が古いと思われるか存じませぬが、古いにも、新しいにも、それがその時代の女の道だったのでございます。そして父のつもりでは、私達夫婦の間に男児が生まれたら、その一人を大江家の相続者に貰い受ける下心だったらしいのでございます。
 見合いでございますか・・・・それはやはり見合いも致しました。良人の方から実家へ訪ねてまいったように記憶しております。今も昔も同じこと、私は両親から召されて挨拶に出たのでございます。その頃良人はまだ若うございました。確か二十五歳、縦横揃った、筋骨の逞しい大柄の男子で、色は余り白い方ではありません。目鼻立尋常、髭はなく、どちらかといえば面長で、目尻の釣った、きりっとした容貌の人でした。ナニ歴史に八十人力の荒武者と記してある・・・・ホホホホ良人はそんな怪物ではございません。弓馬の道に身を入れる、武張った人ではございましたが、八十人力などというのは嘘でございます。気立ても存外優しかった人で・・・・。
 見合いの時の良人の服装でございますか-服装は確か狩衣に袴を穿いて、お定まりの大小二腰、そして手には中啓を持っておりました・・・・。
 婚礼の式のことは、それは何卒お聞き下さらないで・・・・格別変わったこともございません。調度類は前以って先方へ送り届けておいて、後から駕籠(かご)に乗せられて、大きな行列を作って乗り込んだまでの話で・・・・式は勿論夜分に挙げたのでございます。全ては皆夢のようで、今更その当時を思い出してみたところで何の興味も起こりません。こちらの世界へ引越してしまえば、めいめい向きが違って、ただ自分の歩むべき途を一心不乱に歩むだけ、従って親子も、兄弟も、夫婦も、こちらでは滅多に付き合いをしているものではございません。あなた方もいずれはこちらの世界へ引き移って来られるでしょうが、その時になれば私共の現在の心持が段々お判りになります。『そんな時代もあったかナ・・・』遠い遠い現世の出来事などは、ただ一片の幻影と化してしまいます。現世の話は大概これで宜しいでしょう。早くこちらの世界の物語に移りたいと思いますが・・・・。
 ナニ私が死ぬる前後の事情を物語れと仰るか・・・。それではごく手短にそれだけ申し上げることに致しましょう。今度こそ、いよいよそれっきりでお終いでございます・・・。

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 足掛け三年に跨る籠城・・・・月に幾度となく繰り返される夜討、朝駆、矢合わせ、切り合い・・・・どっと起こるトキの声、空を焦がす狼煙・・・・そして最後に武運いよいよ尽きてのあの落城・・・四百年後の今日思い出してみるだけでも気が滅入るように感じます。
 戦闘が始まってから、女子供は無論皆城内から出されておりました。私の隠れていた所は油壺の狭い入り江を隔てた南岸の森の蔭、そこにホンの形ばかりの仮家を建てて、一族の安否を気遣いながら侘び住まいをしておりました。只今私が祀られているあの小桜神社の所在地-少し地形は違いましたが、大体あの辺だったのでございます。私はそこで対岸のお城に最後の火の手の挙がるのを眺めたのでございます。
 『お城もとうとう落ちてしまった・・・・最早良人もこの世の人ではない・・・・憎ッくき敵・・・・女ながらもこの怨みは・・・・・』
 その時の一念は深く深く私の胸に喰い込んで、現世に生きている時はもとよりのこと、死んでから後も容易に私の魂から離れなかったのでございます。私がどうやらその後人並の修行が出来て神心が湧いてまいりましたのは、ひとえに神様のお諭しと、それから私の為に和やかな思念を送ってくだされた、親しい人達の祈願の賜物なのでこざいます。さもなければ私などはまだ中々救われる女性ではなかったのかも知れませぬ・・・・。
 兎にも角にも、落城後の私は女ながらも再挙を図るつもりで、僅かばかりの忠義な従者に護られて、あちこちに身を潜めておりました。領地内の人民も大変私に対して親切に庇ってくれました。-が、何を申しましても女の細腕、力と頼む一族郎党の数もよくよく残り少なになってしまったのを見ましては、再挙の計画の到底無益であることが次第々々に判ってまいりました。積もる苦労、重なる失望、ひしひしと骨身に染みる寂しさ・・・・私の体は段々衰弱してまいりました。
 幾月かを過ごす中に、敵の監視も段々薄らぎましたので、私は三崎の港から遠くもない、諸磯と申す漁村の方に出て参りましたが、モーその頃の私には世の中が何やら味気なく感じられてしようがないのでした。
 実家の両親は大変に私の身の上を案じてくれまして、しのびやかに私の仮宅を訪れ、鎌倉へ帰れと勧めてくださるのでした。『良人もなければ、家もなく、又跡を継ぐべき子供とてもない、よくよくの独り身、兎も角も鎌倉へ戻って、心静かに余生を送るのがよいと思うが・・・・』色々言葉を尽くして勧められたのでありますが、私としては今更親元へ戻る気持にはドーあってもなれないのでした。私はきっぱりと断りました。-
 『思し召しは誠に有難うございまするが、一旦三浦家へ嫁ぎました身であれば、再びこの地を離れたく思いませぬ。私はどこまでも三崎に留まり、亡き良人をはじめ、一族の後を弔いたいのでございます・・・・』
 私の決心のあくまで固いのを見て、両親も無下に帰家を勧めることも出来ず、そのまま空しく引取ってしまわれました。そして間もなく、私の住宅として、海から二、三丁引っ込んだ、小高い丘に、土塀を巡らした、ささやかな隠宅を建ててくださいました。私はそこで忠実な家来や腰元を相手に余生を送り、そしてそこで寂しくこの世の気息を引取ったのでございます。
 落城後それが何年になるかと仰るか-それは漸く一年余り私が三十四歳の時でございました。誠に短命な、つまらない一生涯でありました。
 でも、今から考えれば、私にはこれでも生前から幾らか霊覚のようなものが恵まれていたらしいのでございます。落城後間もなく、城跡の一部に三浦一族の墓が築かれましたので、私は自分の住居からちょいちょい墓参を致しましたが、墓の前で眼を瞑って拝んでおりますと、良人の姿がいつもありありと眼に現れるのでございます。当時の私は別に深くは考えず、墓に詣れば誰にも見えるものであろう位に思っていました。私が三浦の土地を離れる気がしなかったのも、つまりはこの事があった為でございました。当時の私に取りましては、死んだ良人に会うのがこの世に於ける、殆ど唯一の慰安、殆ど唯一の希望だったのでございます。『何としてもここから離れたくない・・・・』私は一途にそう思い込んでおりました。私は別に婦道がどうの、義理がこうのと言って、難しい理屈から割り出して、三浦に踏み止まった訳でも何でもございませぬ。ただそうしたいからそうしたまでの話に過ぎなかったのでございます。
 でも、私が死ぬるまで三浦家の墳墓の地を離れなかったという事は、その領地の人民の心によほど深い感動を与えたようでございました。『小桜姫は貞女の鑑である』などと、申しまして、私の死後に祠堂(やしろ)を立て神に祀ってくれました。それが現今も残っている、あの小桜神社でございます。でも右申し上げた通り、私は別に貞女の鑑でも何でもございませぬ。私はただどこまでも自分の勝手を通した、一本気の女性だったに過ぎないのでございます。

自殺ダメ


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 気の進まぬ現世時代の話も一通り片付いて、私は何やら身が軽くなったように感じます。そちらから御覧になったら私達の住む世界は甚だ頼りのないように見えるかも知れませぬが、こちらから現世を振り返ると、それは暗い、せせこましい、空虚な世界-どう思い直してみても、今更それを物語ろうという気分にはなり兼ねます。とりわけ私の生涯などは、どなたのよりも一層つまらない一生だったのでございますから・・・・。
 え、まだ私の臨終の前後の事情がはっきりしていないと仰るか・・・・そういえばホンにそうでございます。では致し方がございません、これから大急ぎで、一通りそれを申し上げしまうことに致しましょう。
 前にも述べた通り、私の体は段々衰弱して来たのでございます。床についてもさっぱり安眠が出来ない・・・箸を執っても一向食物が喉に通らない・・・心の中はただむしゃくしゃ・・・、口惜しい、怨めしい、味気ない、寂しい、情けない・・・・何が何やら自分にもけじめのない、様々の妄念妄想が、暴風雨のように私の衰えた体の内を駆け巡っておるのです。それにお恥ずかしいことには、持って生まれた負けず嫌いの気性、内実は弱いくせに、無理にも意地を通そうとしておるのでございますから、つまりは自分で自分の身を削るようなもの、新しい住居に移ってから一年とも経たない中に、私はせめてもの心遣いなる、あのお墓参りさえも出来ないまでに、よくよく悴憔(やみほう)けてしまいました。一口に申したらその時分の私は、消えかかった青松葉の火が、プスプスと白い煙を立て燻っているような按配だったのでございます。
 私が重い枕に就いて、起居も不自由になったと聞いた時に、第一に馳せつけて、なにくれと介抱に手を尽くしてくれましたのはやはり鎌倉の両親でございました。『こうかけ離れて住んでいては、看護に手が届かんで困るのじゃが・・・』めっきり小びんに白いものが混じるようになった父は、そんな事を申して何やら深い思案に暮れるのでした。大方内心では私の事を今からでも鎌倉に連れ戻りたかったのでございましたろう。気性の勝った母は、口に出しては別に何とも申しませんでしたが、それでも女はやはり女、木陰へ回ってそっと涙を拭いて長太息を漏らしているのでこざいました。
 『いつまでも老いたる両親に苦労をかけて、自分は何という親不孝者であろう。いっそのこと全てを諦めて、大人しく鎌倉へ戻って専心養生に努めようかしら・・・・』そんな素直な考えも心のどこかに囁かないでもなかったのですが、次の瞬間には例の負け嫌いが私の全身を包んでしまうのでした。『良人は自分の眼の前で討死したではないか・・・・・憎いのはあの北条・・・・・たとえ何事があろうとも、今更おめおめと親許などに・・・・・』
 鬼の心になり切った私は、両親の好意に背き、同時に又天をも人をも怨み続けて、生き甲斐のない日にちを数えていましたが、それもそう長いことではなく、いよいよ私にとりて地上生活の最後の日が到着いたしました。
 現世の人達から観れば、死というものは何やら薄気味の悪い、何やら縁起でもないものに思われるでございましょうが、私共から観れば、それは一匹の蛾が繭を破って脱け出るのにも類した、格別不思議とも無気味とも思われない、自然の現象に過ぎませぬ。従って私としては割合に平気な気持で自分の臨終の模様をお話することが出来るのでございます。
 四百年も以前のことで、大変記憶は薄らぎましたが、ざっと私のその時の実感を述べますると-何よりも先ず目立って感じられるのは、気が段々遠くなって行くことで、それは丁度、あのうたた寝の気持-正気のあるような、又無いような、なんとも言えぬうつらうつらした気分なのでございます。傍から覗けば、顔が痙攣したり、冷たい脂汗が滲み出たり、死ぬる人の姿は決して見よいものではございませぬが、実際自分が死んでみると、それは思いの外に楽な仕事でございます。痛いも、痒いも、口惜しいも、悲しいも、それは魂がまだしっかりと体の内部に根を張っている時のこと、臨終が近付いて、魂が肉のお宮を出たり、入ったり、うろうろするようになりましては、それ等の一切はいつとはなしに、どこかへ消える、というよりか、寧ろ遠のいてしまいます。誰かが枕辺で泣いたり、叫んだりする時にはちょっと意識が戻りかけますが、それとてホンの一瞬の間で、やがて何もかも少しも判らない、深い深い無意識のモヤの中へと潜り込んでしまうのです。私の場合には、この無意識の期間が二、三日続いたと、後で神様から教えられましたが、どちらかといえば二、三日というのは先ず短い部類で、中には幾年幾十年と長い長い睡眠を続けているものも稀にはあるのでございます。長いにせよ、又短いにせよ、兎に角この無意識から眼を覚ました時が、私達の世界の生活の始まりで、舞台がすっかり変わるのでございます。

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