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カテゴリ:★『シルバーバーチの霊訓』 > シルバーバーチ 既成宗教のどこが間違っているか

シルバーバーチ 既成宗教のどこが間違っているか 目次

既成宗教のどこが間違っているのか(1)-キリスト教を中心に

既成宗教のどこが間違っているのか(2)

既成宗教のどこが間違っているのか(3)

既成宗教のどこが間違っているのか(4)

既成宗教のどこが間違っているのか(5)

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 〝今もしナザレのイエスが地上へ戻って来て自分の名の下に説かれている教えを聞いたら、一体何のことだか理解出来ないでしょう。その多くはイエスが説いたものではないからです。後世の聖職者達がでっち上げたものだからです〟
 これは聖公会(アングリカン)の牧師が初めて交霊会に出席した時にシルバーバーチが語った言葉である。以下その二人の問答を皮切りに、既成宗教のそもそもの間違いはどこにあるのかを総合的に検証してみよう。まず牧師から質問する-

-あなたの霊訓によって随分教えられております。私は牧師ですが、ドグマと組織化された宗教というものに幻滅を感じております。でも私はキリスト教にもある種の良さを見出しております。そこで、果して教会内に留まって改革の仕事をすべきか、それとも教会を脱退して外部から仕事をすべきかで迷っております。

 話を教会そのものの起源から始めましょう。他の宗教の教会に相当するもの、つまり寺院、教会堂、礼拝堂と同じく、キリスト教の教会も、その昔、霊力が地上に降りたということがその起源となっております。それには聖書に言う〝しるしと驚異〟もしくは〝奇跡〟と呼ばれるものが伴っております。
 霊力というものはその時代の古びた信仰、間違った教義やドグマへの挑戦という形で届けられました。それが霊的起源であることの証拠は、病人を癒すこと、迷える者に導きの光を授けること、物質は殻であり霊こそ実在であるという基本的原理を教えるということで示されたのでした。しかし残念ながら歴史をご覧になれば分かるように、そうした霊力のほとばしりも、ほんの短い期間しか続きませんでした。
 そうした中で神学者というのが次第に勢力を持ち始め、勝手な教義をでっち上げ、それが純粋な霊性を具えていた啓示と置き代えられて行きました。不毛の人間的産物が神の声を押し退けてしまったのです。その後も〝しるしと驚異〟或いは〝奇跡〟と信じられるものを伴った霊力のほとばしりがあり、それが又もや人間的産物によって置き代えられるということが何度となく繰り返されました。
 そうしたことばかりしている教会をイエスは〝白塗りの墓〟と表現しました。霊力がすっかり抜き取られているからです。繰り返される作業によって築き上げられた壁のあまりの頑強さに、崇高なる霊の力も突き通すことが出来ないのです。そのことをまず率直に申し上げねばなりません。
 さて、あなたが一番良い例ですが、それまで信じて来た伝統的な信仰と真っ向から対立する霊的真理に真実性を自覚し始めた時に問題が生じます。板挟みの状態の中でどう身を処すべきかということになるのですが、あなたに限って言えば、現在の立場に留まって、その世界の中であなたに耳を傾ける人を啓発して行きなさいと申し上げます。スピリチュアリズムという用語を用いる必要はありません。これは単なるラベルに過ぎません。私達はラベルには拘りません。私達の関心は魂を解放すること、大霊の意図される生き方を可能にしてくれる自由を与えてあげることです。
 地上世界の問題の大半が物質中心の考え方に起因しております。物的欲望は地上界を毒する悪性の癌です。これは是非とも人生の基盤が霊であり物質ではないという知識、理解、悟りによって駆逐しないといけません。
 それなら教会内でも出来る筈です。導きを求めてあなたの下を訪れる人に教えてあげることが出来ます。あなたの今の実力をもってすれば、真の自我を見出す手引きをしてあげられる立場にいらっしゃいます。人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。自分を救うのは自分でしかないのです。誰も救ってはくれないのです。その手引きをしてあげる方法は教会においても見出せることにお気付きになられます。
 教会を去ってしまえば霊媒その他、スピリチュアリズム関係の人達との接触に限られてしまいます。ということは、スピリチュアリズムの啓蒙活動の側から言えば、同志が一人増えただけということになります。その点キリスト教界に留まっていれば、伝道の使命を帯びた正式の牧師として、あなたの教会に精神的指導を求めて来る人々に手を差し延べてあげることが出来ます。
 ナザレのイエスは今尚我々のこうした仕事の背後の中心的指導者として活躍しておられます。その他にもかつて地上であなたと同じように牧師の聖衣を纏っていた人が大勢参加しております。他界後に身に付けた知識と霊力とを携えて、地上の人類に幅広く援助の手を差し延べる為の道具を求めております。使命感は死と共に終わるものではないのです。
 神は人間に〝疑う心〟を植え付けております。真実性を確かめる為の批判的精神です。正直な批判は少しも悪いものではありません。真実を知りたいが為に疑ってかかる人を私達は大いに歓迎します。ですが、口先だけの議論や用語の詮索ばかりする人は御免被ります。
 私はいつでもどこでも援助します。悲しみや苦しみが触媒となって霊性が目覚め始めた魂を見つけ次第援助します。受け入れる用意が出来たからです。
 その牧師には夫人の他にもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。その女性が尋ねる-

-私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないと仰っています。〝大霊とは法則です〟と述べておられるのですが、別の所では〝未来永劫に亘って神の愛と愛の神が存在します。皆さんが愛念を表現する毎に神が自らを顕現なさるお手伝いをしているのです〟とも述べておられます。これらの表現や他の諸々の言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にして頂けないでしょうか。

 分かりました。でも、これはとても難しい問題です。なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。
 大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。もしも私が大霊のことを中性名詞で〝それ〟と呼んだら、男性名詞で〝彼〟と呼ぶよりも更に厄介な問題が生じます。
 物的世界は、他の全ての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。その作用は完璧であり、停止することも、無効になることもありません。無限の知性によって考案されたものだからです。
 生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。種蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理の下に生じています。突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。
 こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、従って完全なる公正が行き渡っているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。
 死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることは出来ません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることは出来ません。なぜならば摂理は完全な公正が行き渡るように働かねばならないからです。あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。霊格を誤魔化したり偽ったりすることは出来ません。そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。 あなたは〝人間性〟を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。が、神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。ましてや、自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神様ではありません。
 摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植え付けられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらす為のチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。

-全てが神の懐の中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。

 結構です。神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。

-新約聖書の中(マタイ9・17)でイエスは、古い皮袋に新しいぶどう酒は入れられないと述べております。これとあなたが説いておられることとはどう結び付けたらよろしいでしょうか。

 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れることは出来ません。古いぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです。霊力というものを人間が勝手に拵えた信仰に合わせて働かせることは出来ません。霊的真理を自分の信仰の型に嵌め込むことは出来ません。いかなる信仰も、いかなる教義も、いかなる名句も、自分がこれは真実ではありえないと確信したものは、いかに古くから伝えられているものであっても、即座に拒絶なさらないといけません。
 イエスはよく寓話を用いました。が、言わんとしていることは極めて明瞭です。もしもあなたが霊力の存在を自覚していらっしゃるのなら、もしも霊的真理を確信していらっしゃるのなら、それと食い違う教説は一切説いてはなりません。ただそれだけのことです。
 例えば、先程大霊についての質問がありましたが、大霊とは、どこかで説かれているような三位一体などというものではありません。大霊は全てであり、いずこにでも存在します。宇宙の全生命を包摂しております。もしも神とは三つの部分に分けられるものと信じているとしたら、その信仰は間違いです。それに、そう信じたからといって一体どうなるというのでしょう。神とは一にして三、三にして一であると信じたら、何か霊的に救われることでもあるのでしょうか。

-(最初に質問した牧師)私には何のことだか、訳が分かりませんでした。

 私にも分かりません。あなたはあなたに啓示された真理に忠誠を尽くすことです。信じられる筈もないものを信じようとするのは、あなたの知性の信用に関わります。又、あなたの魂の成長にとってもプラスになりません。

 別の日の交霊会に同じく〝国教会の不満分子〟の一人が夫人と共に招待され〝妻と共に生涯忘れ難い夕べ〟を体験した。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べる-

 あなたが私の説く真理の幾つかをご存知であることはよく承知しております。あなたなりの厳しい自己批判と精神的苦悶の末に、過去の教条と教説に背を向けられ、これこそ人生に光明をもたらしてくれると信じる霊的真理を手にされました。
 本当を言えばあなたと同じ立場にある他の聖職者達も、あなたと同じように霊の力とその崇高な真理を手にして欲しいのですが、それが思うに任せないのが残念です。本来ならばその霊力の守衛であり、大霊の大使であり特使であるべき人達が石の壁を張り巡らして、霊力も真理も突き通せなくしてしまっている光景は、見るも悲しいことです。
 当然の結果として教会は冷たく荒涼として、生命力に欠けた不毛の場と化しております。生気溢れる霊力の顕現がそこにないからです。その点あなたは、悲痛な思いを経た上でのことではありましたが、真理の道を見出されたことを喜ぶべきです。自分をそこまで導いてくれた光明の存在を知ることになりました。それはこれからも引き続き光輝溢れる光を放ち、あなたの辿るべき道を照らしてくれることでしょう。

-私共は大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人類の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。

 大霊は個的存在ではありません。大霊は個人が神格化されたものではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休み無く作用している無限の知性です。
 それは数限りない自然現象の中に見ることが出来ます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人の為に尽くす時、その愛の表現の中にも見ることが出来ます。
 又、病の人を癒し、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気付けてあげる時の霊力の流れの中にも見ることが出来ます。
 一個の男性或いは女性として出現することは出来ません。個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。

-私達から大霊に直接語りかけることは出来るのでしょうか。もし出来るとしたら、それは私達自身に内在する神性のことでしょうか。

 あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合に過ぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向かっての努力を限りなく続けるわけです。従って大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。
 一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意を行き渡らせることを任務とした高級神霊の一大組織が張り巡らされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、或いは声に出して祈ることによってでも、あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れ易い思念を明確に纏め、具象化することになるからです。
 しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。

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-あなたは霊界でイエスにお会いになったことがありますか。

 あります。何度もお会いしております。このことはこのサークルの皆さんには既にお話してあります。定期的にクリスマス(冬至)とイースター(夏至)の二度、この地上から引き上げて、そのイエスが主催される大集会に参列する際に拝謁しております。今イエスは二千年前にご自身が身をもって示しながら、その信奉者をもって任ずる人々によって台無しにされてしまった霊的真理の普及に携わっておられます。
 その働きによって、二千年前にイエスを通じて顕現したのと同じ霊力による現象(心霊現象及び病気治療)を伴って、その霊的真理が地上に蘇りつつあります。イエスにとって、又その配下の神霊にとって、地上の宗教界の指導的立場にある者が基本的な真理について救いようのない程無知である様子を見ること程嘆かわしい思いをさせられるものはありません。
 あなたは光明を見出されました。そのことを大いに喜ぶべきです。そして、ここまであなたを導き、間違いない道標を提供してくれた霊力と同じものが、これからも引き続き導いてくれることを信じてください。これまでも決して楽な道ではありませんでしたが、使命を担った者に楽な道はないのです。
 もしも使命を担った者が降り掛かる困難を克服出来ないとしたら、地上の寄生虫的営利第一主義に対抗して霊界から挑んでいるこの霊的大戦の将校としては失格であることになります。
 皆さんの心に温もりと愛とをもたらしてくれた真理、そして又、失ったと思っていたのが再び見つかり、更にここまで導いてくれた愛を、神に感謝しなくてはなりません。
 喜んでください。皆さんはバイブル(マタイ6・19)に言う〝虫が食い錆がつく〟ことのない宝を手にされたのです。清澄で光輝に溢れ、永久に曇ることがなく、決してあなた方の手から離れることはありません。なぜなら、苦難の末に手にされたものだからです。

 米国から訪れた二人の聖職者-内一人はキャノン(功績のあった牧師に贈られる名誉称号)-に対してシルバーバーチが次のような歓迎の言葉を述べた-

 お二人は立派なお仕事をなさっておられます。容易なことではありませんが、今日の米国を広く支配している暗黒を霊の光によって駆逐し、黄金の仔牛(富の象徴)に代わって霊的真理を崇拝の対象とするように導くことが是非とも必要です。
 なぜ必要か。それは、無数の魂がいずこへ向かうべきかも分からずに絶望の淵をさ迷っているからです。
 言い難いことを敢えて言わせて頂きますが、残念ながら今の米国には、そうした危機的状態にある人達の力となり霊的・精神的・物的自由をもたらしてあげられる牧師は何百人、多分何千人もいないのではないでしょうか。
 お二人は今その仕事に携わっておられるわけです。元々霊的真理の啓示の場として建立された教会が、人間の拵えた障害物(教義・教典)の為に霊力の働きのない場所となってしまっているのは悲しいことです。
 又、元々霊的問題の指導者、教師、人間の模範であるべき牧師が肝心の霊的基本真理について何一つ知らず、あまつさえ今の時代でも手にすることの出来る神のインスピレーションよりも人間の勝手な産物である教義の方を後生大事にしているのも情けないことです。
 こんな手厳しいことを私は決して非難するつもりで申し上げているのではありません。あるがままの事実を申し上げ、それが残念なことであることを指摘しているまでです。
 しかし、霊的光明はそうした障害を突破して、今や地上に根付いております。これ以後もますます増えていく人間的チャンネル(霊媒・霊能者・心霊治療家)を通じて霊力が流入し続けることでしょう。神の証人は今の時代にも大勢いること、全ての人間が神の恩恵に浴することが出来ることを立証していくことでしょう。
 その為には先ず日常生活を、それを受けるに相応しいものに整えなければならないことも思い知らされていくことでしょう。困難、死別、病苦を体験して初めて、魂にその素地が出来上がるのです。
 神学上の教義やドグマの解釈について討論し合うことに生き甲斐を覚えるような人種を相手に、あなたの貴重な時間を浪費してはいけません。何の価値もないことですし、霊性を一欠片たりとも伸ばすことにはなりません。不毛で無意味です。
 そういう人達よりも、既に受ける用意の出来た人との出会いを待つことです。そして、そういう人をいつでも受け入れてあげられる準備をしておくことです。いつでもどこでも、真理を説く用意をしておくことが大切です。その上で、もしも拒絶されたら、折角のチャンスを目の前にしながらそれを手にすることの出来なかった人を気の毒に思ってあげるがよろしい。
 神の摂理は完璧ですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は必ず真の自分を見出すチャンスに巡り会えるように配慮されております。魂が揺さぶられて神性の火花が炎と燃え上がり、内在する霊の豊かさ、威厳、美しさ、壮大さ、高貴さ、崇高さをいくらでも発揮することが出来ます。そのチャンスは全ての人に訪れます。そういう人の内のたった一人でもあなたが手助けしてあげることになれば、それは掛け替えのない価値をもつことになります。
 霊界には地上の様々な状態-動乱・混沌・暴力・破壊・強欲・大欲・嫉妬、要するに人類全体に蔓延っている物欲優先の産物の処理に深く関わっている高級霊団が存在します。宇宙の大経綸組織の一部を担っている霊団です。
 自分が真の自我に目覚め、自分とは何なのか、なぜこの地上に存在しているのか、この地上を天国のような住処にする上で人間は何を為しうるかを自覚するには、先ずそうした物欲優先の産物を根絶しなければなりません。全ての人間が霊的光明の下で生きるようになれば、必ずや地上天国が実現するように意図されているのです。
 お二人はそれを実現するという壮大な目的の為に貢献する、測り知れない光栄に浴しておられます。そこまで導かれて来たわけです。どんなに辛い思いをしている時でも、どんなにうんざりする思いをさせられている時でも、決して孤独ではないということを忘れてはなりません。霊の光が常にあなた方の足下を照らし、霊の愛がいついかなる時もあなた方を包み込んでおります。
 何度も申し上げていることですが、人の為に役立つことをすることは気高いことです。同胞の為に尽くすことによって、共通の親である大霊の役に立つということ程気高い貢献はありません。これに勝る宗教はありません。
 形式を守り教義に盲従するというだけの宗教では何の価値もありません。真の宗教とは自ら世に出て、少しでも住み良い環境にするような行為を心掛けることです。
 自分を取り囲む事情が険しくなって来た時-暗黒が低く垂れ込め、稲光が走り、雷鳴が轟き始めた時は、心を静かにして、これまで自分を導いて来た力はきっとこれからも導き続けて、次に進むべき道を示してくれる筈だという確信をもつことです。
 力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじるということは立ち直れるということを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、必ず失敗を犯します。完全へ向けての巡礼の旅は永遠に続くのです。これまでに啓示された真理に感謝しなくてはいけません。

 別の日の交霊会でサークルのメンバーが質問した-

-こうした霊的真理に目覚めた宗教界の指導者は、それまでに抱いて来た宗教観を棄てるべきでしょうか。

 各人各個の責任ということが絶対的原理の一つです。各自が自分の行為に責任をもつということです。真理を誤魔化すことは出来ません。理解の芽生えと共に良心の声が次に取るべき行為を指示します。その指示を素直に受け止め、成る程と納得がいったら、何をおいてもその指示に従わなければなりません。それが原理です。その原理を無視している人達を個人的に私が非難することは控えたいと思います。私がそのようなことをするのは適当でないからです。

-非難するのは間違いですが、取るべき態度を説くのは許されるのではないでしょうか。

 あなた方の為すべきことは、いつどこにおいても真理を説くということです。人との出会いがそれを目的としている(背後霊によっと導かれている)場合があります。あなたも、あなたにとって最も必要な時にそうした出会いによって救われたのです。そこに摂理の働きがあり、真理はそういう形で広められていくものなのです。
 それから後のことは、もうあなたの責任ではありません。地上の人間は一人一人が皆異なった進化と発達の段階を歩んでいるのです。全ての者にアピールするたった一つの真理というものは無いのです。従って、こと霊的な問題に関する限り〝集団回心〟ということは有り得ないのです。
 〝風は思いのままに吹く〟(ヨハネ3・8)と申します。霊力はそれを受け入れてくれる所へ浸透していきます。パン種が絶え間なく働いているのです。各自が各自の成長と進化の段階に応じてその真理の意味するところを理解し、そしてそこから次の段階へと進む他ありません。
 大切なのは真理がその人の自我に居場所を見出すということです。前にも申した通り、霊的な繋がりは、一旦出来上がったら二度と切れることはありません。それを拵えることが、霊力が地上へ顕現していく為のチャンネル、つまり通路を拵えることになるのです。
 自分が理解した限りの真理-あなた方はもとより私自身もまだその全てを理解したわけではありません-に照らして行動する以外に生きる道はありません。それ以上のこともそれ以下のことも求められることはありません。何度も申しておりますように、自分としてのベストを尽くすことです。それ以上のことが出来るわけがありませんし、又それ以下のことをすべきではありません。
 あなた方が真理を広め、間違いと迷信と無知とを駆逐する為に行う努力の一つ一つに、霊界からの祝福と援助があります。私達がこうして地上世界へ戻って来た目的もそこにあります。
 それにつけても情けなく思うのは、本来ならば霊的な問題について最も多く知っていなければならない筈の聖職者が、一番無知であることです。現在の地上世界の既成宗教の全てが委縮し、霊的啓示の根源からあまりに遠ざかり過ぎて、それを最初に受け止めた霊覚者の教えと、その後継者達によって歪められた教説との間の見分けが殆どつけられなくなっている現実は、大いに反省すべきであると思います。
 私のような者がこうして地上へ戻って来て、霊的な教訓、霊的な哲理、霊的な論理を説き、宗教がその基盤とすべき真実の原理を述べるよう要請されることになったのも、地上の既成宗教がその本来の機能を失い、道を求めて訪れる人に真の導きを与えることが出来なくなってしまったことが大きな理由の一つなのです。
 そもそもそうした宗教の誕生の基盤となったのが霊力であったのに、よりによってその宗教が作り上げた建造物の中が一番霊力がお留守になっているというのは、何とも皮肉なことです。しかも、その組織のリーダー達は、他の面(社会奉仕等のこと)では殊勝な心掛けの人達かも知れませんが、肝心の霊力に対する受容力に欠け、それを見る目も聞く耳も語る口も持ち合わせなくなっております。その無知故に今の時代でも聖霊の働きかけがあることを認めようとしません。歴史に語られている大きな事象を起こしたのと同じ霊力が今日でも働きかけているのです。
 その点あなた方は光栄にもその強大な霊力の保管者であり頒布者でいらっしやいます。為政者の無知と盲目故に危機に陥り、今尚その危機から脱し切れずにいる地上世界の為に大切な貢献をしていらっしゃいます。
 あなた方のように真理に目覚めた方は世界中に大勢いますが、そういう人の為すべきことは、自分が受けた影響力を更に他の人々へ広げていくことです。それによって更に大勢の人が自分とは一体誰なのか、何者なのか、なぜこの地上に存在しているのかを知り、その目的を成就するには何を為すべきかを理解していくことでしょう。
 悲しいことですが今の地上世界には、まるで暗い土中に住むモグラのように、人生について、生きる力の始源について、その目的について何一つ理解せず、生命のもつ物的・精神的・霊的な喜びを味わう術を知らない人が無数に存在します。

-(招待された科学者)科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが〝大霊〟と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視出来る存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないということです。いかがでしょうか。

 まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。ここで直ぐ問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現出来ないということです。ゴッド、神、或いは私の言う大霊は永遠の存在であり、初めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからも永遠に存在し続けます。霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、初めもなく終わりもありません。かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したという性質のものではないということです。
 限りある存在であるあなた方人間には全体を把握するということは不可能ですから、宇宙の背後のその壮大な力は、限られた形でしか想像出来ないことになります。
 今あなたは神を大自然の法則と同一視していると仰いました。しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みを拵えた無限なる知性です。
 残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。個的形態を具えていない存在というものが想像出来ないのです。しかし神は、あなた方が想像するような個的存在ではありません。あなた方が想像するような人物的存在ではありません。
 神とは非人間的存在でありながら同時に人間性の全てを表現している存在です。これはあなた方には理解出来ないでしょう。神は全ての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。
 ですから、神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうる限りの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。
 神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在出来ません。神から切り離されるということがありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有する限りは全てのものに宿っているのです。
 私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するもの全てに内在している崇高な力です。

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-(もう一人のゲスト)神が完全な叡智と知性と愛を具えた普遍的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間は不完全なのでしょうか。

 それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内蔵しております。人間はそれを発現させて完成させなくてはならないのです。それは無限の時間を要する過程です。
 別に難しい問題ではありません。人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。が、内部に神性という完全性の火花が宿されております。その火花を大きな炎と燃え上がらせる為に、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。
 地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。男性である方が女性であるより勝れているかに信じているわけです。
 神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。生命は霊であり霊は生命です。霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神と繋がっており、神性を共有しているのです。ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。
 地上世界を一気に変革することは出来ません。人々を変えるのも容易ではありません。が、自分を変えることは今直ぐからでも始められます。いつどこにいても人の為を心掛けるのです。力になってあげるのです。自分が教わったものを分けてあげるのです。もしもそれが受け入れられれば喜び、拒否されればその人の思う道を行かせてあげればよろしい。あなたが導いてあげるべき人が次々とあなたの下に案内して来られるのです。
 神は、愛と知性をもって拵えその霊力によって活力を与えている地上世界から分離して存在することは出来ません。

-神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。

 それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私達は、それを自ら実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれ程暗い世界へ戻って来るようなことは致しません。
 同時に又、地上に救いの手を差し延べるべき時機が到来したからこそでもあります。つまり私達の援助を受け入れる準備が出来た人がいるということです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。
 霊の光は、これからも媒体のある所ならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明り程度に過ぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、或いは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙の隅々まで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善することにはなりません。

-イエスは何回も再生を繰り返しながら進化した一個の人間だったのでしょうか、それとも地球の創造以前から存在していたのでしょうか。

 私に言えることは、イエスを通して発現した霊力は、今日の地上の全ての人間を通して発現している霊力と本質において全く同じものだということだけです。程度の差、霊的進化の違いはあっても、霊の本質において何の違いもありません。霊は全て同じです。それが永い年月に多くの個的存在を通して様々な形で再生を繰り返すことは有りうることです。

-祈りの効用について説明してください。

 知識の領域を少しでも広めようとする努力、病める人を一人でも多く治してあげたいと思う心、死別の悲しみに暮れる人をもっと慰めてあげたいと思う気持、人生に疲れた人があなたという灯台を見つけられるように一層の輝きを増したいという願い-いずれも私達が携わっている仕事なのですが-こうした真摯な祈りが何の反応もなく見過ごされることは絶対にありません。
 あなたは一人ぽっちではないのです。大軍の一員なのです。我々の背後、見えざる次元には、多分あなたには想像も出来ない程進化した霊の大集団が控えているのです。あなたも、私も、そして私達と志を同じくする者は、いつでもその援助を授かることが出来るのです。
 唯一の制約条件は、それを受け入れ吸収する能力です。霊的資質を培う程、それだけ多くの美しさと輝きと壮大さと高潔さと光沢を身に付けることになります。それが魂を刺激して、地上への誕生と共に賜った遺産である内部の神性をますます発現したいと願う気持ちにさせるのです。
 うなだれてはいけません。教会や礼拝堂や寺院よりも、あなた方の方が遙かに大きな仕事が出来るのです。皆さんは霊力を発揮することが出来ます。そういう建造物にはそれが出来ません。逆に霊の出口を閉じ、外へ出られなくしている不毛の神学の方を後生大事にしております。

-(サークルのメンバー)祈りの対象は自然の摂理であるべきでしょうか。

 いえ、対象は内にも外にも存在する大霊であるべきです。その大いなる霊力とのより緊密な関係を築くべく、先程述べたような真摯な願望と精神統一を通して努力すべきです。より多くの啓示、より多くの知識、より多くの叡智、より深い理解を求めての祈りであるべきです。そうした祈りは必ずや聞き届けられます。なぜなら、それを祈願するというその事実が、内部の神性の発現を促しているからです。

-あることで霊界からの働きかけがあったことを確信することがあるのですが、こちらから別に祈ったわけではありません。どうやって我々の必要性に気付いてくれるのでしょうか。

 真摯な祈りは必ずその標的を見出します。皆さんが心から祈る時-〝祈る〟のであって何かを〝欲しがる〟のではありません-その祈りの念は必ず聞き届けられます。霊視能力をお持ちの方であれば、皆さんの周囲に何等かの絆、親近感、及び特殊な分野での共通の奉仕的精神をもつ霊がいつも待機しているのが分かります。祈りの念がその霊を一層身近なものにするのです。
 磁気力にも似た吸引力の法則が働くのです。祈ることによって霊がそれに応えて働きかける掛け橋が出来上がるのです。私がいつも取り越し苦労はお止めなさいと申し上げるのはその為です。心配の念はその人の周囲の物的並びに霊的雰囲気を乱し、私達による援助が届けにくくなるのです。

-霊の方では人間が神のお助けを祈るまで待つのでしょうか。それとも祈る祈らないに関係なく、放っておくべき時は放っておき、援助すべき時は援助するのでしょうか。

 大自然の摂理の働きは完璧ですから、その機構の中にあって誰一人、何一つ忘れ去られることは有り得ないのです。全ての存在を包摂するように完全な摂理が行き渡っているのです。何一つ、誰一人その外にはみ出ているものはありません。あなたが神に見落とされるということは有り得ないのです。どこにいても神の管理下にあり、全てを包摂する自然の摂理の活動範囲の中にあります。
 ということは、あなたに必要なものは全て知れているということです。祈ることによって受ける援助は、その時点までに到達した精神的並びに霊的発達段階に応じたものとなります。
 ただ祈り方についてこちらから注文させて頂くとすれば、黙祷よりも声に出した方が、その人が本当に目指しているものは何かが明確になるという利点があります。

-祈るどころではなくて絶望のドン底に沈んでいるような人はどうなるのでしょうか。神なんかいるものかと思っている場合は援助は届けられないのでしょうか。

 人間が神なんかいるものかと思ったからとて、別にどうということはありません。それが神を困らせることはありません。

-そういう人にも救いの手を差し延べられるのでしょうか。色んな事情から祈ることが出来ない人、或いは神が信じられない人がいるとします。そしてその人が今苦しい境遇にあり、救いの手を必要としています。こういう場合はどうなりますか。

 援助を受ける能力は神の存在を信じる信じないには関係ありません。その段階での精神的並びに霊的発達程度によります。それが受け入れるものの中身を決定します。それが最も相応しいということです。それも原因と結果の関係であり、自然の決まりです。

-聖書には多くの真理が語られているのでしょうか。

 神の真理と人間の作り話の混ぜ物です。

-宗教心をもった人に死後の生命の話を持ち出すと、直ぐに聖書から〝死者と語ってはならない〟という文章を引用します。このことをどう思われますか。

 二つの要素が重なっております。聖書は永い間に随分いじくり回されて来ました。誤訳があり、脱落があり、それに元来がコピーのコピーのその又コピーであるということです。誰一人として、原典を持ち出して〝これが聖書の始まりです〟と言える人はいません。
 聖書の中には〝この言葉は本物です〟と言えるものは一つもありません。聖書に述べられていることが神の認可を得たものであるという証拠はどこにもないのです。身の毛もよだつような話があります。特に旧約聖書がそうです。ペテン、極悪非道、殺人、暴力等、誰が考えてもおよそ神の啓示とは思えない話が沢山あります。
 旧約聖書がもし本当のことを述べているとすると、神(ゴッド)、私の言う大霊は、地上の悪の権化のような暴君でもしそうにない振る舞いをすることがあることになります。ですから、聖書に述べられているからと言って、それだけで正しいということにはならないのです。もしも正しいと主張するのなら、一点の疑問の余地もないまでそれを証明しないといけません。
 聖書を絶対とする信仰家に申し上げたいのは、もしも本当に死者と語ってはならないというのであれば、ではなぜイエスと三人の弟子が山頂で行った交霊の場に、モーゼとエリヤが出現して語りかけたかということです。モーゼとエリヤはとっくの昔に死んでいるのです。その内のモーゼが〝死者と語るべからず〟と述べたというのですが、そのモーゼ自身が死者であり、それが地上に戻って来て語っているのではありませんか。これは信仰厚き方には困ったことであるに相違ありません。

-(質問者が代わる)妻と私の間に子供が出来た場合、宗教問題についてその子にどう教えたらよろしいでしょうか。特に私の場合はキリスト教信仰に全面的には納得していませんし、スピリチュアリズムの真実性を理解しております。

 思っていらっしゃる程難しい問題ではありません。親としてのあなたの責任は、その子が自然な成長を遂げるようにしてあげることです。幼少時は精神が柔軟な為に、教え込まれたものは思慮分別なしに吸収してしまいます。そういう時期に間違ったことを教えないように、正しい宗教的知識の中で個性を発揮させることが大切です。
 ご承知のように、幼少時に受け入れたものは潜在意識の中に固着し蓄積して、その後の真理の受け入れの障害となります。私達が人間に真理を教え込もうとする際に一番困るのは、幼少時に受けた間違った教育が無意識の内に抵抗させる働きをすることです。すっかり根付いてしまっている為に、それを排除するのに大変な時間が掛かります。
 又時折あるのが一種のカタルシス的反応です。つまり、成人してから、それまでに蓄積したものを良いものも悪いものも一切投げ棄てて、世の中の全てのものへ反抗することに快感を覚えるようになります。
 親としてのあなたの責任は、子供の心に間違った教えを植え付けないようにすることです。どうか子供には全ての宗教の基本となっている真理、共通した真理を教え、大きくなって神学的教義を教えられても魅力を感じず、単純・素朴な真理を求めるようになる、そういう素地を拵えてあげてください。

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自殺してはならない理由


-既に何等かの宗教を教え込まれて育っている人がいます。その教えがもし新しいものの理解を妨げている時は、それをぶち壊すべきでしょうか。

 それは難しいでしょう。不幸なことに、そういう人は既に子供時代に所謂洗脳をされています。これこそ宗教的であると信じられている概念を-実はそうではなく、ただの神学上の概念に過ぎないのですが-疑うことを知らない、従って全く無抵抗の柔軟な精神に植えつけられております。その柔軟な精神が、成人していくにつれて固くなって行きます。やがてその概念はただの概念として所有されている状態から、逆にその人間を雁字搦めに縛りつけるようになります。
 だから厄介なのです。といって、その人が後生大事にしているものをいきなりぶち壊すようなことはしてはなりません。それ以外にも色んな宗教的概念があることを教えてあげることです。宗教の起源について読むべき本が沢山あります。キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、仏教徒も、或いはイスラム教徒も、生まれる国が違っていたら別の宗教の信徒になっていた可能性があることを教えてあげることです。
 地上には数え切れない程の宗教があります。しかし神は一つ、大霊は一つなのです。その神はクリスチャンでもなければユダヤ教徒でもありません。スピリチュアリストでもありません。
 真の意味で宗教的であるということは、同胞に対してだけでなく動物に対しても思いやりの心を持つことです。他の存在を思いやる心がないようでは霊性を欠くことになります。
 霊能者や心霊治療家が人生の辛酸を嘗めさせられることが多いその理由の一つは、自ら苦しんで初めて他人への思いやりの心が芽生えるからです。神の道具としての道が常に厳しく、楽をさせてもらえないのは、そこに理由があります。

-政治をあずかる人も同じですね。

 でも神の道具の方が厳しいでしょう。為政者というのは、例えば他国へ戦争をしかけておいて、実際に前線で戦うのは一等兵、二等兵ばかりです。物質偏重思想との戦いにおいても、その最前線で厳しい目に遭っているのは為政者ではなくて神の道具なのです。
 他人へは哀れみをもって接し、信仰が間違っているからといってそれをぶち壊すのではなく、他にも色々な信仰があることを教えてあげることです。ハンマーを振り回すのではなく、他にも素晴らしい教えがあることをそれとなく気付かせる手段を考えてください。
 魂に受け入れる用意が出来ていれば、それが功を奏するでしょう。用意が出来ていなければ、残念ながらその人は霊的にも精神的にも地上では暗闇の中を歩む運命であり、霊界へ来てからも当分は同じ状態が続くことになります。

-世界の宗教を統一しようとする運動をどう思われますか。

 そうやって又混乱に混乱を重ねていくのです。一体それがそんなに大事なことなのでしょうか。当事者は自分達のことを大層重要な人物であると考えているのかも知れませんが、霊の力も光も発揮されないただの建造物では、イエスの言った通り、それは〝白塗りの墓〟でしかありません。
 私は、儀式や教義が違うからというだけで共通の場が持てずにいる人達のことは、あまり構う必要はないと思います。霊は常に一体化の方向へ働きます。仲違いをさせているのは人間の勝手な思想です。霊は、チャンスさえ与えられれば、その結合的意志を働かせるものです。
 本来ならば一つの大きな流れであるべき筈のそうした宗教を誕生させた、そもそもの起源が霊力であったことは歴史的事実です。が、それが何世紀も前から支流に分かれてしまいました。もう、そのまま好きな方向へ進むに任せておけばよろしい。
 私達は霊力そのものに全幅の信頼を置き、それを唯一の拠り所としております。それが善意の人々を鼓舞し、授かっている才能を駆使して同胞の為に役立たせるよう導きます。又、人類に自己革新の道を教えることによって、各自が自分のみならず地上世界そのものを救って行くことになるでしょう。
 霊力は建造物を通して流れるのではありません。一般の大衆が、無限の叡智を具えた神から授かった才能を発揮することによって流入するのです。真の魂の自由をもたらし、本当の生き方を教えてくれるのは、その才能の活用以外にはありません。

-(質問者が代わる)あなたの仰る〝宗教的寛容〟とはどういうものでしょうか。と申しますのは、私は〝シルバーバーチの訓え〟といっても基本的には他の宗教で説かれているものと同じだと信じます。が、それすら独断的で非寛容的であると見做される可能性があるのではないかと思うのです。例えば宇宙は自然法則によって支配されていて、それは完全であり不可変である、といったことです。

 私はこれまで一度たりとも不可謬性(絶対に間違ったことを言わないこと)を主張したことはございません。私もあなた方と同じく一個の人間的存在です。ただ、あなた方の理性に訴えるべき真理を説いているだけです。私がこうだと申し上げても、その裏にはそれを拒否したら罰が当たりますという含みは微塵もありません。
 これが私が真理だと信じているものです、ということしか言えません。それを皆さんに検討して頂く為に提供しているだけです。仮にそれを押し付けて何が何でも受け入れさせようとしても、私達にはその手立てがないのです。
 いかなる霊媒であろうと、その霊媒を通して語られたことにあなたの理性が反感を覚えたら、それには構わぬがよろしい。神はあなた方に理性と良識というものを与えておられます。それを使用すべきです。ドグマというのは理性的判断なしに受け入れるべきもののことです。
 私は、霊的な教えは知性でもって厳しく是非を判断すべきであると申し上げております。その厳しい詮索に耐えられるものは受け入れられるがよろしい。耐えられなければ拒否なさるがよろしい。それ以外に何か良い方法があるでしょうか。ご利益でしょうか、それとも罰でしょうか。
 それはいけません。私達は愛と良識によって共通の場で交われることを確認することによって、皆さんの協力を得なければなりません。

 同じ問題について別の交霊会で-

 皆さんと共に携わっている仕事の大変な重大性を見過ごさないようにしてください。永年に亘って幾億と知れぬ人々の心を束縛と隷属の状態に置いて来た迷信を駆逐しなければなりません。人間は本来ならば肉体と精神と霊の調和がもたらす、伸び伸びとした喜びの中で生活すべきなのです。霊的真理を知ることによって本当の自分とは誰なのか、何なのか、いずこへ向かいつつあるのかを理解し、心の豊かさを味わうことが出来る筈なのです。それが、その迷信の為に殆ど不可能な状態になっているのです。
 その仕事は、当然、皆さんに辛酸を嘗めさせることになります。しかし困難は薬なのです。私達霊団の者も、こうして地上との接触が得られるようになるまでには大変な苦労がありました。
 世界各地でそうした努力が為され、そして成功しております。今では世界中に霊の光が灯されております。霊力が届けられていない国は最早一国もありません。霊力の道具は往々にして隠密裏に仕事をしなければならないことがあります。が、仕事は着実に運ばれてまいります。その真実性に否定の余地がないからです。
 そういう次第で、困難というのは霊の真の資質、神から授かった才能を発揮させる為の挑戦として歓迎なさることです。皆さんの内部には地上最大の力が潜在的に宿っているのです。いかなるハンディキャップも、いかなる障害も、いかなる困難も、その潜在力で克服出来ないものはありません。
 もしもそれまでに開発したものでは敵わない程のものであれば、祈ることによって、更に強力な援助を要請することが出来ます。

 宗教の教義の問題が取り上げられ、それがただの人間的産物であり人間性の霊的向上にとって何の益もないのに、そのツケは結局霊界へ回されてくる事実を指摘して-

 地上の大半の人間が生命とは目に見え手に触れるものにあると考えております。その当然の結果として、人生には深い目的などはないと信じています。
 それに加えて不幸なことに、肝心の霊的・精神的指導者たるべき人達が、これ又、霊的実在について無知なのです。その証を見たことも聞いたこともなく、従って人に説くことも出来ないのです。今日では宗教とは教義のことであると思われており、それが後生大事にされている為に、肝心の霊力の働く余地がないのです。
 教義というのは人間の考えによって作り上げられたものです。霊力は大霊から発せられますから、神性を帯びております。ですから本来は霊力による啓示の方が教義に優先されるべきなのです。
 現代の地上世界には義務教育を行う国が沢山あります。子供達は一つの目的つまり学校を出た後の社会生活に適応出来るような教育を実施する為のカリキュラムの中で学習する為に学校へ通います。それを首尾よく学んだ子は、大人になって必ず直面する問題を、ある程度の理解をもって迎えることが出来ます。きちんと学ばなかった子は卒業後の人生に備えが出来ていません。
 あなたの地上生活は霊の幼稚園のようなものと思えばよろしい。真の自我である霊が私達の世界つまり霊界での生活に備える為に、この地上で学習をするのです。
 しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやってまいります。その為、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも、学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、こちらへ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それより遙かに困難となります。
 死後にも生活があり、そこでは地上生活の言動の一つ一つについて責任を問われるということを知れば、それからの人生観は一変するに違いありません。いえ、一変すべきなのです。
 聖書には〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟(コリント①10・26)という言葉があります。一度手にしたら、霊的知識はいくら人にあげても減ることはありませんが、地上の富は、人にあげればそれだけ減ります。そこに霊的財産と物的財産の違いがあります。
 物的財産はいくら貯めても、それを永久に所持することは出来ません。地上に生きている間だけの管理人であり預り人であるに過ぎません。失うことがあります。盗まれることがあります。価値が下がることがあります。色褪せて来ます。美しさを失います。いずれにしても、いつまでも自分のものではあり得ないのです。
 それに引き換え霊的財産は、一旦手にしたら永遠に失うことはありません。

 〝真理〟は必ずしも全ての人に受け入れられるものでないことを説いて-

 真理は魂の方にそれを受け入れる用意が出来るまでは真理として受け入れられることが出来ません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それが又無限の過程なのです。
 受け入れる用意の出来ていない人に真理を押し付けることは出来ません。そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出て来ます。その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。
 もしも私がある人達にとっての真理を説き、それを聞いてあなたが〝私には信じられません〟と正直に仰っても、私は少しも不愉快には思いません。あなたへの愛の気持ちはそれによっていささかも減りません。なぜなら、あなたはこの地上においてあなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているという理解が私にあるからです。
 その最終的な裁定者として私が敬意を表しているところの理性によってあなたの賛同を得ることが出来なければ、それは私が役に立たなかったことを意味します。

-私もこうした霊的真理を説きたいと思いながら、今、同じ問題に逢着しているように思います。難しさを痛感しております。教会で説くにしてもサークルで説くにしても、これが真理なのだ、これ以外にないのだと信じて話します。その際、これが自分の信じていることであると述べて、後は(押し付けがましいことは)何も言わない方がよろしいのでしょうか。

 そうです。後は各自の判断に任せることです。

-拒絶されても構わずにおくということですね。

 真理というものは拒絶されたからといって少しも損なわれるものではありません。そういう人は受け入れる用意が出来ていないのです。ですから、待ってあげるのです。そして霊性の火花を煽ってみる程度に留めるのです。それ以上のことは出来ないのです。それで何の反応もなければ、その人のことを気の毒に思ってあげないといけません。

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