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自殺してはならない理由


 死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死は有り難い解放者です。死が自由をもたらしてくれるのです。
 地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人達がいます。
 死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさを味わう用意が出来たことを意味します。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。
 皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を賦与されて初めて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば-〝最終的に〟と申し上げるのは、一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻って来るからです-肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。 霊視能力者が見れば、霊体と肉体とを繋いでいるコードが伸びて行きながら、遂にぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることは出来ません。(訳者注-近似死体験というのがあるが、これは医者が〝ご臨終です〟と宣告しても玉の緒(コード)がまだ切断していなかった場合である)

-臓器移植の技術的進歩によって新たな問題が生じております。医師達は死者の心臓とか腎臓を取り出す為に死の瞬間を待ち受けております。問題は〝果して本当に死んだと言えるか-もう臓器を取り出してもよいか〟という点です。

 臓器移植についてはよく存じております。そして又、その動機が立派な場合があることも承知しております。しかし私としては人体のいかなる部分も他人に移植することに反対であると申し上げます。

-死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をする為に死体をかっさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

 それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もし何の知識もなければ、一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とを繋いでいるコードが完全に切れた後も、地上での長い間の関係によって相互依存の習性が残っているからです。
 その意味では一般的に言って埋葬又は火葬までに死後三日は間を置いた方がよいでしょう。それから後のことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさるべきことです。
 ただ一言言わせて頂けば、誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上に永らえさせることは出来ません。

-飛行機事故で即死するケースがありますが、その場合は霊的にどういう影響があるのでしょうか。

 今申し上げたことと全く同じです。霊的事実についての知識がある人は何の影響もありません。知識のない人はそのショックの影響があるでしょう。が、いずれにせよ、時の経過と共に意識と自覚を取り戻します。

-偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。

 偶発事故という用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大変複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。(訳者注-原書をお持ちの方の為に参考までに付言すれば、本章のここの所までは Silver Birch Speaks <シルバーバーチは語る>というカセットテープに収められた特別交霊会での〝死〟に纏わる部分が引用されているが、所々でリーバ女史が修正している。内容上は別に問題はないが、この最後の再生に関する部分はカセットのままの方が分かり易いので、その通りに訳してある。尚他の章にも断片的に同じカセットから引用されているが、カセットをお持ちの方の便宜も考えて、それらを纏めて次の第十一巻で紹介する予定である)

 (質問者が代わる)
-私はテレビで The Making of Mankind <人類発達史>を見ておりますが、見ている内に人類の霊魂の起原のことを考え始めました。その当初において人類の霊魂は何らかの動物の種から発生したのでしょうか。

 いいえ。

-ということは、動物界は我々人類と別個の存在ということでしょうか。

 いいえ。

-では人類の霊魂はどこから発生したのでしょうか。

 どこからも発生しておりません。霊魂には起原はありません。

-これまでずっと私は、人類の霊魂は徐々に進化して来たものと思っておりました。

 そうではありません。進化して来たのは身体の方です。霊は大霊の一部であり、無始無終です。霊は無窮の過去から存在しています。それが人間の身体に宿った時に個別性を具えるのです。霊には始まりも終わりもありません。バイブルにも〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟というイエスの言葉があります。霊は常に存在しているのです。霊は人間的形体に宿って初めて個別性をもつことになるのであり、霊ないしは魂は常に存在していたのです。

 (質問者が代わる)
-霊魂の永遠性についてお伺いしたいことがあります。年輩の霊と若い霊という言い方をする人がいますが、霊が新たに拵えられることがあるのでしょうか。私達はどこから来たのでしょうか。全ての霊が再生されたものなのでしょうか。それとも大霊から新しい霊が生み出されて来るのでしょうか。

 霊は拵えられるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。先程〝私はアブラハムが生まれる前から存在している〟というイエスの言葉を引用しました。霊としてはあなたも無始無終に存在しているのです。霊を新たに拵えなければならなかったことは一度もありません。無が有になる段階というものはこれまで一度もありません。
 生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生まれるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。
 母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体が暫くの間地上で機能するわけです。
 しかし霊は様々な側面をもつことが出来ます。その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることは有り得ます。その意味では〝年輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟というものは拵えられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。
 胎児が無事に宿り地上生活の為の身体が用意されると、霊は個別的存在として地上へ誕生して来ます。霊そのものは別に新しいものではありません。個的形態を具えたというだけです。一個の人物となったというだけです。その男性又は女性が成長してやがて地上を離れると、大きい自我の一側面として新しい要素を加えることになります。

-各自に生まれるべき時があれば、同じく死ぬべき時もあることになりますが、帝王切開で生まれた場合はどうなるのでしょうか。決まっていた誕生の日時を変えることになりませんか。

 それは地上へ生まれ出る日時を変えるだけです。母胎に宿って個としての表現を開始した日時を変えることにはなりません。又地上的生命に自ら終止符を打つ自由も与えられておりますが、その時はその時で自動的に報いがあります。
-出産を医師が人為的に早めたりすることがあります。するとその子は定められた時期より早く産まれることになりますが、これは占星学的に何か影響を及ぼしませんか。

 出生の日時がよくよく気になるとみえますね!地上への誕生に関して唯一大切なことは、いつから自我を表現し始めるかということです。それは受胎した瞬間からであって、生まれ出た時からではありません。占星学については私は何の関心もありません。受胎と共に地上的生命が始まります。受胎なしには地上的生命はありません。

-ブラジルに来られたローマ法王が民衆の貧しさを嘆かれ、一方、家族計画(産児制限)は許されるべきでないことを強調されましたが、その矛盾をどう理解すればよいのでしょうか。

 法王はとても立派な方ですが、宇宙の全知識を貯えられているわけではありません。家族計画は人類自身で解決すべきことですから、これからも続く問題です。ただ、一個の霊が人間界へ誕生して来ることになっている時は、いかなる計画を立てても必ず生まれて来ます。

 (質問者が代わる)
-死後の生命なんか欲しくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人達にどう説かれますか。

 地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともし難いことなのです。自然の摂理との縁を切ることは出来ません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開け行く大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、或いは反抗にもお構いなく展開して行く姿をご覧になれます。

-と言うことは、私達は地上へ来たくなくても無理矢理来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。

 必ずしも強制されるわけではありません。地上からこちらへ来るのにも自由選択が許されるように、こちらから地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。是非とも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。或いは償わねばならない業(カルマ)があって誕生して来る場合もあります。

-自殺をすることまで計画されていることがあるというのは本当でしょうか。

 とんでもありません!計画というのは母胎に宿る以前に霊自身によって立てられるのです。

-自殺行為によって学べる教訓は何一つ無いということでしょうか。

 あるわけがありません!生命は宇宙の大霊が授けるのです。それを縮める権利は人間にはありません。

-死んで霊界入りした人間は自分が死んだことが自覚出来るのでしょうか。

 みんながみんな自覚出来るとは限りません。大半の者が自覚出来ます。が、完全な自覚(悟り)に到達するには相当な時間が掛かります。

-霊界の人達は何もしてくれないのでしょうか。

 いえ、色々と指導しております。本人は気付かなくても陰から手助けしております。
 霊界は全てが知れるように組織されております。上層界には高級霊による政庁が組織されており、その中には一度も物質界に誕生したことのない霊(天使)がいます。その霊達が神の計画推進の任に当たっているのです。大規模な総合計画があって、有意識・無意識の区別なく、あらゆる存在を包摂しております。その宇宙的規模の摂理から外れて存在出来るものは何一つありません。

-人間が死ぬと肉親や愛する人達が出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の者ばかりでしょうか。

 そうではありません。なぜなら、その霊達は死後も霊的に進化しているからです。他界して来た者のレベルに合わせて交信する為に、言わば階段を下りて来るのです。霊的成長とは成熟して行くことであることを理解しないといけません。
 地上の年齢とは一致しません。では、さっき述べた完全な悟りに到達出来るのはどの段階においてかということですが、これはお答えしにくい問題です。と申しますのは、悟りというのは固定した限りあるものではなく、いつまでも成長し続ける状態だからです。悟りには無限の奥行きがあります。これでお終いという終点がないのです。深まれば深まる程、更にその奥に悟るべきものがあることを自覚するものです。
 それは事実上永遠に続く過程です。段階的に少しずつ理解が深まって行く過程です。無知の状態からいきなり悟りが開かれるという、そういう突然の変化ではありません。段階があり、魂がより高い段階への準備が整うにつれて、少しずつ開けて行くのです。

-たとえ生活水準が今より向上したところで不老不死ということは有り得ないのは言うまでもないのですが、もしも完全な生活条件が整ったら百五十歳までは生きられるのではないかと思うのですが・・・

 肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。
 肉体が地上で永らえる年数を長引かせることは神の計画の中にはありません。林檎が熟すると木から落ちるように、霊に備えが出来ると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。
 地上生活の一番肝心な目的は、霊が地上を去った後の霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それは丁度学校へ通いながら何の教育も身に付けずに卒業して、その後の大人の生活に対応出来ないのと同じです。

(永年スピリチュアリズムの仕事に努力した夫に先立たれた女性にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた)

 本日あなたをここへお迎えして、苦労と試練の時の力となった基本的な霊的真理の真実性を改めて確認してさしあげることを、とても嬉しく思います。
 地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれた時に平然としていることは、容易なことではありません。死という身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう。しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを認識すべきです。
 地上に生を享けた人間にとって死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時がまいります。それは、最早地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、完全へ向けての進化の不可欠の要素として、次の冒険へ旅立つ用意が出来たということです。
 その死別という試練に直面した時に自分をどう慰めるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。
 しかし死は愛によって結ばれた者を引き裂くことは出来ません。愛は、生命と同じく不滅です。又愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心密かに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力は決して見捨てません。必ずや援助の手が差し伸べられます。
 悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。あなたはご自分ではそうは思えないかも知れませんが、ある意味でとても幸せな方です。と申しますのは、悲哀のドン底を味わうことによって霊的真理を受け入れる資格を身に付けられたからです。そのドン底から這い上がるのは容易ではありませんでしたが、道は間違いなく啓示されました。今あなたは愛する方が身近な存在として実在していることを確信なさっておられます。
 私はいつも思うのですが、地上の人々、中でも特に霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感をもって認識してくだされば、どんなに有り難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿を一目ご覧になることが出来れば、と思うのです。
 その影響力の大きさを知ることが出来たら、明日のことを思い患うようなことは絶対にしなくなることでしょう。それで私はここに集まる同志の方にいつも申し上げているのですが、新しい一日の訪れを素晴らしい霊的冒険の到来として喜んで迎えることです。
 あなたの人生は、手にされた証拠によって一変しました。そこであなたは今、ご自身が有り難く思われた同じ思いを人にも体験させてあげようと、色々努力をなさっておいでです。私は実際にそのご様子を拝見して、よく存じております。
 他人がどう言おうと気になさらぬことです。全く下らぬことばかり言っております。大切なのはあなたの人生をどう生きられるかです。出来る限りの最善を尽くして人の為に力になってあげることです。
 ご主人は肉体の束縛から解放されました。晩年に嫌な思いをされたあの痛みと不自由はもう二度と味わうことはありません。これからは今尚〝我が家〟とされているあなたの住居での生活の中で、ご自分の死後の存続の事実をあなたに実感させてくれることでしょう。ですから、気を強くお持ちになり堂々と胸を張って、愛する者を失っても霊的知識があればこれだけ立派に生きて行けるのだという、一つの手本を示して頂きたいのです。
 別離といっても身体上のことであり、霊的には別れてはいないのです。愛によって結ばれた者同士を引き裂く力は地上にも霊界にも何一つありません。愛は、生命と同じく、死よりも強いのです。愛は、生命と同じく霊に属するものであり、霊はけっして滅びないのです。