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自殺してはならない理由


 地上の歴史の中で最大の論争の的とされている人物すなわちナザレのイエスが、その日の交霊会でも質問の的にされた。
 まず最初に一牧師からの投書が読み上げられた。それにはこうあった。〝シルバーバーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置付けているのでしょうか。又<人間イエス>と<イエス・キリスト>とはどこがどう違うのでしょうか〟
 これに対してシルバーバーチはこう答えた。
 「ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。
 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他の全ての人間と変わらぬ一人の人間であり、大自然の法則に従ってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代程霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、或いは神話や伝説の瓦礫の下敷きとなっていた基本的な真理の幾つかを掘り起こすことでした。
 その為に彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだ後、持ち前の霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのと全く同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。
 又その心霊能力は法則通りに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則に則って演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きて来た全世紀を通じて数々の霊覚者が説いて来たのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。
 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここで是非ともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。随分多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることには眉唾物が多いということです。出来過ぎた話は全部割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。
 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今尚地上に働きかけているのです。死後一層開発された霊力を駆使して、愛する人類の為に働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。
 いくら立派な位であっても、本来全く関係のない位にイエスを祭り上げることは、イエスに忠義を尽くす所以ではありません。父なる神の右に座しているとか、〝イエス〟と〝大霊〟とは同一義であって置き換えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。
 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前に膝を折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、更にそれ以上のことをするように努力することです。
 以上、大変大きな問題についてほんの概略を申し上げました」

 メンバーの一人が尋ねる。
-〝キリストの霊〟とは何でしょうか。

 「これもただの用語に過ぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示す為に聖油を注がれた時代がありました。それは大抵王家の生まれの者でした。キリストという言葉は〝聖油を注がれた〟という意味です。それだけのことです」(ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエスだという信仰が生まれ、それでイエスキリストと呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していった-訳者)

-イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったと仰るのが私にはどうしても理解出来ません。

 「私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全であったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」

-イエスの教えは最高であると思われますか。

 「不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれ程心霊的法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです」

-イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた-だから理解出来なかった、という観方は正しいでしょうか。

 「そうです。仰る通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(注)、時代に先行し過ぎた人間でした。時代というものに彼等を受け入れる用意が出来ていなかったのです。それで結局は彼等にとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼等にとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」(ジョージ・ランズベリーは1931~35年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋過ぎた為に挫折した。第二次世界大戦勃発直前の1937年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭の下を訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。ディック・シェパードについてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名事典にも見当たらない-訳者)

-イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されて来た霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。

 「いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮出来たのは霊格の高さのせいよりも、寧ろ心霊的法則を理解し自在に使いこなすことが出来たからです。皆さんに是非とも理解して頂きたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、或いはイエスの名の下に行われて来た間違いが多かったにも係わらず、あれ程の短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです」(訳者注-霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のインペレーターによると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、所謂高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからそのことに気付いていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)

-(かつてのメソジスト派の牧師)いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方も出来ます。

 「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置付け、故に愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈信仰によって却ってイエスを何度も磔刑にするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。
 イエスの生涯を見て私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的の為にそれを使用することが無かった-自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全に則った生涯を送りました。
 どうも上手く説明出来ないのですが、イエスも生を享けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事が出来る時代が来ると述べた意味がなくなります。
 イエスという人物を指差して〝ご覧なさい。霊力が豊かに発現した時はあれ程のことが出来るのですよ〟と言える、そういう人間だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことの出来る手本なのです。しかもそのイエスは私達の世界においても、私の知る限りでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。
 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも〝イエス崇拝〟を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それは私が〝指導霊崇拝〟に警告を発しているのと同じ理由からです。あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、或いは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。
 たとえその後一段と明るい知識に照らし出された時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。
 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界の為に仕事をしている他の大勢の霊の一人に過ぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私も至って人間的な存在です。私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りして来て、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私と一緒に眺めませんかとお誘いしているわけです」

 霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〝最後の晩餐〟の儀式を行なうべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチがこう答えた。

 「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって身体的に、精神的に、或いは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。我々は最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。そんなことをしたからといってイエスは少しも有り難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から開放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。
 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人の為に自分が出来るだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒し、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人全てに手を差し延べてあげることです。
 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人の為に役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。〝聖なる書〟と呼ばれている書物から活字の全てを抹消しても構いません。賛美歌の本から〝聖なる歌〟を全部削除しても構いません。儀式という儀式を全部欠席なさっても構いません。それでも尚あなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に〝宗教的〟で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。
 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。〝最後の晩餐〟の儀式がイエスの時代よりも更に遡る太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとは全く無関係です」

 別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて-
 「他人の為になることをする-これが一番大切です。私の意見は単純明快です。宗教には〝古い〟ということだけで引き継がれて来たものが多過ぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。
 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。
 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具は片付けるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係-これが最高の交霊現象です。儀式に拘った方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません」

-支配霊や指導霊の中にはなぜ地上でクリスチャンだった人が少ないのでしょうか。

 「少ないわけではありません。知名度が低かった-ただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者(マウスピース)に過ぎないことをご存知ないようです。つまり彼等の背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが・・・」

-キリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培って来ていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。

 「私は何々の教えという名称には関心がありません。私が関心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであると仰っても、私には聞こえません。一方にはその間違った教えによって傷付いた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。
 僅かばかり立派そうに見えるところだけを抜き出して〝ご覧なさい。まんざらでもないじゃありませんか〟と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、及び、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたのような賢明な方達がその知識をもとにして生き方を工夫して頂きたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築く所以となりましょう。
 私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することはいたしません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくり来ず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。但しその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません」

 所謂〝聖痕(スチグマ)〟について問われて-

 「人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによって物質が自我の表現器官として形成されたのです。精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストの磔刑の物語に精神を集中し、それを長期間に亘って強力に維持したら、あなたの身体に十字架のスチグマが現れることも十分可能です」

 〝大霊の愛〟と〝己を愛する如くに隣人を愛する〟という言葉の解釈について問われて-

 「私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、自らの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者として相応しい人物であることを証明すべく努力する、ということです」