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カテゴリ:★『シルバーバーチの霊訓』 > シルバーバーチ 質問に答える9

シルバーバーチ 質問に答える9 目次

質問に答える9(1)

質問に答える9(2)

質問に答える9(3)

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自殺してはならない理由


 「私は、自分で正しいと信じて行動する限りそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置(モニター)が組み込まれております。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」

 本章では今日の倫理、道徳並びに社会問題を扱うが、右の引用文がその冒頭を飾るのに最も適切であろう。過去十年あまりの内の社会的通念が大きく変革しており、それに対して例によって賛否両論がある。まずそのことに関連して質問が出された。

 人種問題

-現代社会の風潮について心配し、或いは困惑している人が大勢いるのですが、スピリチュアリストとしてはこうした時代の潮流にどう対処すべきでしょうか。

 「真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならない限り、トラブルは絶えないでしょう。唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。憎しみと暴力と敵意を剥き出しにして強欲と怠慢を貪っている者が群がっている世界に、どうして協調性が有り得ましょう。
 愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。その為にこそ神は各自にその神性の一部を植え付けられ、人類の一人ひとりが構成員となって出来上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。
 しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、共に進み、共に後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。
 それはあなた方スピリチュアリストの責任です。常々言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。一旦霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。
 あなた方の霊に危害が及ぶことは決してありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難が振りかかっても、いささかも傷付くことなく切り抜けることが出来ます。地上で生じるいかなる出来事も、あなた方を霊的に傷付けたり打ちのめしたりすることは出来ません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整った時の霊の威力を証明するものがいくらでもある筈です。
 残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気付いている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子は全て身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。
 霊的真理が世界各地に広がり浸透して行くにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せ始めます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることは出来ます。が、それによって神が意志を変更なさることはありません。
 もしもそれ位のことで神の意志が覆されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです-心を強く持ち、背筋を真直ぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっと上手く行きます」

-我々真理を語る者は、人種差別や動物への虐待行為といった間違ったことに、もっと攻撃の矛先を向けるべきでしょうか。

 「そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点から見て間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方は特に恵まれた立場にあります。人間は霊ですから、その霊の宿として相応しい身体を持たねばなりません。となると、その為の教育が必要となります。霊的観点から見て適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。
 動物を虐待することは霊的観点から見て間違ったことなのです。民族差別や有色人種蔑視は霊的視点から見て間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、最も大切な貢献をすることになります」

-私が言いたかったのは、マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が有色人種への嫌悪感を煽って、洗脳しようとする危険から身を守らねばならないということです。

 「ですから、霊的真理に目覚めれば霊的同胞を毛嫌いすることは出来なくなると申し上げているのです」

-より多くを知っている我々がしっかりしなくてはならないと思います。

 「そうです。知識(の価値)が大きければ大きい程大きな責任を伴います」

 愛と寛容

-それと、真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。

 「寛容性は霊性の真髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません」

-寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見極める必要があると思います。残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならない筈です。

 「それに、悪とは何かということも見極める必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象の後に待ち構えている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発する程洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。
 人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、全くの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目を瞑ることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差し延べる用意が出来ていなければなりません」

-愛と寛容は優しさから生まれます。情愛で繋がった者に対しては、我々はその欠点に対して寛大になります。私はこの寛大さ、これは愛といってもよいと思うのですが、これが現代の世の中に欠けていると思うのです。愛と寛容とを結び付けることが出来れば人類は更に高揚されると思うのですが・・・・

 「同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。従って神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。私の言う〝愛〟とは慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者の為に自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心を言います。自分のことを顧みず、助けを必要とする人の為に出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛なのです」

 真の道徳の基準

-現代社会程不道徳が露わな時代はないと主張する人がいます。霊界でもそう見ておられるのでしょうか。そう主張する人達は、五十年或いは百年前の時代を例にとって、当時は子供が煙突掃除のような仕事に一生懸命従事していたものだと言います。

 「不道徳とは一体何なのでしょう。あなた方が道徳的だと考えていらっしゃることが私達から見ると大変非道徳的である場合もあります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようとすることであり、人の心を思いやることです。
 もとよりそれは人の心を傷付けたり感情を害することではありません。いかなる形においても人の進歩を阻害することであってはならないことになります。後になって恥ずかしく思ったり、自分が手にした真理に忠実でなかったと思うようなことをしてはいけないということになります。
 私が理解している道徳とはそういうものです。説くとすればそう説きます。今の社会がこれまでに較べて道徳的か非道徳的かの問題は、道徳というものについての解釈次第て違って来ます。本質において、ある面では経済的並びに霊的に向上していながら、別の面では遅れていることもあります。進化というのは一直線に進むものではないからです」

-今の世の中は物質中心だと言われています。でも家族を養って行く為にはある程度は物質中心にならざるを得ません。あまりにスピリチュアリズム的になり過ぎると経済的に苦しくなることが懸念されるのですが、その境目をどこに設けたらよいのでしょうか。

 「まず神の御国と神の義を求めよ。しからば全てそれらのもの汝等に加えらるべし」(マタイ・6・33)

-両方共可能だということですね?

 「当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面を疎かにすることはない筈です。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことは一度もありません。霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊を疎かにしてもいけませんし、精神を疎かにしてもいけませんし、身体を疎かにしてもいけません。責任を持つべきことを回避してはいけません」

 人工中絶と避妊

 その日のゲストの一人が産児制限の問題を持ち出した。

-人間の誕生は自然法則によって支配されていると仰っておられますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか。

 「いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何事も動機が正当であれば、正しい決着を見ます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ち構えている事実を忘れないでください」

 続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。
-それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。

 「中絶行為をしたその瞬間からです」

-妊娠して直ぐでもいけないのでしょうか。

 「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることは出来ても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児の折角の自然な生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違って来ます。常に動機というものが考慮されるのです。
 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことですが・・・・
 あなた方が生命を拵えているのではないのです。従ってその生命が物質界に顕現する為の媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。もしも中絶を行っている人達が、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないこと、いつの日かその人達は(医師も含まれる-訳者)その中絶行為の為に地上に誕生出来なかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなるものと私は考えております。妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それはけっして死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」

-今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。

 「それが現実なのです」

-堕胎された霊はいつかは又誕生して来るのでしょうか。

 「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、その折角の機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生して来ます」

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自殺してはならない理由


 植物人間と安楽死

 もう一人のゲストが脳障害の為に植物同然となり病院でただ機械に繋がれて生き永らえている人達の問題を持ち出して、こう尋ねた。
-そうやって生き永らえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人達の霊はどうなっているのでしょうか。肉体に繋がれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。

 「地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は成就され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。度々申し上げておりますように、林檎は熟すと自然に木から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。
 あなたの仰る脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機に関わることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。今でも、地上のいかなる人間といえども、霊は時が熟してから身体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることは出来ません。
 脳に障害を受けた患者は、例えば動力源が故障した為に受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能のほんの一部が働いているだけです。脳が障害を受けた為に〝霊の脳〟ともいうべき精神が本来の表現が出来なくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこも異状はありません。それと同じです。
 要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られた筈の成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。言ってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。
 霊が身体を生かしめている限り、両者の繋がりは維持されます。霊と身体とを繋いでいる〝玉の緒(コード)〟-胎児と母胎とを繋いでいる〝へその緒〟と同じです-が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生して来た霊にとっては物的生活の始まりです」

-今にも死ぬかに思える人が機械によって生き永らえている例をよく耳にします。

 「霊が身体から離れるべき時期が来れば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上繋ぎ止めることは出来ません。一旦コードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度繋ぎ止める力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」

 ここから所謂安楽死の問題が持ち出された。ゲストの一人が尋ねる。

-交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運び込まれた後一命を取り留めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つ出来なくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けねばならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。

 「バイブルのどこかにこんな言葉があります。〝神が与え、神が奪われる。有り難きかな神の御名〟(ヨブ記1・21。バイブルでは〝奪われた〟とあるが引用文は現在形となっている-訳者)
 私がこの文句を引用したのは真実その通りだからです。人間は生命を創造することは出来ませんし滅ぼすことも出来ません。生命が機能する為の機関を提供することは出来ます。その機関を破壊することも出来ます。しかし生命は神からの贈物であり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。
 なぜ?というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫を誘われるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しない筈です。
 一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷が酷くて霊が自我を表現出来なくなった。この問題をあなたは身体上の問題と見ますか、それとも霊的な問題と見ますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。確かに見たところ身体的には全く動きが止まっています。しかし霊的な目をもって見ることが出来るようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解出来るようにならない限り、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。
 私は所謂植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。但し、そこにやむを得ない動機が有り得ることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」

サークルのメンバーの一人が尋ねる。
-一人の人間が苦しんでいる時、それ以上苦しまないようにしてあげる義務が私達にあるのではないでしょうか。

 「病気とか異状或いは虚弱といった身体上のことを仰っているのであれば、現代医学で治すことも改善することも出来ないものがあることは認めます。しかし、素晴らしい効果のある、そして現に成果を挙げている治療方法が他にも色々あります。医学的診断のみを判定基準としてはいけません。そのことをしっかりと認識しなくてはいけません。医師が〝不治〟と診断したものが心霊治療によって完治、又は改善されたケースが沢山あることを皆さんはよくご存知なのですから。
 苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、一層強力になってまいります。そうなるべきものなのです。多くの人にとって苦しみは、全人生を全く別の視点から見詰めさせる大きな触媒となっています。
 いかなる症状の患者であっても、簡単に〝不治〟と片付けてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも〝生命ある限りは希望がある〟というのがありますが、これは真実です。霊が宿っている限り元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることが出来ます。摂理が自然に働くようにしさえすれば、身体は死すべき時機が来れば自然に死にます。霊に身体から離れる準備が出来たからです」

-私が知っているある癌患者はそろそろ痛みを覚え始めており、症状は良くないようです。

 「でも傷みを和らげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それは何とかなります。そして、たとえ症状が耐え切れない段階に達しても、私達から見る限り、それをもって最終的な宣告を下してはならないと私は主張いたします。精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私がもし申し上げたら、それはこれまで私が説いて来た全ての教説を裏切ることになりましょう」

 ここで別のメンバーが「私達の経験でも手術不能の癌患者が心霊治療によって痛みが取れた例が沢山あります」と指摘する。
 すると先のメンバーが「それは私も認めます。しかし痛みが取れない例も沢山あります」と反論する。
 「結局我々は霊力についてもっと幅広い知識を求め、より多くを活用し、いざという時の為に霊力を貯えておくべきだということではないでしょうか」
 「でも、それでは今私が言っている患者を救うことは出来ません」

 ここでシルバーバーチが答える。
 「皆さんはいつでも治療を施してあげることが出来ます。祈ることによっても助けになってあげることが出来ます。祈りの念にも効果を生むだけの力が秘められているからです。とにかく、いくら医師が理知的であっても、その視野は地縛的ですから、そんな人による悲劇的な宣告をまともに受け止めてはなりません」

 先のメンバーの一人が「苦難が人間性を磨くことを度々仰ってますが、そうでないケースもしばしば見受けます」と異議を挟むと-
 「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいる限り耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。度々申し上げておりますように、晴天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるという風に、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それは最早幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験して初めて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達する為の手段となっているケースが沢山あります」

-残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。

 「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはない筈です。これも人生の一コマだ、全てではなくホンの一部に過ぎないのだという認識が出来るからです」

-結局のところ私が思うに、苦難はその意義が理解出来る段階まで到達した人だけが受ければよいということになります。

 「そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤まることはないことを知ったということ、それだけです」

 別のメンバーが論議に加わる。
-死にたくない患者も大勢いる筈です。たとえ医師が安楽死させる権利を与えられても、その人達はまず死にたがらないだろうと思われます。

 「安楽死の決定権は元々医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の観方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体の他に精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものをも具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生で最も大切なことについて全く無知な人達に、そのような生死に関わる決定権がどうして預けられましょうか」

-万一事故で身体が不自由になった場合は死を選びます、という宣誓書にサインをする人がいます。

 「それはその人の自由意志によって行う選択です」

-その要請に基づいて医師が実行した場合はどうなりますか。

 「問題はありません」

-患者が自由意志によって死を選んだ場合でもやはり因果律が働くのでしょうか。

 「いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこの度の地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断(ショート)させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。
 何度も申し上げておりますように、死は霊に準備が出来た時に訪れるべきものです。それは林檎が熟すると実が落ちるのと同じです。まだ熟し切らない内にもぎ取れば、その林檎は食べられません。霊も十分な準備が出来ない内に身体から無理矢理離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。
 人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的は元々霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それも全て自然の摂理の一環なのです。あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。
 神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠の営みを、この地上生活という一欠片でもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、及びその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないのです。
 苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によって初めて真の姿を現すのです。
 地上生活の出来事には必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持は私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、一体誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤まることは十分に有り得ることです。数々の誤診を犯している現実をご覧になれば分かります。
 私達はあなた方と正反対の観方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という観方をします。混乱状態を進歩と見做し、人間が進歩と思っていることを禍の種と見做すことがあります。永遠を物的な物差しで計っても満足のいく解答は得られません。
 例えば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それも全て霊の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生して来る前に、自ら覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。
 こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気付くのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差し引き勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成する時が来てみると帳尻がきっちりと合っています。
 どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するように努めてください。
 永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。多分ご存知だと思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものなのです。
 魂に及ぶものが一番大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者は常に反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼします。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使です。
 身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることは出来るかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることは出来ません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです」

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 自殺の問題

 人為的な死のもう一つのタイプに自殺があるが、レギュラーメンバーによる次の質問をきっかけに、それが続いての話題となった。

-外的な手段によって生命を断つことを非難されるのは当然ですし、私もその通りだと思うのですが、外的な手段を用いずに、心で死のうと決意して死期を待つことも可能です。それも一種の自殺でしょうか。

 「各人各個の責任は変えようにも変えられません。因果律は絶対です。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じます」

-死後の生命を信じるが故に死を歓迎することもあるかも知れません。肉体が手の施しようのない状態となり、そうなった以上最早医学的手段でいたずらに生命を維持するのを潔しとせず、死を覚悟するのです。

 「ならばその時の動機付けが大切なポイントになります。同じ行為でも動機付けによって正当性が違ってきます」

-自殺者のそちらでの状態は不幸で、右も左も分からなくなり、惨めであるということですが、自殺する時の精神状態が既にそうであった筈ですから、死後も同じ状態に置かれても不思議はないと思うのです。では仮に真の喜びと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか。

 「その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理を誤魔化すことは出来ません。こればかりは例外がありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。動機が全てを決定付けます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしそこで言い訳をして自分で自分を誤魔化すようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります」

 ここでゲストの一人が思いがけない角度からの質問をした。

-食べ過ぎ飲み過ぎは自殺行為だと医者がよく言いますが、これも一種の自殺と見做されるのでしょうか、それとも死というのは予め定められているのでしょうか。

 「答えはご質問の中に暗示されております。もしも予め定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向付けられていたことになります。ですから、それが宿命であれば、そうなる他はなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることも有り得ます」

-私は死が誕生時から知られているのかどうか、又、その後の行いによって変えることが出来るのかどうか、その辺が確信出来ません。

 「知られているというのは、誰にですか」

-おそらく生まれて来る本人、或いはそちらに残していく仲間の霊かと思います。

 「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもって来ても、その下にあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることは出来ません。魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。
 人間には相対的条件下での自由意志が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることが出来ますが、その基本のパターンそのものを変えることは出来ません。定められたコースを自分で切り抜けて行かねばなりません。ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵に与る機会が与えられております。自ら求めるのでない限り、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません」

 死刑の是非

 最後に、いつの時代にも社会・道徳・霊的の視点から問題となっている死刑制度がある。それについてシルバーバーチは次のような見解を述べている。

 「霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。いかなる理由にせよ、霊的に何の用意も出来ていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一欠片も進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、〝目には目を、歯には歯を〟の激情に巻き込みます。
 我々は生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基盤とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備も出来ていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルの種を増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。
 生命は神聖なるものです。その生殺与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるのではありません。物質が生命によって拵えられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。生命は神性を帯びているのです。ですから、生命及び各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません」

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