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恥の多い人生を送ってきました 管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました 管理人の人生 目次

人生、上手く進まないものだ・・・管理人の人生記

恥の多い人生を送ってきました(1)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(2)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(3)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(4)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(5)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(6)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(7)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(8)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(9)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(10)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(11)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(12)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(13)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(14)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(15)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(16)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(17)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(18)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(19)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(20)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(21)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(22)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(23)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(24)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(25)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(26)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(27)・・・・管理人の人生

恥の多い人生を送ってきました(28)・・・・管理人の人生

 今日、ゲーセンに行ってきた。といっても、ゲームセンターに行くことが目的ではなかったのだ。床屋と無印良品のタオルを買おうと、隣町に出かけたら、その近くにゲームセンターがあったので、ついつい寄ってしまったんだ。
 二箇所のゲーセンに行きました。最初は、床屋の近くにあったゲーセン。そこにはエヴァンゲリオンのパチンコ台があって、以前、まだゲームセンターのパチンコをやり始めて三回目くらいに、その台で試しに100円入れてやったら、大爆発して、詳しくは知らないんだが、とにかく何度も大当たりした。その快感があったので、その後、そのゲームセンターの近くに来た時には、ほぼ必ず数百円はその台で遊んでいた。しかし、それ以来、パッタリと音沙汰なしなのだ。もう総額3000円位投入しているのに、なぜか一回も当らない。大当たりした時は、たった百円で何度も何度も大当たり、そして『確変』っていうのかな?そんな大当たりが、三度くらい連続で来たんだ。たったの百円だけで、一時間位、回っていたんだ。その台からはコインがジャラジャラ出てきていた。あとでコインの両替機を見たら、千数百円分のコインだった。
 しかし、今日もエヴァンゲリオンの台に総額700円位投入したのに、ただの一度も来なかった・・・・。
 また、次に無印良品に行った時に、その近くのゲーセンにも行ったんだ。そこでは、クレーンゲームをしました。ヌイグルミやお菓子のクレーンが10台位ありましたが、俺はヌイグルミは要らないので、お菓子のクレーンをしました。一つ200円相当のチョコレートが四枚、横に細長いビニールに入れられて固定された大物でした。別に特別欲しかったわけではなかったけど、せっかく来たんで、チャレンジしてみました。100円で取れれば、800円相当の品をゲット出来るので、700円得するよね。
 でも、結果は、1800円位投じて、ようやくゲットしました。超赤字です。俺は素人だから分からなかったが、それは上手い具合に、なかなか落ちないような土台の位置に置かれていて、ヘタクソな素人である俺は、何度も何度もチャレンジして、ようやくゲットしました。

 それから、何を思ったか、次にどでかい缶の箱のハッピーターンをゲットしようと思ってしまいました。それは、横25cm×縦25cm×高さ17cm位の四角い缶でした。結果は、2800円位投入して、ついに取れませんでした。ネットで調べると、それをたったの100円でゲットしたツワモノもいるようですが、俺は何度やっても、UFOキャッチャーの爪は虚しく缶の蓋の窪みをスルリと力なく撫でるだけでした。今思えば、その蓋の縁には、全ての缶と蓋の接合部にビニールテープが張ってあり、引っ掛けられずにツルリと滑るようになっていました。それを俺は途中で発見していたのですが、数回に一回の割合で、それでも数センチ持ち上がる時があったので、ついついアホな期待を抱いて、続けてしまったのでした。しかし、結果は、『ちょっとズレては、次にまた元の位置に戻る』の繰り返しでした。まったく、とんでもない大損をしてしまいました。

 つまり、パチンコとUFOキャッチャーのお金を合計すると、たったチョコレート四箱800円の利益のために、5500円位つかってしまいました・・・。

 まぁ、これも人生・・・。つまり、俺の人生のことです。皆さんも自殺したくなるほど人生が上手くいっていないのでしょうが、俺の人生も、全然順風満帆ではありません。それを、これからご紹介します。なんでわざわざ俺の人生記を紹介するのかって?人は、自分よりも下の人間を見ると、少しは慰められるものだから、皆さんに俺の人生を読んでもらって、下には下がいると思って安心してもらい、死にたい気持を消し去って欲しいからです。なんせ、俺よりもはるかに高いスペックの人物が人生に絶望して自殺しちゃっているんだから。自殺することなんてないのに。ただ、俺もその気持は分かる。何故なら、俺も頻繁に消えてしまいたい気持になるからね。とにかく、やり直せるのなら、もう一度小学生からやり直したい気持だよ。まぁ、それは絶対に無理だけどね。時を逆行することは不可能だから。だから、将来に不安を抱きながらも、今もなんとか生きてます。
 せめて、私の下らない人生を読んで、あなたの死にたい気持が少しでも和らげば、嬉しいです。

あ〜あ、書きたくねぇ・・・。クダラねぇ・・・。死にてぇ・・・。けど、霊的知識を得て自殺は駄目だと知ったので、なんとか生きてます。

 つーか、本当にもう、書いてて恥ずかしくなるので、ちゃんとした文体では書かないから。殴り書きだから。悪しからず。ご了承くだせえ。






 管理人の人生



 『人間失格』風に言うと、恥の多い人生を送ってきました。

 私は、まず長野県の母の実家の近くの病院で生まれて、一ヶ月くらい過ごした後、父の実家がある神奈川県の某街に来ました。

 幼い頃のことはよく覚えていません。なにせ、今日の朝食も思い出すのに19秒くらいかかるほどボケてる記憶力なもので。保育園には行っていました。祖父母と両親と俺と、あと妹二人で暮らしていました。

 そんで、地元の小学校に入学しました。ゲーセンに行ってロボコップのゲームしたり、ビックリマンのシール集めたり、ガンダムのゴム製のガチャポン集めたり、ドラゴンボールのカードダスを集めたりしていました。一応、その頃は友達がいましたので、一緒に化石収集に行ったり、近くの沼がある自然の広場に行ってザリガニを釣ったりしていました。あと、ファミコンで忍者龍剣伝とかやっていました。ただ、いじめっ子から学校の横の坂を逃げていた記憶も断片的にあります。まあ、なんだかんだ言って、その頃は、別に大きな波風もなく、時間が過ぎていっていました。 
  それで、小学四年生の時に、両親が、実家から少し離れた街に一戸建てを買ったので、祖父母と別れて、そこに引っ越しました。それで、俺も引っ越し先の地元の小学校に転校しました。

 なんか、まぁ、思えば、やっぱりここらへんから崩壊の兆しがあったのだろうか。んで、転校して、なんとか馴染もうとしたのかな。でも、積極的な性格ではないので、ウジウジしていました。ただ、集中して虐められるということはなかったけど。なんとか、馴染もうと、ヘラヘラしながら馴染もうとしていました。それで、偉ぶった同級生のランドセルを持ったりしていた記憶がある。それで、好きでもない同級生から告白されて、なんか周りがヒューヒューと煽てたような記憶がある。俺は全然どうでもよかったのに。まぁ、そいつとは付き合ってもいないし、何もなかったけど。上手く逃げていたな。

 なんとか、かんとか・・・とにかく、小学校は卒業しました。 そんで、次に、地元の公立の中学に入学しました。ここから、本格的に人生の歯車が狂い出します。
 小学校の時は野球をやっていたんだ。でも、ピッチャーやっても四球と死球ばっかりで解任されて、今度はファーストやっても、捕球できずに後ろに逸らしてばかりで、てんで駄目だった。だから、野球には見切りをつけて、大勢入部していたサッカー部に入部しました。
 でも、休日も練習して一生懸命に頑張ったのに、なかなか上手くなりませんでした。特に、他人と激しく当たって、競り合うのは苦手でした。んで、俺よりも頑張っていない、片手間で練習しているような奴がレギュラーとったりして、やはり才能の違いを見せつけられました。 
 それで、3年の時に2軍の試合に出るくらいでした。ま、それは全員上級生は出られるんだけどね。俺は運動神経はなかった。

 学校生活は、なんかなぁ。別に面白くないよ。俺は、集中して虐められるタイプではなかったが、しかしからかわれたり、なんか微妙なポジションでした。ま、面白いこともちょくちょく言ったりして、なんとか周囲に溶け込もうとしていました。 
 中学1年の時に、クラスメートから電話で告白されたことがありました。その時は、他に好きな子がいるからと、断ったのです。それならそれで、その好きな子にアプローチしたかというと、結局何もせずに終わりました。だったら、経験の為にも、その告白してきてくれた子と付き合っていれば、今頃、もっと積極的な人生になっていたかもしれません。とにかく、俺の敗因は、とにかく悲観的で消極的ということでしょうか。
 んで、中学2年の時に、既に体毛が濃かった。そのことをとても気にしていたのですが、その体毛が濃いことを同級生の奴にものすごい悪意をもって指摘されたのが、とてもショックでした。だから、その日のうちに、全身の体毛を剃ってしまいました。だけど、すぐに剛毛が生えてきて、次は毛抜きで抜いたりして、もう、そこから地獄でした。体育の時間なんて、脚とか腕を露出したくなかったし、まして水泳の時間は、生き地獄でした。近くの街の小さなプールで授業したのですが、俺の脚の毛が変なので、周囲の視線が死ぬ程恥ずかしく、死にたい気持ちでした。

 はー、マジ、体毛が薄かったら、人生全然違ってたわ、本当に。まさかこれほど、体毛ごときが人生の歯車を大きく狂わすとは・・・。

 剃ったら剃ったで、また黒々とした断面で力強く伸びてくるし、抜いたら抜いたで、埋没毛となって皮膚の下に何百本も潜って生えるし。それを気にし出してね。マジで剛毛の人が毛を抜いたら、その後から黒い斑点みたいな埋没毛がポツポツと大量に生えてきて、気持ち悪くなるよ。まして学生なので、絶対に体育の時間とか、運動会とか、色々と素肌をさらす機会がありまくりでしょ。社会人なら、職業によっては隠し通すことも可能だけどさ。本当に、自殺したいくらい悩みました。毎日、帰っては自分の肌を見て鬱になり、何十分、何時間も毛抜きで一本一本抜いて、そんな感じで、地獄の時間でした。
 そんで、どんどん、ますます、ウジウジした性格になり、内向的になっていきました。

 それで、もう受験なんて考えられなくなり、また、将来の思いとか、見通しとか、計画とか、そんなのに気を向かせる気力は皆無になりました。
 そんな生き地獄の中でも、どんどん時は経過していったので、とうとう受験となりました。俺は、隣街にある、学力レベルでいったら中の下か、あるいは下の上程度の、公立の普通科の高校に進学しました。
 そこでは、もはや、友達なんか一人もいなかったな。中学の時は、ヘラヘラしながらも、なんとか周囲に溶け込もうとしていたが、もう高校では、鬱みたいになって、もう単独行動ばかりでした。あ〜ぁ、やだなあ。楽しい青春とか、なんなんですかね。そんなの知りませんよ。地獄なら知ってますけど。
 それで、部活は、一応、ワンダーフォーゲル部に入部しました。それは、中学の時の友達が、一応、その部に入部したので、誘われたから入ったのですが、別に特段、興味があった訳ではないです。そんで、槍ヶ岳とか行きました。けど、槍ヶ岳って一体何県なのか、忘れました。本当にもう、記憶力は三流なのに、忘却力は一流なので困ります。そんで、槍ヶ岳とかの遠征は、夏に一回だけ、四泊くらいでした。俺は暇だから、断れなかったし、一応、三回とも出ましたが、同時入部の人達はどんどん退部とか出席しなくなって、最後には3年生は俺一人だけ参加して、もうバカみたいでした。その時も、下山したところの温泉で、下級生に体毛を見られやしないかとビクビクしていました。 その他の活動としては、月の一回だけ、日帰りで、近くの丹沢とかに行ったりしていましたが、無活動の月もけっこうあったように思います。とにかく、部員はほとんどいませんでした。全学年会わせて5人くらいかな。だから、部活といっても、ほとんど活動していませんでした。トレーニングも、なかったし。自主的にちょっと学校の周りを走ってみたりしたけどね。まぁ、相変わらず、部活のない日は、何時間もかけて体毛を抜いたり、週刊誌に載っていた体毛をまとめて抜くワックスでビリリと抜いたり、イタリア人の博士の開発した体毛が薄くなる液体を一万円くらい出して買ったりしましたが、まったく効果はありませんでした。抜いても剃っても生えてくる体毛地獄に、どうしようもありませんでした。
  マジで、平日の帰宅後とか、休日とか、体毛のことばかりに気を取られて、せっせと抜いたり嘆いたり鬱になったりしていました。他のことは気が向かないで、そればかり気にしていました。

 学校生活は、友達が一人もいなかった。部活の中学の頃の友達も、クラスは違ったし、そもそも部活自体ほとんど休部状態だったし、その元友達も退部とか参加拒否とかでどんどん疎遠になりました。
 だから、一人、昼休みは図書館で孤独、休み時間は机に寝てばかり、あるいは一人で意味もなく廊下うろうろ、あるいはベランダから外をポカーンと意味もなく眺めていました。
 高校生活は、嫌でした。中学も嫌でしたが、高校も嫌でした。相変わらず体育の時間はあるので、肌をさらさねばならなかったし、もうこの年齢なら付き合っている者は周りに大勢いて、青春を謳歌しているのに、俺は相変わらず一人でウジウジしていました。ウジみたいにいくらウジウジしても、変態してハエになって飛び去ることは出来ませんでした。ずっとウジ虫のままでした。だから、修学旅行の時なんて地獄で、友達でもなんでもない人達のグループに無理矢理班分けで入れられて、とても気まずい思いをしました。 そいつらは楽しそうにワイワイ騒いでいるのに、俺は一人そいつらの後をついていくなんてね。
 あとは、漢字検定くらいかな。頑張ったのは。というのも、一人っきりだったので、机で漢字の勉強していただけでした。
 それで、進路ですが、一年生の時の進路相談では、警察官になりたいとか、自衛官になりたいとか、色々と担任に話してはいたのですが、なにぶん、そんな体毛のことで手一杯だったので、前向きに真剣に考える余裕はありませんでした。もう、精神状態は、ギリギリで生存していたのですから。下らない理由で、よくもそんなに悩めるなぁとお思いでしょうが、事実なのだから仕方がない。その時の俺は、そういう精神状態だったのだから。 
 それで、とうとう3年生になりました。俺は相変わらず体毛のことばかりで、もう鬱で、人生を前向きに考えることなど不可能でした。その頃には、警察官になるのも諦めました。自衛官も諦めました。体毛でこれほど悩んでいるのに、集団生活など出来るはずがないと思ったからです。そんな、公務員試験を受けるような前向きな精神状態ではなかったのです。とにかく、現実から逃げたかったのです。

 それで、ワンダーフォーゲル部だったこともあり、山をたくさん見てきたので、どこか他県の山間部でひっそりと林業でもして暗そうかなあ・・・じゃなかった・・・暮らそうかなぁ・・・と思って、林業の専門学校に進もうと思ってしまいました。林業作業員なら、夏でも長袖長ズボンの作業着だから、体毛を見られずに済む、という考えが主な理由でしたけど。本当に、体毛の濃いことが、人生を間違った方向に導いてしまいました。膨大な時間を、体毛の処理に費やしてしまったし。もう、俺の人生、体毛が薄ければ、全く違ったものとなっていたでしょう。事実、小学生の頃は、なんだかんだ言って、わりと明るく、上手くやれていたのだから。それが体毛が濃くなって、体毛を剃ったり抜いたりするようになってからというもの、もう、地獄になりました。毎日、暗黒でした。

 それで、最初に長野県の林業の学校の受験を受けたのですが、落ちましたので、岐阜県の美濃市の林業短期大学校というところを受験したら、受かりました。そこに行くことにしました。別に、ウキウキしながら前向きな気持ちで行ったんじゃない。どんよりとした鬱状態で行ったのさ。

 アパートの家賃、生活費、学費は全額、親が出してくれました。俺の両親は、そこそこよいところに勤めていたのでした。でも、そのせいで、俺はとても甘やかされてしまったので、現実を力強く行きて行く力が身に付かなかった。小学生のテストで80点以上とったら一万円くれたりしていたし。某芸能人の息子みたいに、安易に大金を貰えたせいで、世の中を甘く見る癖がついていたのかもしれません。そのくせ、俺の親は、世の中について、道徳について、その他、何にも教えてくれませんでした。ただ、文字通り、育てただけでした。

 んで、岐阜県のその学校に行ったら、一学年18人くらいしかいなくて、おまけに、俺の年でその学校は取り壊されることになっていました。なんか、隣りの敷地に、新たに森林文化アカデミーという学校が出来て、そこにはなんだか優秀な生徒がたくさん応募してきたみたいだが、俺んところのは、ロクでもありませんでした。まあ、ロクでもないので、岐阜県庁は無駄だと判断して、廃校にすることを決定したのだろう。岐阜県管轄の学校みたいだったから。事実、卒業してパチンコ屋に就職したり、まったく別の方面に就職したりする奴もけっこういて、岐阜県が補助金だす必要ないじゃんと判断するのも必然でした。つーか、別に林業を本気でやりたいのなら、別に専門学校に進まなくても、直に森林組合に就職して頑張ったほうが、絶対よいと思うけどな。
 ようするに、この学校は、就職するまで遊びたい人達が、2年間だけ遊ぶために入ってくるようなところでした。ま、類は友を呼ぶなのか。俺も含めて、ロクな奴はいなかった。
 授業中に堂々とイビキかきながら寝てたり、後ろで携帯ゲーム機遊んだり、漫画読んだり、つーかそもそも、ギリギリの出席日数で済むように、他の奴らサボってばかりだったし。授業あるのに、堂々とサボって車で遊びに行ってたし。 外部から来た先生も、「本当は私はここで授業したくはないんですがね」なんて言っていたし。
 俺は一応、真面目だから、授業は聴いていたが、しかしそもそものここに進学した理由が、林業の熱意に基づいたものではなかったので、真面目に見えつつも、俺だって他の奴らと同じで、実際は不真面目でした。色々なことを教わりましたが、今では針葉樹と広葉樹の違いくらいしか分からん。他の知識、全部忘れました。もともと記憶力は至極悪いし、その上なんの興味もない分野だったので、なおさら記憶に残らなかった。
 俺自身は、なんとかへりくだりながら、みんなに溶け込もうと努力はしました。んで、なんとかそこそこ上手にわたってはいました。 同級生は全員男でした。県外から来たのは数人で、俺は神奈川県から来たので、『カナガワ』と呼ばれていましたが、健一と呼ばれることもありました。同じ齋藤という名字の人がいたので、名字で呼ばれることはあまりなかったな。
  そんで、バイトは、電気屋のチラシをポストに入れる単発のバイトを二日と、2学年の時に数ヶ月、ガソリンスタンドでバイトしました。時給700円でした。冬だったので寒かったです。
 そんで、修学旅行はカナダに行きました。別に、特に、そんなによいとは思いませんでした。ここでも一人っきりで行動する性質が表れて、みんなは左に行くのに、俺は一人で右に行こうとして、おいおい、どこに行くつもりだと、注意されました。また、自由行動の時に、夜の街を一人でブラブラ歩いていたら、黒人が寄ってきて、俺は腹が減っているとかで、ピザを奢りました。その後、俺がもっと上手いものを買ってきてやるから5000円よこせとか言うので、あげたら、それっきり帰ってきませんでした。外国は怖いですね。つーか、その頃の俺は、服装のセンスゼロで、作業服で街をブラブラ歩いたり、今から思えば、超恥ずかしいですね。
 
 んで、卒業間近になったので、どこかに就職する必要がありました。で、俺は地元の神奈川で色々と探したけどなくて、広島の森林組合の募集を見たので、そこに行ったら、超大勢応募してきていて、落ちました。その頃は林業はなかなか注目されていて、田舎で暮らそうブームみたいなものがあったと思います。ま、落ちたのは、それだけが理由でなくて、俺に真のやる気がなかったのがバレたからでしょう。
 そんで、最終的に、ある木材関連の中小企業に就職しました。そこには、もう一人、同級生が就職しました。いや、特にそこに絶対に就職したかったわけではない。とにかく、2年間学んでしまったのだから、とにかくどこかに就職しなければならないという思いから、そこに決めたのでした。そこの採用担当者は、「こんなに優秀な人をどうもありがとうございます」とか学校の就職担当者に言っていたけど、あんなのはただ、期末テストの数日前から勉強すればある程度の点数は取れるし、そんな勉強法だから、またすぐに忘却してしまうのでした。だから、結局、林業の専門学校に行った意味なし。だって、そこは給料はよくなかったし、中卒の人でも入れるし、外国人でも入れるし、神奈川の方がよっぽど好条件の仕事あるでしょ。俺、本当にバカだなあ。なんでわざわざ、岐阜県なんて行って、低条件の選択をしたのだろう。ま、体毛が原因だけどな。体毛が、俺の人生を大きく変えてしまったな。はぁ、体毛が薄ければなぁ。体毛なんて気にすることなく、恋人も出来ていただろうし、林業の専門学校なんて行くこともなかったろうになぁ。

それで、その就職先は複数の工場や森林現場の仕事場があったのだが、俺はとある街の木材加工工場に配属されました。そこは、独身者向けの寮があったので、そこに入寮しました。
 寮費は13000円くらいでしたが、途中から経営が苦しいからとか、隣の家族向けの社宅の家賃と比べて安すぎるという理由で、途中から24000円くらいになりました。でも、三食付きで風呂もついて、狭いながらも個室が与えられていたので、良心的だったと思います。が、当時の俺は、甘やかされたツケなのか、寮母さんに、ちょっと食事の量が多いので減らしてくれとか、あと大量に俺宛の郵便物が送られてきて、風呂掃除の時にあんたの郵便物の受け取りのせいで中断して出るはめになったとか、ちょくちょく衝突してしまい、結局、2ヶ月くらいで出て行くことになりました。
 まぁ、俺も岐阜県に住んでいるのに、名前が珍しいからとかいう理由でトマト銀行の口座を作ったりしていました。その郵便物を受け取った寮母さんが、なんで岡山県のトマト銀行の口座なんて作るんだ、向こうも迷惑しているよ、とか言われて、今ならまったく同感でその通りなのですが、俺はそういう変な部分が昔からあるのでした。その寮母さんとは、休日に近くのスーパーに一緒に買い物に行ったりしていたのです。仲はそんなに悪くはなかったのですが・・・。まぁ、寮母さんの愚痴を2時間くらい休日に聞いたり。まあ、悪い人ではないのですが、俺がわがまま言ったことと、その寮母さんの人生が色々あって少々ヒステリー気味になっていた、などの理由が重なり、衝突してしまいました。それで、近くのアパートを借りることにしました。

 でも、資金が足りませんでした。俺は弾きもしない、練習もしないギターを買ったり、祖母から専門学校の進学祝いで貰った30万円を、車で岐阜県に帰る途中にケーズ電機に寄り、そこでシャープの薄型テレビを27万円で買ったりしました。そんなの、今から思えば、画質は超悪いし、薄型テレビとはいえその頃のは分厚いし、画面も小さいし。でも、物欲を抑えられずに、買ってしまったのでした。とにかく、生存に関して不要な物を大量に買ってしまい、貯金し続けていればけっこうな額になったであろう金を、全部浪費してしまっていました。あと、進学の際に、母親の死んだ祖父が母親のために用意していた100万円を俺にくれて、それで新車のマツダのMTのデミオを買ったのですが、その維持費とかいろいろかかりました。自動車教習所の費用も親が出しました。とにかく、金銭面で甘やかされた環境で育ったものですから、我慢ということが出来ない性質だったのです。だから、貯金がなかったので、サラ金のアイフルに手を出してしまいました。

 その街の市役所の前には、二階建ての建物があり、焼き鳥屋以外は全部サラ金の無人契約機が入っていました。当時、アイフルが白いチワワをCMに起用し、大きなインパクトを与えていたので、色々なサラ金の中から、アイフルに決めました。入ったら本当に無人で、オドオドしながら進むと、声がしました。それで、給与明細とか、必要な書類とかを提示して、契約出来ました。最初は限度額50万円でした。
 それでアパートを借りました。二部屋の和室で、駐車場代無料で、35000円でした。それでも、俺は浪費癖が続いたのと、サラ金という金銭問題の補助手段を見つけて安易に物事を考えてしまったため、ベトナム戦争のように泥沼にはまり込み出しました。
 最初の頃は、恐る恐る借りては給与日に全額すぐに返していたのが、段々と気持ちが緩くなってしまい、終いにはサラ金と友達みたいな感覚になってしまいました。あの無人の機械は魔物だな。
 会社の給与は、月給175000円でしたが、色々引かれて、手取りは少なかった。で、会社の業績も悪くて、求人票にはボーナスは1年で月給3ヶ月分と書いてあったが、実際は夏55000円で、冬45000円であった。残業は、業績が悪いので、なるべくしない方針であった。だけど、俺が配属された部署は、赤字のくせに仕事量が多く、休日出勤もけっこうあり、休みは、月に四日くらいだったかな。なんか、俺の部署は、赤字だけど、お得意さんとの儲かる取引が他の部署であり、したがって、その顧客の機嫌を損ねないためにも、赤字続きでもその部署は存続させていたようだ。んで、その工場は100人くらい働いていたが、俺の部署は10人くらいで、主にフィリピン人やブラジル人がトンカントンカン叩いて製品を組み立てて、俺はその材料をフォークリフトで補充したり、出来た製品を運んだりしていた。
 
 でも、俺はフォークは下手で、積み上げた製品をドンガラガッシャンと崩してしまったり、動作が遅かったり、同僚の日系ブラジル人や日本人の先輩のフォーク操作に比べて格段にトロかったので、いつも超怒鳴られていました。マジで、怒鳴られました。直属の日本人のおじさんの上司に怒鳴られ、外国人の人達に遅いと怒鳴られ、積み込むトラックの運転手のオジさんに、「おいおい、今日、俺、○○まで行かなきゃならないんだよ。早くしろよ」と怒鳴られ・・・。
 でも、俺にあてがわれたフォークリフトは、年代物で、頻繁にシフトレバーがポロっと折れてしまうようなもので、ギアチェンジもミッションがガリガリと反発してなかなか入らなかった。いや、マジで。だって、俺だって、他のフォークリフトに乗れば、もっと上手に出来たのに。新たに買う余裕がなかったんだろうな。
 その頃は、会社では作業着で長袖長ズボンであり、プライベートでは、たまに一緒に専門学校からこの会社に就職した同級生と食事に行ったりする程度だったので、他人に肌を見せることはなかった。だから、しばらくは、体毛は生やしたままだった。というか、忙しかったし、借金のこととか、肉体的にヘトヘトになったり、あと一人暮らしなので、それにまつわる仕事も全部しないといけないので、そんな体毛を抜いている暇などなかった。だから、しばらく忘れていました。

 それで、借金ですが、段々と借金に対する恐怖心も無くなっていきました。いつの間にか、アイフルのATMに『限度額が100万円まで増やせます』という表示が毎回出るようになり、また、職場で働いている時にも、俺の携帯にアイフルから直接電話がかかってきて、限度額を増やすことを勧誘してきました。最初の頃は『おいおい、さすがに百万円まで増やしちまったら、どうしようもなくなるぞ』と思ったのですが、借入金が限度額一杯まで来ていたこともあり、とうとう、100万円まで増やしてしまいました。それと同時に、専門学校の研修旅行でカナダに行く前に作ったクレジットカードのセゾンカードが、いつの間にか限度額がショッピング100万円、キャッシング80万円までだったかな?いや、もうちょっと下かな?とにかく、いつの間にか、限度額が増えていました。
 それで、意味もなく、使いもしないのに、近くのミドリ電機とかギガスとかエイデンとか行って、高級なコピー機とか買ってしまい、いつの間にか、どんどん借金は増えていました。ただ、具体的にどんなものに大金を投じたのか、よく覚えていない。とにかく、不要なものに使った使途は、記憶に残らないものだ。
 そんで、仕事の方は相変わらずてんで駄目で、でも一生懸命働いていました。でも駄目だから、そのストレスとかかなぁ、今から思えば。だから休日に、ドカンと不要品を買ってしまったのかな。とにかく、借金残高はどんどんエベレストのように増えていきました。しかも、その頃は、今みたいに金利が18%でなくて、クレジットカードもサラ金も、グレーゾーン金利とかいうので29%くらい取られていたから、本当にもう、返すアテはなかった。けど、当時の俺は呑気だしバカだし将来を見通す能力なんてないから、借金を続けてしまっていた。

 あと、今思い出したけど、専門学校を卒業する直前に、本屋にフラッと寄ったんだ。そして、いつもは行かない自己啓発コーナーに行ったんだ。そこには速聴の本があって、速聴をすれば、あなたも天才になれるみたいなことが書かれていた。そこには、無料の本プレゼントのはがきが入っていた。無料ならラッキーと思い、軽い気持ちで投函しました。すると、速効で資料と本と契約書が配達された。そして、速効で電話がかかってきた。そんで、散々煽てられて、褒められて、気づけばコンビニから契約書のFAXを送っていた。そんで、俺は毎月、35600円を五年くらいかけて返済するローンに縛られた。最初の頃は少しやっていたが、すぐに飽きた。それはでっかいトランク二つにびっしりとCDが入っていて、速聴の機械が、カセット用とCD用とが二つ入っていた。お値段は、ローンなので総額215万円くらいだった。気づいた時には、クーリングオフは無理だったし、そもそもクーリングオフって何?みたいな感じでした。その時は、「まぁ、いいや」なんて呑気に構えていた。毎月35600円の返済が、どれほど重くのしかかるか、知る由もなかった。そのくらい、金に対して呑気だったのだ。俺は、本当にお金に甘く育てられたので、金銭感覚がおかしかった。親や祖父母は子供のため孫のためと大金を与えるのはいいが、相手が馬鹿だと、自滅してしまうから注意してください。

 そんなこんなで、とうとう仕事を始めてから1年1ヶ月目の五月、退社したいと本社の人に伝えました。はー、すべて、これ以前の決断がバカすぎるな。やはり失敗とは、その直前にのみ原因があるのではなく、それよりもはるか昔に原因があるのだろう。なんで俺は、わざわざ岐阜県まできて、こんなにボロボロになってしまったのだろうか。
 俺は、次の就職先なんて決まっていなかった。とにかく、もう精神状態がボロボロで、とてつもなく怒鳴られまくりで、おかしかった。俺の部署は人の出入りが激しくて、外国人達も、次々に近くの別会社に転職しちゃうし、俺に仕事を教えてくれた日本人の若い先輩も、俺がそこの部署に配属されてすぐに辞めちゃって別の会社の工場に転職しちゃったし。その先輩の後釜で入った日系ブラジル人の若者も、もっと条件の良い職場に転職しちゃうし。そんで、そこには、とうとう俺と、怒鳴ってばかりいる怖い上司しか、フォークリフト使いはいなくなりました。緩衝剤がなくなって、毎日毎日、直接怒鳴られ、嫌みを言われ、精神はどんどん追いつめられていきました。
 まあ、結局、俺が弱いんだが。しかし、弱いのは事実なので、仕方がない。逃げちゃ駄目だという人もいる。しかし、そのままそこに留まったせいで自殺しちゃう人も日本人には大勢いるのだから、逃げちゃ駄目だという方針も、時と場合によるな。ケースバイケースですね。

 俺はアテもないまま、とりあえず、暫くの間は借金で生活することにした。

 
 

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