死にたい自殺サイト自殺方法自殺ダメ

当サイトは、死にたい人に自殺に関する霊的知識を与えて、自殺を止めさせる自殺防止サイトです。

自殺の霊的知識へ

カテゴリ: ★『スピリチュアリズムについて』

自殺ダメ


 これらは、シルバーバーチの霊訓に書かれている一節です。これらの言葉が、『スピリチュアリズム』とは何か?を物語っていると思います。つまり、スピリチュアリズムとは、真実の霊的知識の普及のことなのです。


 [身体の健康状態とは別に、皆さんを取り巻いている雰囲気と、地球全体を取り巻いているオーラとが、憎悪と凶暴性に満ちていて、私達が突き抜けるのに苦心惨憺することがあります。霊の目で見ると、見るも恐ろしい様相を呈しております。
 私達はそうした病める世界ー貪欲を剥き出しにし、利己主義を支配し、本来の霊的属性を発揮している人がほんの一握りしかいない世界を、何とかして改めたいと望んでいるのです。]
 
 [正しい霊的知識を地上に普及させるーこれが私達霊団の使命の一環です。一環とはいえ、大変な仕事です。霊的実在に関する地上世界のあまりの無知に、このまま放置していては大変なことになるとの認識がこちらの世界で広まりました。その無知による弊害が、あらゆる面で顕著になってきたからです。地上世界だけではありません。霊の世界にもそれが反映され始めたのです。]

 [地上世界の無知による弊害を見るに忍びず、これは何としても思い切った手段を講じて、霊的実在に関する正しい知識を普及させねばとの決断が下されました。私がこうして何十年にもわたってこのサークルで語り続けているのも、その一環です。
 『霊的』というと何か掴みどころのない神秘的なものを想像なさるようですが、実在そのものなのです。]

自殺ダメ



『人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅』近藤千雄著より


 〝人間〟とは一体何なのだろうか。今こうして意識している〝自分〟とは何なのだろうか。これは、誰もが一度は抱く疑問であろう。
 私も、一人前に、高校生の頃からそうした疑問を抱き始めた。が、それが心の片隅でちらつきながらも、身体的には溢れんばかりのエネルギーに駆られてスポーツに熱中し、精神的には旺盛な向学心に駆られて、受験勉強に明け暮れていた。
 その疑問への回答のようなものが、高校三年生の時に、一人の霊的指導者との出会いによって、一つの手掛かりを得ることになる。十九世紀半ばから英米で注目を集め始めた〝スピリチュアリズム〟と呼ばれる霊的生命思想に関する著作を読んだことがきっかけである。無論翻訳書である。が、教科の中でも英語が抜きん出て得意で好きでもあった私は、その訳文の流暢さに感服し、是非ともこれらの原書を独力で読破してみたいと思うようになった。
 思想の内容もさることながら、それを英文で読み通したいという願望の方が強かったわけで、言ってみれば〝語学的ロマンティシズム〟のようなものにすぎなかったが、それが私の人生に大きな意味を持つことになる。
 その願望が大学進学へ拍車をかけ、一年後には首尾よく英文科へ入学出来た。そして奇遇というべきか、その大学における一年次の「英書購読」の担任の教授が熱心なクリスチャンでありながらスピリチュアリズムにも関心を持っておられ、ある経緯で私はその教授のご自宅に招かれた。そして、そのご自宅の書棚にあったスピリチュアリズム関係の原書をお借りして帰って下宿で読んだのが、原書との最初の出会いとなった。
 更に三年次に、「エリザベス朝文学」の講座でシェークスピアの講義を聴いて、翻訳の極意のようなものを垣間見る思いがして、四年次には迷わず「翻訳論」を専攻した。かくして、スピリチュアリズムの翻訳・紹介という私の人生コースが、その時点で方向付けられたようなものだった。
 以来、今日までの三十年余りの間に私が訳出したスピリチュアリズムの著作は、五十冊近くになる。その一冊一冊が、私にとっての〝求道の旅〟の一里塚であったといってよいであろう。
 本書で私は、その旅で得た知識を総合的に纏めて、スピリチュアリズムと呼ばれる生命思想がいかなるものであるかを紹介してみた。読者は、これまでの思想的遍歴いかんによって様々な受け止め方をなさるであろう。が、とまれかくまれ、その思想が各界の世界的な学者による調査・研究によって裏付けされたものであることだけは、私が確信を持って断言しておきたい。

自殺ダメ



 昭和十年生まれの私にとって、小学生時代は十六年に勃発して二十年に終わった世界大戦と完全に重なる。特に五年生の頃からは空襲又空襲の毎日で、学校の授業は疎開先の山に掘った防空壕の中で行なわれることが多かった。
 細長く掘られた暗い洞窟の中で雑然としゃがみ込んでの授業では勉強らしい勉強が出来る筈はなく、〝勉強〟と言えるものをした記憶はまるで無い。〝警戒警報解除〟、つまり、敵機は暫く来ないとのサイレンが鳴り響くと、兵隊さんと一緒に、食料の足しにする為のカタツムリを取りに行ったり、近くの川に釣りに行ったり、友達と相撲を取ったり、取っ組み合いの喧嘩をしたりした記憶しかない。
 戦後、中学生になってからも、教室は兵舎の各部屋を二つに仕切って(といって遮蔽物は何もなかった)、右と左で別々のクラスが別々の先生に教わるという、今から考えると無茶苦茶な授業だったから、これ又、勉強らしい勉強をした記憶はない。思い出すのは、休み時間のソフトボールやドッジボール位のものである。
 が、中学生になってから変わったことが一つだけある。読書好きになったことである。学校から帰ると直ぐに腹ばいになって本を読み耽るようになった。何でも読んだ。佐藤紅緑の『ああ、玉杯に花うけて』といった少年熱血小説を読むかと思うと、江戸川乱歩の『怪人二十面相』のようなものも読んだ。要するに乱読だった。夕方になって「ご飯よ」と呼ばれても、あと一ページ、もう一ページと読み続け、その間も何度も呼ばれ、とうとう兄さんから大声で叱られるように呼ばれて、やっと本を閉じたことなどが思い出される。本屋さんに新しく買いに行った時は、一冊を立ち読みで読み切ってから、別のを買って帰るということを、よくやった。
 ところが、高校生になってから、なぜか哲学的なものに惹かれるようになり、阿部次郎の『三太郎の日記』や三木清の『哲学ノート』などを読むようになった。そして、その頃から、ふと、今自分はなぜここにいるのだろうかとか、寝ている間はどうなっているのだろうか、といったことを考えるようになり、それは当然、死んだらどうなるのだろうかという考えに発展していった。その時の考えを断片的に思い出してみると、死んだ後の状態がもしも寝ている状態と同じなら、別に死を怖がることはないと思ったりしていたようである。
 それと平行してもう一つ、高校生になってからの大きな変化があった。中学生の時は好きでも嫌いでもなかった英語が、なぜか〝よく分かる〟ようになっていったことである。
 (中略)
 当時は入学直後に英語だけ組み分けテストがあって、ABCに分けられていた。秀才が沢山集まる学校と聞いていたので、どうせ良くて〝B〟クラス、悪ければ〝C〟クラスだと諦めていたのだが、〝A〟クラスの名簿に自分の名前が出ていた。英語への自身はどうやらこのことから始まったらしい。その後も定期試験の度に自信が増していった。

自殺ダメ



 そんな折、三年生になったばかりの頃に、私の人生を決定付ける恩師との出会いがあった。間部詮敦(まなべあきあつ)と仰り、元子爵で、その先祖を辿ると、阿部正弘の後を継いだ井伊大老のもとで老中職を務めた間部詮勝がいる。もう少し遡って江戸中期には間部詮房という人物がいて、六代将軍と七大将軍に仕え、幕政改革に腕を振るった側用人として有名である。
 名前を御覧になれば分かるように、間部家は代々〝詮〟の字を用いており、私の恩師・詮敦氏のお兄さんは詮信と仰った。十歳ばかり年齢の開いたご兄弟だったが、どちらも大変な霊能者であると同時に、霊覚者でもあった。つまり人格・識見・霊能の三つを兼ね備えた方で、特にお兄さんの方は霊感と五感とが見分けがつかない位、日常茶飯に自由自在に使いこなしておられた。私達は老先生・若先生とお呼びしていた。
 そのお二人の影響を受けて、五感以外に不思議な感覚があることを目の当たりにしていた私に、今思えばまさに千載一遇の幸運が訪れた。所謂物理的心霊現象実験会、略して〝物理実験〟が福山市で催されることになり、それが何なのかを皆目知らない筈の母が、高い参加費用を払って、私と兄の二人を出席させてくれた。
 そもそも間部先生に引き合わせてくれたのも母であるが、この後で紹介する天逝した長兄のことで先生の霊力の素晴らしさに感動させられて絶対的に尊敬していたからであろう、「見ておかれるといいですよ」という先生の言葉を信じて、そうでなくても戦後の苦しい家計の中から費用を出してくれた。今思えば、〝有り難い〟という言葉の本当の意味、つまり、中々有り得ないことを体験させてくれたことを、亡き母に感謝している。

3

自殺ダメ





 その時の霊媒は津田江山という方で、老先生が養成されたと聞いている。四十代の壮健そのものの頃だったので、実験に使用されるエネルギーも豊富だったのであろう、初めから終わりまで啞然とさせられる現象の連続だった。
 部屋は真っ暗闇で、中央の机の上に用意されたメガホン(複数)とかタンバリンとかには蛍光塗料が塗ってあり、その動き具合だけはよく見えた。
 それがただ動くだけのことならトリックでも可能かも知れないが、不思議でならなかったのは、電灯を吊るしてあるコードが何本かあるのに、真っ暗闇の中をそれに一度も触れることもなく、しかも猛スピードで部屋中を飛び交い、時には出席者の頭をボンボンと叩いて回った。私も叩かれた。もしも人間が手に持って叩いて回ったのなら、歩き回る時に誰かの身体に触れた筈である。少なくとも人の動く気配がした筈である。とにかく、出席した者にしか分からない現実感・真実味といったものを、ひしひしと感じ取った。
 百聞は一見にしかずという諺があるが、私はこれを、百の反論も一個の実証にしかず、と言い換えたい。
 当日の実験で圧巻だったのは、そのメガホンの一本が中空に止まって、その中から
「間部です」
という声が聞こえたことである。間違いなく老先生の声だった。津田霊媒によっては師匠に当たる間柄だったので、出やすかったのであろう。
 後に老先生にお会いした時にお聞きしたところ、その時先生は福岡のご自宅にいらして、幽体に宿って身体から離脱して訪れたとのことだった。〝幽体離脱〟という現象については心霊現象の章で詳しく解説する予定である。
2

 なお、写真で御覧の三枚の色紙の書は、同じく真っ暗闇の中で書かれたものである。確かめてはいないが、多分これも大変な能筆家だった老先生がお書きになったものと思う。硯(すずり)と筆と色紙を用意しておいただけである。極めて日本的な直接書記現象といえよう。
 もう一つ用意されていたのはカメラのセットで、カメラと三脚とフラッシュ用のバルブをバラバラにして置いておいた。会も終わりに近付いた頃
 「これから写真を撮ります」
という声がして、何やらガチャガチャと音がし始めた。三脚を組み立て、それにカメラをセットしている音には違いなかった。が、真っ暗で何も見えない。その内
 「これから撮ります」
と言うのでカメラの方へ顔を向けたいのであるが、どっちの方向にあるかが分からない。
1

その内パッと閃光が閃いた。御覧の通り、みんなてんでばらばらの方角を向いている。

↑このページのトップヘ