カテゴリ: ★『宗教について』
世界各地の宗教の地獄観 目次
キリスト教ニケーア会議の真相 目次
仏教の死生観
[よくわかる世界三大宗教]という本より抜粋。
ここでは、仏教の死生観を紹介したいと思います。それはなぜかといえば、スピリチュアリズムの死生観と比較してもらい、どちらがより理性が納得するかを、あなた自身で判断して頂きたいからです。
輪廻転生と末法思想
六道に分かれて生と死を繰り返す「輪廻」から解脱することによって救いの世界へ辿り着く
古代インド宗教に共通する「輪廻」と「業」の概念は仏教にも取り入れられた。後にそれは「転生」の思想と結び付き、六道による輪廻転生説が生み出された。
仏教に伝わる「輪廻思想」
本来、仏教において「輪廻」とは「因縁によって生滅し、変化を続ける心の流れ」を説明する為の概念。行為と結果による心の流れは絶えることがないが、そこに「私」という実体は存在しない(無我)と考える。この「輪廻」の考え方に「転生」が加えられ、死後の世界が語られるようになったのは、部派仏教の時代からである。
(注)これは、本には図で示されているのですが、文章にしたのでやや分かり辛いです。多分、物凄く多くの仏教の宗派が存在するので、各宗派によっても死後の世界観は異なるのかもしれません。まあ、詳しく知りたい方はご自分で調べて下さいby自殺ダメ管理人。
輪廻転生の様子
現世→死
死から三通りのコース
①解脱
②往生→極楽浄土(阿弥陀)
③中陰(冥土)
(閻魔大王による審判が行なわれ生前の行いによって、六道のどこへ行くかが決定される。期間は49日間。なお、日本では「冥土」と呼ぶ。「三途の川」のエピソードも日本特有)
③中陰(冥土)から、六つの道のいずれかに転生する。
○天道
天人の世界。人道より楽が多く苦の少ない世界ではあるが、人と同じように死苦がある。仏の世界から見ると絶対的とは言えない。
○人道
人間界のこと。生老病死を含めた四苦八苦があるが、仏になる為の修業がもっともしやすい世界である。
○阿修羅道
鬼の世界。仏教的な境地では人に劣るが、天道に近い能力を持つことが許されている。常に戦いが繰り返されている世界で、それは永遠に終らない。
○畜生道
虫、魚、鳥などを含めた人以外のあらゆる動物が暮らす世界。死に至るまで弱肉強食の争いを繰り返すことから逃れられない。
○餓鬼道
閻魔大王の支配下にある世界。この世界の住人は、飢えと苦しみに耐え続けながら生きていかなければならない。
○地獄道
五戒を破った者が落ちる世界。鬼による責め苦が続く為、この世界の住人は絶えず苦しんでいる。
六道・来世は全部輪廻転生→現世
八段階ある地獄の責め苦
「地獄道」又は「地獄」は、最上階の等活動地獄から、最下層の阿鼻地獄まで、大きく八つの層に分けられている。そして、下に行く程収容人数が大きく、苦痛も大きいと考えられている。
等活地獄(最上階)
(罪人同士で争い事を続ける。勝っても鬼に打たれて殺され、苦しみを味わう)
黒縄地獄
(体をのこぎりや斧で切り刻まれ、地獄の釜で釜茹でにされる)
衆合地獄
(鉄臼に投げ込まれたり、獣に襲われたりする)
叫喚地獄
(弓矢で追われ、鍋で煮られ、煮え湯を飲まされる)
大叫喚地獄
(嘘をついた者が舌を抜かれる。上記四つの十倍の苦しみを味わう)
焦熱地獄
(鬼に鉄棒で打たれ、串焼きにされる。大叫喚の更に十倍の苦しみ)
大焦熱地獄
(燃える刀で皮を削がれるなど、火を用いたあらゆる苦しみを味わう)
阿鼻地獄(最下層)
(一瞬も休むことなく、絶え間なく責め苦を受ける無間地獄。究極の苦しみ)
仏教の地獄の図。刑期は、一番罪の軽い等活地獄でさえ1兆6653億年である。
ちなみに、蟻や蚊を一匹でも殺した時点で、悔悟しなければ等活地獄に落ちることは決定済みだそうです。殺虫剤とかゴキブリホイホイとか使用したことのある者は、絶対にここに落ちるだろ!
仏の数だけ浄土がある
「浄土」とは仏がつくった一切の苦しみがない清らかな世界。それぞれの仏にはそれぞれの浄土が存在する為、浄土は仏の数だけあるとされる。最も有名な「極楽浄土」は阿弥陀仏(ブッダ)の浄土である。
仏の名→浄土の名称
大日如来→蓮華蔵世界
阿弥陀如来→西方極楽浄土
薬師如来→東方浄瑠璃世界
阿閦→東方妙喜国
釈迦如来(釈迦牟尼仏)→無勝荘厳国
観音菩薩→補陀落山
弥勒菩薩→兜率天
古代インドにも伝わる「輪廻」と「業」の思想
仏教では「輪廻」という思想が語られる。
「輪廻」とは、車輪が回転するように現世と来世を無限に繰り返す状態を指す言葉。人はその輪廻の中で、常に「業」を背負って生きているとされている。
「業」とは「行為」を指す言葉だが、そこには行為に付随する功徳や罪も含まれている。
どんな行為もその場で消える訳ではなく、結果は自分に返って来る。だから、人はその結果を自分で受け止めなければならないと考えられている。
これが「自業自得」という考え方。際限なく続く輪廻の中で、現世の業によって来世の処遇が決まる訳である。
こうした「輪廻」と「業」の思想は、インドの古代宗教であるバラモン教(後のヒンドゥー教)やジャイナ教においても規定の事実とされている為、仏教もその影響下にあるとされている。
しかし、天界を頂点とした考え、カースト制度にもその考えが反映されるバラモン教(ヒンドゥー教)の輪廻思想と、仏教のそれが、全く同じものとは言えない。仏教の輪廻思想では、生命の連鎖や循環からの離脱を目指すことが第一と考えられているからだ。
ブッダは、この輪廻思想について否定も肯定もしていない。
現実に即した教えを重視したブッダは、弟子であるマールンクヤの死後の世界にまつわる質問に対して、「毒矢が刺さったら、あれこれ考えずに、まず矢を抜かねばならない」と答えた。
つまり、答えが出ないことで思い悩まず、この世で出来ることを優先しようと諭したのである。
「人の道」で悟りを開けば輪廻転生から解脱出来る
仏教における輪廻思想は、やがて発展し、人が生前(前世)に背負っていた「業」に応じて、6つの世界(六道)に振り分けられるとする輪廻転生説が有力になっていく。
人は死ぬと、まず「中陰」と呼ばれる状態に入る。
そして、そこにいる49日間で、来世に六道のどこへ行くかが決定される。裁きを下すのは閻魔大王で、裁きの基準となるのが前世における「業」というわけだ。
「天界」「人道」「阿修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」の六道のいずれかで来世を過ごした後は、再び「中陰」の状態に入り、閻魔大王の裁決を待つ。
これを無限に繰り返すのが、輪廻転生である。
この永遠の輪廻から抜け出す唯一のチャンスは「人道」にのみ存在する。「人道」は苦しみに満ちた世界(一切皆苦)ではあるが、仏の教えを受けることで、悟りの境地に達する可能性がある唯一の場所でもあるとされる。
「天道」は「人道」の上位に位置する世界で、幸福と快楽に満ちた世界ではあるが、悟りに達することは出来ず、時が来れば、必ずまた輪廻を繰り返す運命にある。
浄土への入り口は「人道」にしかない。だからこそ、現世で善行を積み重ね、悟りへの道を歩むことが大切だと説かれている。
イスラム教の死生観
自殺ダメ
[よくわかる世界三大宗教]という本より抜粋。
ここでは、イスラム教の死生観を紹介したいと思います。それはなぜかといえば、スピリチュアリズムの死生観と比較してもらい、どちらがより理性が納得するかを、あなた自身で判断して頂きたいからです。
イスラム教の地獄の様子。勿論刑期は永遠である。
最後の審判・天使の記録
イスラム教徒の行動を記した「記録の書」によって来世の行先(天国・地獄)が決定される。
現世の善行や悪行は二人の天使によって記録され、最後の日に審判が下される。
キリスト教の終末思想はイスラム教にも大きな影響を与えた。
『コーラン』に描かれる終末
『コーラン』に描かれる終末の描写は、大地が崩壊し天使がラッパを吹くなど『新約聖書』に似ている部分が多く、多大な影響がうかがえる。しかし、そもそもこの終末と最後の審判に関するモチーフは、善悪の二元論を特徴とするゾロアスター教を由来としており、それはユダヤ教、キリスト教を経由してイスラム教にもたらされたと考えられている。
【大まかな流れ】
①ヤージュジュとマージュジュ(両方とも巨人の悪魔)が現れ、世界を荒らす
②天が大きく揺れて割け、星と共に落ちる
③大地が崩壊し、世界が始まる前の状態になる
④天使がラッパを吹くと、生きている人々は気を失う
⑤もう一度ラッパを吹くと、死者が蘇る
⑥アッラーの前で最後の審判を受ける
⑦「記録の書」によって天国と地獄に振り分けられる
ムスリム(イスラム教徒)の人生観
『コーラン』では、生前の人間には常に二人の天使が付き、向かって左にいる天使が善行を、右にいる天使が悪行を記録しているとされる。審判はこの記録を元に下される。
【天の書】
(世界の歴史は、天地創造の日から最後の日まで、この書に記録されている)
【記録の書】
(毎週木曜日に一週間分の記録(善行と悪行)が見直され、最後の審判に関わると思われる記録以外は消去される)
ここまでが現世。
【最後の日】
ここから来世。
【最後の審判】
(審判の日に「記録の書」に残された善行と悪行の数が計算され、行先が決まる)
【天国】か【地獄】
キリスト教と同様に最後の審判で行く先が決まる
イスラム教が発生する前のアラビア半島では「死=消滅」であり、来世の存在を信じていない人々が多かった。しかし、イスラム教は、最後の審判、天国と地獄、終末における死者の復活などの概念を認めており、これはユダヤ教やキリスト教の影響と考えられている。
『コーラン』には「現世の行いによって来世の運命が決まること」が繰り返し警告として記されている為、イスラム教徒は、現世の繁栄よりも来世の幸福が重要だと考える。
一般的にイスラム教では、人が死ぬ時、死の天使が現れて肉体から霊魂を抜き取る。このとき信仰者の霊魂は天国へ飛び、不信仰者の霊魂は地獄へ向かうと教えられている。
又、地獄に行った霊魂は肉体に戻され、週末の日まで、墓の中でムンカルとナキールという天使から審問を受けるとされている。
そして、世界に終末が訪れる時には、全ての朽ち果てた肉体が蘇り、全員が広場に集められ、最後の審判を受けるのである。
ここで「記録の書(生前の行為が書き付けられた帳簿)が開かれ、善行と悪行が秤にかけられ、天国と地獄に振り分けられる。この時は、殺人など重大な罪を犯した者でも、天国へ行ける可能性は残されると考えられている。
天国は水と緑に溢れる美しい豊饒の楽園で、時には神の尊顔を目にすることも出来る。一方で地獄は火が燃え盛る絶望の場所で、熱湯を浴びせられて火に焼かれるという。
イスラム教徒の葬儀では一般的に火葬を避ける。これは最後の審判の日に生前の姿で復活する為と考えられているが、「地獄で焼かれることを連想させるから」という理由も考えられる。
死後の世界に関する論争は様々ある
『コーラン』では、死後の出来事に関して非常に感覚的な表現で描写されている。その為、これを文字通りに受け取る立場と比喩的に解釈する立場が存在する。
前者は伝統的なイスラム教徒の立場であり、物体は一度滅んだとしても、全能の神の力によって元通りの姿に蘇ることが可能であるとしている。
後者は古代ギリシア哲学の影響を受けたイスラム哲学の立場で、一度滅びた肉体が元に戻ることはないと理性的に考える。しかし、霊魂は物体ではないので死後も残るとしている。
これ以外にも「死」や「死後の世界」に関する論争は様々な形で発生している。
例えば、ムハンマドの時代にも「全ての運命が神に委ねられているなら、人は自分の行為に対しても責任がなく、最後の審判で裁かれる必要はないのではないか」という疑問が提示され、論争に発展した。
この論争を収めたのは、アシュアリー学派の「獲得理論」で、これは「神によって予定されている行為であっても、人はその行為を自分の力で獲得することによって行動している為、責任は回避出来ない」とする考え方である。
そして、これによって「天命(カダル)が六信の一つとなった。