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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第27章

第二十七章 求めなさい、そうすれば与えられます

祈りの条件

祈りの効果

祈ること-思考の伝達

理解出来る祈り

死者や苦しむ霊達への祈りについて

◆霊達からの指導
 祈り方祈りの喜び

求めなさい、そうすれば与えられます

祈りの条件

一、又、祈る時には、偽善者達のように祈ってはいけません。彼等は、人に見られたくて教会や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。誠に言います。彼等は既に自分の報いを受け取っています。しかし、あなた達は、祈る時には自分の寝室に入りなさい。そして、戸を閉め、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いを見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださるでしょう。
 又、祈る時には、異邦人のように言葉を多く唱えてはなりません。彼等は言葉を多く唱えれば聞き入れられるものと思っているのです。だから、彼等のようにしてはいけません。あなた達の父なる神は、あなた達がお願いをするより先に、あなた達に必要なものを知っておられるのです。(マタイ第六章 五-八)

二、又、立って祈る時、心の中に誰かに対する恨みを持っているなら、その者を赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなた達の父も、あなた達の罪を赦してくださるでしょう。もし、あなた達が赦さないのであれば、あなたの父も、あなた達の罪を赦してくださらないでしょう。(マルコ第十一章 二十五、二十六)

三、自分を正しいと自ら認め、他の人々を見下している者達に対し、このようなたとえをお話しになった。
「二人の人が、祈る為に宮に上った。一人はファリサイ人で、もう一人は徴税官であった。ファリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした、『神よ。私は他の人々のように貪欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のような人間ではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるもの全ての十分の一を捧げております』。
 ところが、徴税官は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った、『神様、こんな罪人の私を憐れんでください』。
 誠に言います。神に正しい者と認められて家に帰ったのはこの徴税官であって、ファリサイ人ではありませんでした。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。(ルカ 第十八章 九-十四)

四、祈りの条件は、イエスによって明確に示されています。イエスは言いました。「祈る時には自分の寝室に入りなさい。そして、戸を閉め、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい」と。たくさん祈っているふりをしてはなりません。なぜなら、祈りの言葉の数ではなく、祈る人の誠意によって祈りは伝わるからです。誰かに対し、何か一つでも敵対の気持ちがあるのであれば、祈る前にその人を赦してあげなければなりません。なぜなら、慈善に反する感情の一切を捨てて、清い心を持って祈るのでなければ、その祈りが気持ち良く神に伝わるわけがないからです。「徴税官」のような謙虚な気持ちで祈りなさい。「ファリサイ人」のような虚栄心を持って祈ってはいけません。見るべきものはあなた達の短所であり、長所を見てはなりません。もし、他人と比較するのであれば、あなた自身に存在する悪を探しなさい(→第十章 七、八)。

祈りの効果

五、「だから誠に言います。求めるものが何であろうと、祈って求める時には、もうそれが叶えられたものだと信じなさい。そうすれば、その通りになるでしょう」。(マルコ 第十一章 二十四)

六、神が私達の必要としていることを全て知っているのであれば、私達はそれを神に対して言い直すまでもないと、祈りの効果を否定する人がいます。又、宇宙の全てが永遠の法則によって動いているのであれば、私達の願いで神の意向を変えることは出来ないと言います。
 一人一人の気まぐれに応じて神が取り消したりするようなことが出来ない不変の自然の法則は、間違いなく存在します。しかし、だからと言って、人生の全ての状況下で、運命にただ身を任せなければならないと信じるのは大きな間違いです。もしそうなのであれば、人類は単に受動的な存在でしかありえず、自由意志も自発性も持つことが出来なくなります。運命のもたらす出来事の前に、人はただ頭を下げるだけでしかなくなってしまいます。そうした出来事を避けようともせず、危険から遠ざかろうともせずに。神は、使いもしない理解力と知性を私達に与えてくれたのではありません。何もしないように行動力を与えてくれたのではありません。人は、自由に行動出来るからこそ、その人の下した決定に応じた結果を、その人自身も、又他の人も、得ることが出来るのです。その人の自発性によって運命から取り除くことの出来る出来事というものが存在するのです。しかし、だからといって、それは宇宙の法則の調和を崩すということではありません。言うならば、時計の差す針が遅れていようが進んでいようが、針を動かす時計の仕組みに変わりはないのと同じことです。つまり神は、全体を支配する法則の不変性を取り消すことなく、意志に応じてある程度の願いを聞き入れてくれることがあるのです。

七、「求めなさい、そうすれば与えられるでしょう」という金言を、得る為には求めるだけでよいのだと解釈してしまっては不合理ですし、求めたものを全て得ることが出来なかったと言って神を非難するのも不当です。なぜなら、神は私達にとって何が相応しいのかを、私達よりもよく知っているからです。それは、常識のある父親が、自分の子供にとって不利益となるものは断るのと同じことです。一般に人には現在しか目に入りません。しかし、もし苦しむことが、ある人にとって幸せな将来をもたらすのであれば、神は、外科医が病気を治す為に手術を病人に受けさせるのと同じように、その人に苦労させるでしょう。
 神を信じ、求めるのであれば、神は勇気、辛抱、甘受の気持ちを与えてくれます。更に与えてくれるものは、善霊達からの暗示から導き出される、苦労から解放される為の手段であり、あとはそれを本人が実行すれば、その暗示の真価を知ることが出来ます。「あなた自身を助けなさい、そうすれば天があなたを助けてくれます」という金言のように、神は自分自身を助ける者を補助してくれるのです。自分の能力を使わず、何もせずに他人任せの助けを求め、全てを待つ者を助けるのではありません(→第二十五章 一とそれに続く頁)。

八、例をあげてみましょう。ある人が砂漠で迷っているとします。ひどく喉が渇き苦しんでいるとします。衰弱し、地面に倒れてしまうとします。その人は祈り、神の助けを求めますが、どんな天の使いも飲み物を持って来てくれるわけではありません。しかし、善霊は、ある一定の方向へ向かって進むという考えを暗示します。すると本能的な衝動によって、その人は全身の力を込めて起き上がり、思い付いた方向へ向かって進み出します。ある高台に辿り着き、遠くに小川が流れているのを発見して、それによって勇気を得るのです。信仰のある者であれば、「神様、よい考えを私に閃かせてくれて、ありがとうございました」と言うでしょう。神を信じない者であれば、「私はなんと素晴らしい考えを持っていたのだろう。左を選ばず、右の道を選び、私はなんと運が良かったのだろう。思い付きも実際役に立つものだ。倒れてしまわなかった自分の勇気が嬉しい」と言うでしょう。
 では、なぜ善霊ははっきりと、「この道を進みなさい、そうすればあなたの必要としているものが見つかります」と言わなかったのかという疑問が残ります。なぜ、その人が衰弱していた時、その人を導き助ける為に、その善霊は姿を現さなかったのでしょうか。そうしていれば、神による干渉というものを理解させることが出来ていた筈です。それはまず、自分自身の力で自分を助けなければいけないということを教える為です。次に、はっきりと示さないことによって、その人の信心を試し、その人の意志に従う為です。神はその人を、転んだ時、誰かが見ていれば泣き叫んで起こしてもらうのを待ち、誰も見ていなければ自分で努力し立ち上がる子供のような状況に置いたのです。
 もしトビアスの旅の供をして彼を守っていた天の使いが、「あなたを旅の間守り、全ての危険から保護するよう、神によって送られた来ました」と旅の出発前に言っていたとすれば、トビアスにとって何の価値もなかったでしょう。だから、その天の使いは旅から戻って来た後に初めてその存在を現したのです。

祈ること-思考の伝達

九、
祈るということは神や霊の加護を求めることです。祈りによって私達は、私達を指導してくれている者と精神的に関係を結ぶことが出来ます。祈ることの目的には、願い、感謝、又は賛美があります。私達自身の為にも、又他人の為にも祈ることが出来ます。生きている者の為にも、又、死んだ者の為にも祈ることが出来ます。神への祈りは、神意に基づいて行動する善霊達に伝わります。善霊に伝わった祈りは、神にも伝わります。神以外の者に向かって祈る時、それらの者は単なる仲介者としての役割を果たします。なぜなら、何事も神の意志なしには生じないからです。

十、スピリティズムは、私達が祈る相手が私達の訴えに応えてくれる時も、祈る相手に私達の考えが伝わる時も、どうやって思考の伝達がなされるのかを教えてくれています。このことは、祈ることに対する私達の理解を深めてくれます。祈ることによって何が起きるのかを理解する為には、空間を埋め尽くす宇宙フルイドの中にある、生きている者、死んでいる者の全ての存在を思い浮かべる必要があります。空間を埋め尽くす宇宙フルイドは、地球上の空間を大気が包み、埋め尽くしているような状態にあります。宇宙フルイドは、意志によって衝撃を与えられると、空気が音を伝達するように思考の伝達の媒体となります。但し、その違いは、空気の振動は制限されたものであるのに対し、宇宙フルイドの振動は無限に広がるということです。ある思考が、地上の人間や、宇宙に存在する何者かに伝わる時、又は、生きた者から死んだ者に伝わる時、或はその反対の場合に、空気が音を伝達するように、宇宙フルイドは連鎖状態となって思考を伝えるのです。
 この連鎖状態のエネルギーは、思考と意志の強さに直接関係があります。これによって、霊がどこにいたとしても祈りは伝わります。又、霊達はお互いに交信し合うのです。同じような方法で、霊達は私達にインスピレーションを伝えてくれるのです。又、私達人間も、これによって遠隔地同士で連絡を取り合うのです。
 この説明を、祈りを単なる神秘と捉え、その効力を理解しない人達の為に送ります。しかし、祈りを物体化する為ではありません。ただ、祈りの効力というものをより理解し易くする為のもので、祈りが直接的に、積極的に物事に働きかける力があるということを知る為なのです。しかし、だからといって、祈りの効力と神の意志が関係ないわけではありません。神は万物に対する最高の正義です。祈りを有効なものとすることが出来る唯一の存在であるのです。

十一、祈りによって人は善霊を引き付けます。善霊は、人が良い決断をするように助ける為、良い考えを閃かせてくれます。それによって、人は困難を乗り越えるのに必要な道徳的な力を受け、正しい道から外れている場合には、正しい道に戻されます。又、誤った行動が引き付ける悪い考えから、自分を遠ざけようとする意志を与えてくれます。何かの過剰な摂取によって健康を悪化させた人がいたとします。死ぬ直前まで過剰な摂取を改めることなく、健康状態が悪いまま苦しい人生を続けたとします。この人は自分の健康が回復出来なかったことに関して、神に対する不満を訴える権利があるでしょうか。ありません。なぜなら、祈りによって、誘惑に耐える力は得ようとすれば得ることが出来ていた筈だからです。

十二、もし、人生の中で出遭う不幸を二つに分類するならば、一つは、人間にとって避けることの出来ないもので、もう一つは、その人自身の不注意や不品行によって起きる苦労から来るもの(→第五章 四)ですが、一般に後者の方がずっと多いことが分かります。人間自身がその苦しみを自ら作っているということは明らかであり、したがって、常に知恵と慎重さを持って生きることが出来れば、苦しみを軽減することが可能であるということが分かります。
 こうした不幸が、私達が神の法に違反することから生まれるというのは確かであり、もしこの神の法を厳重に守ることが出来れば、私達は完全に幸福になれるということも明らかです。私達が生命を維持する為に最低限必要なものを満たしたことに飽き足らず、必要限度を超えて何かを摂取してしまうようなことがなければ、摂取過剰によって引き起こされる病にかかったり、その病がもたらす苦しみに悩まされることはないでしょう。私達の野心を抑えることが出来れば、没落する恐怖を味わうこともありません。私達の能力以上に向上することを望まなければ、落ちぶれることを心配する必要はありません。もし謙虚でいることが出来れば、プライドを傷付けられて失望することはありません。慈善に身を捧げることが出来れば、不満、不服、妬み、嫉妬を感じることもなく、喧嘩や別れを防ぐことが出来ます。誰に対しても悪いことをしないでいることが出来るのであれば、人に恨まれる心配をする必要はありません。
 さて、もう一方に苦しみに対しては、人間は何もすることが出来ず、どのような祈りもそこから解放される為には役に立たないと考えることが出来ます。しかし、そうであったとしても、自分自身の行動に起因する苦しみの全てを避けることが出来るのであれば、それだけでも十分ではないでしょうか。そうした場合には、祈ることとは何であるのか、容易に理解することが出来ます。祈ることの目的は善霊達の道徳的なインスピレーションを引き付けることであり、又行動に移せば私達にとって致命的となり得る悪い考えに抵抗するのに必要な力を得ることなのです。そうした目的が果たされるように、善霊達は苦しみを私達から遠ざけてくれるのではなく、苦しみを生じさせるような悪い考えから私達を遠ざけてくれるのです。善霊達は、神の意向を妨げることはありません。自然の法則の流れを遮ることはありません。反対に、私達の自由意志を指導しながら、私達が神の法を破ることを禁じるのです。しかし、私達が気が付かぬ間に、目には見えない形で、私達が苦しみを避けようとする意欲を失わないように、それを行います。その時人間は、良い忠告を求め、それを実行しようとする姿勢にありますが、同時にその忠告に従うか否かを選択する自由を有しています。神はそのように、人間がその行動に対する責任を持つことを望み、善か悪かの選択をした後、それによって得たものの真価がその人に理解されることを望んでいます。祈りの結果は、人間が熱烈に求めた時には、いつも得ることが出来るのです。つまり、「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」という言葉がそこに当てはまるのです。
 祈りの効果というものが、私達を悪い考えから遠ざけてくれることだけに限られていたとしても、非常に大きな結果をもたらすことになるのではないでしょうか。物質世界と霊の世界の関係を明らかにすることによって祈りの効果を証明することは、スピリティズムに課された役割です。しかし、実際の祈りの効果は私達を悪い考えから遠ざけてくれるだけではありません。
 祈りは全ての霊によって勧められています。祈りを放棄することは、神の好意を無視することです。神の加護を自分から拒むことであり、又、他人に対して行うことの出来る善い行いを拒むということです。

十三、神は、神に向かって祈る者に応える時、多くの場合、祈る者の意向、献身、信仰に報いることを望みます。だからこそ、善い人の祈りの方が神の目にはより値打ちがあるものに映り、その祈りはより強い効力を持つのです。なぜならば、悪意を持つ邪な者は、本当に信心深い者だけが感じることが出来る信頼と熱意をもって祈ることは出来ないからです。自己中心的で、口先だけの祈りを唱える者からは、単なる言葉しか出て来ず、祈りに力をもたらす慈善の気持ちが生まれてくることはありません。ですから、私達が誰かに祈ってもらうとすれば、神を喜ばすことの出来そうな行いの善い人に本能的に頼むだろうということは明らかです。なぜなら、そうした祈りの方が神にはよく聞き入れてもらえるからです。

十四、祈りとは一種の磁気的な力の働きなので、その効力はその人の持つフルイドの力によって変化すると仮定することが出来るかもしれません。しかし、そうではありません。霊達は、人間の祈りに応える時、その祈る者にとって不足しているものを必要に応じて補うのです。それは、そのようにすることがその人にとって有益であり、そうした恵みを受けるに値すると判断された時であって、霊達はその人に代わって直接的に働きかけたり、一時的に特別な力を与えたりするのです。
 健全な影響を他人に与えるにはまだ自分の善さは不十分だと考える者は、どうせ聞いてもらえないだろうと考えて、他人の為に祈ることを忘れてしまうようなことになってはいけません。自分の劣等を自覚することは謙虚であることの証拠であり、それはいつも神を喜ばせることになります。そして神はいつもそうする者の慈善的な志を汲んでくれます。神に寄せる信頼と熱意は、善へ向かう為の第一歩です。そして善霊達も、喜んでそのような方向へ私達を向けようとするのです。自分の権力や価値しか信じることが出来ず、それが永遠の神の意志を超えるものだと考えるプライドの高い者の祈りは、拒絶されます。

十五、祈りの力とは、思考の中にあるもので、祈りに使う言葉、祈る場所、祈る時間とは全く関係がありません。ですから、いつでも、どこでも、一人でも、又大勢でも祈ることが出来ます。場所と時間は、単に黙想する為の環境に影響を与えるものです。どんな祈りも、祈る全ての者が、同じ目的で同じ考えを持ち、心を一つにした時、より高い力を持つことになります。そうすることは、ユニゾンで声を揃えて歌うようなものだからです。しかし、一人一人が個別にその人自身だけの為に祈るのであれば、大勢で集まることがどれほど重要であり得ましょうか。百人集まって、それぞれが利己的に祈る一方で、二、三人が息を合わせて真なる神の子の兄弟のように祈れば、その祈りは百人の祈りよりもずっと強いものとなるでしょう(→第二十八章 四、五)。

理解出来る祈り

十六、もし、言葉の意味を理解していないのであれば、語っている人にとって私は異国人であり、語っている人も私にとっては異国人です。
 もし、私が誰も知らない言葉で祈るのであれば、私の霊は祈っていることになりますが、私の知性は実を結びません。
 あなたが、あなたの霊において神を賛美しても、あなたの言っていることが分からないのであれば、初心者の席にいる人達は、どうしてあなたの感謝の言葉に合わせ、「アーメン(そうでありますように)」と言うことが出来るでしょうか。あなたの感謝は伝わりますが、他の人の徳を高めることにはなりません。(第一コリント 第十四章 十一、十四、十六、十七)

十七、祈りは、その祈りを形成している考えによってのみ、その価値が決まります。理解出来ない考えに意を傾けることは出来ません。なぜなら、理解出来ない考えというのは心に響かないものだからです。多くの人が捧げる、理解していない言葉による祈りというのは、霊には何も訴えることのない、ただの言葉の羅列に過ぎないのです。祈りが心に響くには、一つ一つの言葉がある考えを映し出していなければなりません。もし、一つ一つの言葉を理解出来ないのであれば、どんな考えをも映し出すことは出来ません。祈ることの利点が単に繰り返しの回数に比例すると考え、簡単な決まり文句のように何度も唱え返す人がいます。多くの人は義務として祈ります。又、単に習慣として祈る人もいます。決められた順番で何回か祈りを繰り返すことによって、義務から逃れることが出来ると考えるからです。しかし、神は人の心の底を読み、私達の思考や誠意を知るのです。それ故、神が祈りの根底にある意味よりも、祈りの形に拘ると考えることは、神を卑しめることになるのです(→第二十八章 二)。

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