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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第19章

第十九章 山をも動かす信仰

信仰の力

宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件

枯れたいちじくの木の話

◆霊達からの指導

信仰-希望と慈善の母

人間的な信念と神への信仰

信仰の力

一、イエスが民衆に会いにやって来ると、一人の人が近寄り、ひざまずいて言った、「主よ、私の子に慈悲を。てんかんにかかってとても苦しんでおり、火の中や水の中に何度も倒れるのです。あなたの使徒達のところへ連れて行きましたが、彼等には治すことは出来ませんでした」。するとイエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲がった時代でしょう。いつまで、私はあなた方と一緒にいることが出来るのでしょうか。いつまであなた達に我慢が出来るのでしょうか。その子をここに、私のところに連れて来なさい」。イエスが悪霊を脅すと、悪霊は子供から出て行き、その瞬間子供は健康になった。使徒達は密かにイエスのもとへ行き、尋ねた、「どうして私達はその悪霊を追い払うことが出来なかったのですか」。イエスは答えて言われた、「あなた達の不信仰のせいです。誠に言います、からしの粒程の信仰があれば、この山に向かって『あちらへ動け』と言えば動き、何も不可能なことはなくなります」。
(マタイ 第十七章 十四-二十)

二、ある意味では、自分自身の力に対する信念が物質的なことの実現を可能とさせるのであって、自分自身を疑う者はそれを実現出来ないというのは真実です。しかし、ここでは道徳的な意味においてのみ、これらの言葉を解釈するべきです。信仰が動かす山とは、困難、抵抗、やる気のなさ、要するに、善いことに向かう時にさえも人間の間に現れるもののことです。日常の偏見、物質的な関心、エゴイズム、狂信の盲目、誇り高き感情などは、どれもが人類の進歩の為に働く者の道を遮る山の数々です。強固な信念は、忍耐力や、小さなものであれ大きなものであれ、障害に打ち勝つエネルギーを与えます。不安定な気持ちは不確実さや、躊躇を生み、打ち勝たねばならない敵対者達に利用されてしまいます。こうした不安定な気持ちは、打ち勝つ手段を求めることもありません。なぜなら、打ち勝つことが出来ることを信じないからです。

三、別の解釈によれば、信念とは、あることを実現出来ると信じること、ある特定の目的を達成する確信、と理解されます。それはある種の明晰さをもたらし、それによって思考の中で、そこまで辿り着く為の手段や達成しなければならない目標を見ることを可能にさせるが為、それを持って歩む者は、言うならば全く安心して歩むことが出来るのだと言うことが出来ます。いずれの場合であれ、偉大な事柄の実現を可能にします。
 誠実で真実なる信念は常に平静です。知性と物事の理解に支えられ、望む目的に到達する確信がある為に、待つことを知る忍耐をもたらします。ぐらついた信念はそれ自身の弱点を感じています。関心がそれを刺激すると、怒りっぽくなり、暴力によって自分に足りない力を補おうとします。戦いにおける平静は常に力と自信の証です。反対に暴力は弱さと自分自身に対する不安を表しています。

四、信念と自惚れを混同してはいけません。真なる信念は謙虚さを伴います。真の信念を持つ者は自分自身よりも神をより信頼しており、なぜなら自分自身は神意に従う単なる道具であり、神なしには何も存在し得ないことを知っているからです。こうした理由から、善霊達がその者を助けにやって来ます。自惚れでは、自尊心が信仰を上回っており、自尊心はそれを持つ者に課された失望や失敗によって遅かれ早かれ、罰せられることになります。

五、信仰(信念)の力は磁気的な動きによる直接的で特別な形でその姿を示します。宇宙的動因であるフルイドに対して人間はその仲介として作用し、その性質を変化させ、いわば抑えようのない衝撃を与えます。そのようなことから、普通のフルイドのある大きな力に熱心な信仰が結び付き、善に向けた意志の力のみによって治療のような特別な現象を引き起こすことになります。それらは昔は奇蹟として扱われましたが、自然の法則の結果に過ぎないのです。こうした理由により、イエスはその使徒達に言ったのです。「治すことが出来なかったのは、信仰がなかったからです」。

宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件

六、
宗教的な視点では、信仰とは、様々な宗教を組織させたある特別な教義を信じることから成り立っています。どの宗教にもその信仰の対象というものがあります。この点において、信仰は理性的でも盲目的でもあり得ます。何も検証することなく、真実と偽りを確かめたりせずに、盲目的な信仰はそれを受け入れ、一歩歩む度に立証や理性と衝突します。それが過剰になると狂信を生みます。誤りの上に立っていると、遅かれ早かれ崩壊します。真実に基づく信仰のみがその未来を保証することが出来ます。なぜなら、人々の啓発に対する恐れが全くないからであり、闇の中で真実たるものは光の中でも真実であり続けるからです。どの宗教も排他的な真実の主となろうとします。ある信仰のある部分を誰かに盲目的に信じるように教えることは、その信仰が理に適っていることを示すことが出来ないと告白するのと同じことです。

七、一般に信仰というものは他人に示しようがないと言われますが、その為に、信仰がないことには責任がないと言う多くの人の言い訳を生んでいます。確かに信仰は他人に示しようがありませんし、ましてや強要することは不可能です。そうです、信仰は獲得するものなのであり、最も頑固な者でさえも、信仰を持つことが許されていない者はいないのです。私達が述べているのは霊的な真理の基本的なことについてであり、ある特定の信仰に関してどうこう言っているのではありません。信仰が人々を探し求めるのではないのです。信仰に出会うことが出来るように、人々が誠実に求めれば、それに出合えないことはないでしょう。故に、「信じること以上に善いものを私達は望まないが、それが出来ないのだ」と言う人々は、それを心の底からではなく口先だけで言っているのだということを確信し、そういう言葉を聞いたら耳を塞いでください。しかし、そうした人の周りには証が雨のように降り注いでいます。それに気付くことが出来ないのでしょうか。
 一部の人達はそれを無視しています。他の人達は習慣を変えなければならなくなることを恐れています。大半の人達には自尊心があり、自分達より優れた存在を認めることを否定するのです。なぜなら、そうした存在の前に頭を下げなければならなくなるからです。ある人達にとって信仰は、生まれつきのものであるかのように見えます。火の粉程の信仰さえあれば、それを発展させることが出来ます。霊的な真理を受け入れることに対するこうした容易さは、前世における進歩の明らかな証拠です。他の人達にとってはその反対で、そうした真理が入り込みにくく、それは同様に遅れた性格を示す明らかな証拠です。前者の人々は既に信じ、理解しました。再生した時には既に知ったことを直感的に持ち合わせて来ているのです。彼等は既に教育されています。後者の人々は全てを学ばなければなりません。これから教育を受けなければなりません。しかしそれを行い、現世の内に終了出来なければ、次の人生においてそれを行うことになるのです。
 信仰のない者の抵抗は、多くの場合、その人自身よりも、物事のその人に対する示され方から来ているということに私達は同意しなければなりません。信仰には基礎が必要であり、その基礎とは信じようとする者の知性です。そして、信じる為には見るだけでは足りません。何よりも理解することが必要なのです。盲目的な信仰は、最早今世紀のものではなく、それ故に盲目的な信仰を教える教義が今日、不信仰な人々を多く生み出しているのです。なぜなら、そうした教義は強要によって、人類の最も大切な特権である理性と自由意志の放棄を命ずるからです。不信仰な人々は主にこうした信仰に対して反抗するのであり、これに関して言えば、全く信仰とは説明し得ぬものだと言うことが出来るでしょう。そうした教義は証拠を認めない為に、心の中に何か曖昧なものを残し、そこから疑いが生まれます。理性的な信仰は、理論と事実に支えられ、いかなる曖昧さも残すことはありません。つまり人間は、確かだと思うから信じるのであり、誰も理解することなしに確かさを感じることは出来ません。理解出来ない為に屈服しないのです。揺るがぬ信仰とは唯一、人類のいつの時代においても理性に対して真正面から向き合うことの出来る信仰のことです。
 スピリティズムはこうした結果を導くことで、意図的、もしくは制度的な反対がない限り、いつも不信仰な者に対して勝利を収めるのです。

枯れたいちじくの木の話

八、ベタニアから出かけて来た時、イエスは空腹を覚えられた。そして、遠くにいちじくの木をご覧になって、何かありはしないかと近寄られたが、いちじくの季節ではなかった為に葉しかなかった。するとイエスは、いちじくの木に向かって言われた、「これから先、誰もお前から果実を食べることはないだろう」。使徒達はそれを聞いていた。
 次の日、いちじくの木の近くを通ると、根まで枯れているのを見た。そこでイエスが言ったことを思い出すと、ペトロは言った、「先生、あなたが呪われたいちじくの木がどうなったか見てください」。イエスはその言葉を聞くと答えて言われた、「神を信じなさい。誠に言いますが、言葉にしたことは全て起きると強く信じ、そこをどき、海へ落ちよと、この山に心からためらうことなしに言う者は、実際にそれが起きるのを目にすることになるでしょう。
(マルコ 第十一章 十二-十四、二十-二十三)

九、枯れたいちじくの木とは、見た目には善に関心があるように見えながらも、実際には善いものを生まない人達の象徴です。堅実さよりも華々しさを持った説教者のように、その言葉の表面は虚飾に覆われており、それを聞く耳を喜ばすことは出来ても、詳細について吟味してみると、心にとって本質的な意味を何も持たないことが分かります。そして私達は、聞いた言葉の中から何を役立てることが出来るのだろうかと問い直すことになるのです。
 同時に、有益な存在となる手段を持ちながら、そうなっていない人々のことをも象徴しています。堅実な基礎を持たないあらゆる空想、無益な主義、教義がそれに当てはまります。殆どの場合、そこには真なる信仰である、生産性のある信仰、心の隅々をも動かす信仰が不足しています。その信仰とは一言で言うなら、山をも動かす信仰のことです。そうした信仰の欠けた人々は、葉に覆われながらも果実に乏しい木のようです。だから、イエスはそうした木を不毛であると言い渡したのであり、いつかそれらは根まで乾いてしまうものなのです。つまり、人類にとって何の善ももたらすことのないいかなる主義も、いかなる教義も、没落し、消滅するということを指しています。自分の持つ手段を働かせないことにより無益と判断された人々は皆、枯れたいちじくの木と同じように扱われるでしょう。

十、霊媒とは霊の通訳者です。霊達にはその指導を伝える為の物質的な器官はありませんが、霊媒がそれを補うのです。このように、こうした目的の為に使われる能力を持った霊媒が存在します。社会が変革しようとしている今日、彼等には非常に特別な使命があります。それは、同胞達に霊的な糧を供給する木となることです。糧が十分であるように、その数は増えていきます。あらゆる場所、あらゆる国、あらゆる社会階級の中に、裕福な者の間にも貧しい者の間にも、偉大なる者の間にも小さな者達の間にも現れ、その為どの場所にも不足することがなく、人類の全ての者が招かれていることが示されるのです。しかし、もし彼等が、託されたその貴重な能力を神意による目的から外れたことに用い、不毛なことや、有害なことに使用するのであれば、或は、世俗的な利益に仕える為に用いたり、熟した実の代わりに悪い実を結ばせ、それを他人の益の為に用いることを拒んだり、自分達を向上させようとそこから自分達の為に何かの利益も得ることもないのであれば、彼等は枯れたいちじくの木であるのです。神は彼等の中で不毛となった力を奪います。そして実を結ばせることを知らない種が、悪い霊達の間に捕まってしまうのを許すのです。

霊達からの指導

信仰-希望と慈善の母

十一、
有益になる為には、信仰は活動的にならなければなりません。それを無感覚にしてしまってはいけません。神へ導くあらゆる美徳の母は、それが生み出した子供達の成長を注意深く見守らなければなりません。
 希望と慈善は信仰から派生しますが、信仰と共に分離不可能な三位となります。主の約束の実現の希望を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たずに、何を期待することが出来るでしょうか。愛を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たぬのであれば、あなたの価値やその愛は何でありましょうか。
 神性の発露である信仰は、人間を善へ導くあらゆる高尚な本能を目覚めさせます。信仰は更生の基礎です。必要なのは、この基礎が強い持続性を持つことです。というのも、もし、ほんの小さな疑いによってその基礎が動揺してしまうとしたら、その上に築いたものはどうなると考えますか。だから、揺るぎない基礎の上にその建物を築いてください。あなた達の信仰は不信仰の者達の詭弁や冷やかしよりも強くなければなりません。もっとも、人間の嘲笑に対抗出来ない信仰は、本当の信仰とは言えません。
 誠実な信仰は人の心を捉え、影響力を持っています。信仰を持たなかった者や、信仰を持ちたくないと考える者の心に訴えます。それは魂に響く、説得力のある言葉を持ち、一方で見せかけだけの信仰は、聞く者を無関心にし、冷たくしてしまうように響く言葉を使います。あなたの模範によって信仰を説き、人々に信仰を吹き込んでください。あなた達の事業の模範によってそれを説き、信仰の真価を示してください。あなたの不動の希望によってそれを説き、人生のあらゆる苦しみに立ち向かうことが出来るように人間を強くしてくれる確信を示してください。
 だから美しく善い、純粋で合理性を持った内容に信仰を抱いてください。盲目から生まれた目の見えない娘である、証明のない信仰を認めてはなりません。神を愛してください。しかし、なぜ愛するのかを知って愛してください。その約束を信じてください。しかし、なぜそれを信じるのか知って信じてください。私達の忠告に従ってください。しかし、私達が指摘する事柄やそれを成し遂げる為の手段について納得した上で従ってください。信じ、無気力になることなく待ってください。奇蹟は信仰のなす業です。(守護霊ヨセフ ボルドー、1862年)

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