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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第15章

第十五章 慈善なしには救われません

霊が救われる為に必要なこと 善きサマリア人の話

最大の戒め

聖パウロによる慈善の必要性

教会なしには救われません。真実なしには救われません

◆霊達からの指導

慈善なしには救われません

霊が救われる為に必要なこと 善きサマリア人の話

一、人の子がその尊厳によって、全ての天使達に伴われて来る時、彼はその栄光の座に就くでしょう。そして、全ての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼等を選り分け、羊は右側に、山羊は左側に置くでしょう。その時王は、右側にいる者達に向かって言うでしょう、「私の父に祝福された者達よ、世の初めからあなた達の為に準備された王国を手に入れなさい。なぜならば、私が飢えていた時には食料をくれ、喉が渇いていた時には飲み物をくれ、宿を失った時には宿を貸してくれ、裸でいた時には衣服を着せてくれ、病んでいた時には訪ねてくれ、投獄されていた時には私に会いに来てくれたからです」。すると、正しい者達は言うでしょう、「主よ、いつ私達が、あなたが飢えていた時に食料を与え、喉が渇いている時に飲み物を与えたというのでしょうか。いつ私達が、あなたが宿を失ったのを見て宿を貸し、裸の時に衣服を与えたというのでしょうか。そしていつ、あなたが病んでいたり投獄されていることを知り、訪ねて行ったというのでしょうか」。すると王は答えるでしょう、「誠に言います。私の最も小さい兄弟に対してそれらのことを行った時、それはいつも私に対して行ったのと同じです」。続いて左側にいる者達に言うでしょう、「邪魔な者達よ、私の側から離れなさい。悪魔とその使いの為に準備された永遠の炎の中に入ってしまいなさい。なぜなら、私が飢えていた時、食べる物をくれず、喉が渇いた時、飲み物をくれず、宿が必要であった時、宿を貸さず、服を纏っていなかった時、衣服を着せず、病み、投獄された時、私を訪れてくれなかったからです」。すると彼等は答えるでしょう、「主よ、いつ私達は、あなたが飢えているのを見て食料を与えず、喉が渇いているのを見て飲み物を与えず、衣服もなく、宿もなく、病み、投獄されているのを見てそれを助けなかったというのでしょうか」。すると彼は答えて言うでしょう、「誠に言います。これらの最も小さい者達に対する救済を行わなかったのは、すなわち、私自身に対して救済を行わなかったのです」。そしてそれらの者は永遠の苦悩へと行き、正しい者達は永遠の命へと行くのです。
(マタイ 第二十五章 三十一-四十六)

二、するとそこへ、ある律法学者が現れ、彼を試そうとして言った。「先生、永遠の命を得る為には何をすればよいのでしょうか」。イエスは彼に答えて言われた、「律法には何と書いてありますか。どのように読むことが出来ますか」。彼は答えて言った、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。するとイエスは言われた、「大変よく答えました。そのように行えば、永遠の命を得ることが出来るでしょう」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った「私の隣人とは誰のことですか」。イエスはその言葉を聞いて、彼に言われた、「エルサレムからエリコへ向かっていたある男が泥棒に捕まってしまい、泥棒はその男から盗み、男を傷だらけにし、瀕死の状態にしたまま去って行った。すると、そこへ司祭が同じ道を通ってやって来たのだが、その男を見ると、向こう側を通って行った。次にレビ人がやはりその場所を通ったが、その男を見ると、やはり向こう側を通って行った。しかし、旅をしていたサマリア人が、その男が横たわっているのを見て憐れに思い、その男に近付くと、油とワインを傷口に塗ってその手当をし、その後自分の馬に乗せて宿に連れて行き、その男の看病をした。翌日、『この男の面倒をよく見てください。お金が足りなかったら私が戻った時に支払います』と言って、二デナリオの金を宿主に渡した。この三人の内、誰が泥棒に捕まった男の隣人でしょうか」。律法学者は答えた、「彼に対して慈悲をかけた者です」。するとイエスは言われた、「それならば、行って、同じことを行いなさい」。(ルカ 第十章 二十五-三十七)

三、イエスの道徳の全ては慈善と謙虚さに要約されています。すなわち、エゴイズムと自尊心に相反する二つの美徳です。イエスの全ての教えの中には、永遠の幸福に導くこれら二つの美徳が示されています。「魂の貧しい者、すなわち謙虚な者は幸いです、なぜなら天の国は彼等のものだからです」と言いました。「心の清い者は幸いです」「柔和で平和をつくる者は幸いです」「慈悲深い者は幸いです」「あなた達と同じようにあなた達の隣人を愛しなさい」「自分にして欲しいと思うことを他人にしてあげなさい」「あなた達の敵を愛しなさい」「赦されたいのであれば、あなたに対する攻撃を赦しなさい」「見せびらかすことなく善を行いなさい」「他人を評価する前に自分自身を評価しなさい」。謙虚さと慈善こそ、イエスが私達に勧め、また彼自身が模範を示したものです。自尊心とエゴイズムこそ、戦い続けなければならないものです。また、慈善は勧められるだけではありません。明白に、はっきりとした言葉を用いて、未来における幸福の絶対的な条件として示されています。
 最後の審判を描いた場面の中でも、その他の多くの場面でそうであるように、単なるたとえ話として表された部分を区別しなければなりません。イエスが話をした人達のような、未だに純粋で霊的な問題を理解することの出来ない人達に、イエスは、印象的で衝撃的な具体的イメージを与えなければなりませんでした。イエスの言うことを彼等がより良く学ぶ為には、形の上で当時の考え方からあまり遠ざからないものとしなければならず、イエスの言葉や、明白に説明することが出来なかった部分の真なる解釈については、後世に残す必要があったのです。しかし、その説明の象徴的なたとえや装飾的な部分に沿ってある考えが支配しています。すなわち、正しい者に用意された幸福と悪い者に用意された不幸の考えです。
 その最高の審判における判決の理由は何なのでしょうか。訴訟書は何に基づいているでしょうか。審判者は果たして、取り調べられる者があれこれのしきたりを重んじたかとか、あれこれの行いを守ったかなどと尋ねているのでしょうか。いいえ、そのようなことは尋ねていません。たった一つのことしか尋ねていないのです。それは、慈善を行ったかどうか、ということだけであり、次のように判定されたのです。「あなた達の兄弟を助けた者は右へ行きなさい。彼等に対して冷たく対応した者は左に行きなさい」。ところで、ここで信仰の正統性について述べているでしょうか。ある方法で信じる者と、別の方法で信じる者との区別をつけているでしょうか。いいえ。イエスはサマリア人を、異教徒と考えられていたにもかかわらず隣人愛を実践する者として、慈善の欠ける正統派よりも上位に位置付けています。すなわち、慈善を単に救いの条件の内の一つとしているのではなく、唯一の条件であるとしているのです。もしその他の条件があったのであれば、イエスはそれについて述べていた筈です。慈善を第一位に置くのは、それが暗黙の内にその他の全てのことを含んでいるからです。すなわち、謙虚さ、優しさ、善意、寛大さ、正義などです。なぜなら、それは自尊心とエゴイズムの絶対的な否定であるからです。

最大の戒め

四、さて、イエスがサドカイ人達を黙らせられたことを聞いたファリサイ人達は、一団となって集まった。その内の一人は律法学者であったが、イエスを試そうとして尋ねた、「先生、律法の内で最大の戒めとは何ですか」。イエスは答えられた、「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これが最も大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。全ての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また預言者も同様です」。
(マタイ 第二十二章 三十四-四十)

五、慈善と謙虚さ、それらが救済の唯一の道です。エゴイズムと自尊心、それらは破滅の道です。この原則は次の簡潔な言葉の中に明確にされています。「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい。あらゆる法も預言者達もこれらの二つの戒めを守らなければならないとしています」。そして、神への愛と隣人への愛の解釈に間違いがないようにする為、次のように付け加えています。「ここに第一の戒めと同等の第二の戒めがあります」。つまり、隣人を愛することなく神を本当に愛することも出来なければ、神を愛することなく隣人を愛することも出来ないのです。隣人に対する慈善を行うことなく神を愛することは出来ないのですから、人間のあらゆる義務は次の金言に要約されることになります。「慈善なしには救われません」。

聖パウロによる慈善の必要性

六、たとえ私が、人類の持つ全ての言語を話せたとしても、天使の言葉を話そうとも、私に慈善がないのであれば、音を立てる銅鑼(どら)かシンバルと同じです。たとえ私に、あらゆる神秘を解き明かすことの出来る預言の才があったとしても、また、あらゆる物事に対する知識を持っていたとしても、また山をも動かす程の信心を持っていたとしても、私に慈善がないのであれば、私は何者でもありません。また、貧しい者に食べ物を与える為に私の財産を施し、私の身体を焼かれる為に捧げようとも、慈善がないのであれば、それら全ては私にとって何の役にも立ちません。
 慈善は寛容であり、情け深い。慈善は嫉妬深くありません。高ぶったりはしません。自尊心に満ちることもありません。不作法をしません。自分の利益に囚われません。腹を立てることもなければ、何に対しても怒ることがありません。悪いことかと疑わせることはありません。真実に喜ぶことはあっても、不正に喜ぶことはありません。全てに耐え、全てを信じ、全てを待ち、全てを受け入れます。
 さて、信心、希望、慈善という、いつまでも存続する三つの美徳があります。しかし、その中で最も素晴らしいものが慈善です。
(パウロ 第一コリント 第十三章 一-七、十三)

七、このように聖パウロはこの偉大なる真理を理解したのです。「天使の言葉を話そうとも、あらゆる神秘を解き明かすことの出来る預言の才があったとしても、山をも動かす程の信心を持っていたとしても、私に慈善がないのであれば、私は何者でもありません。信心、希望、慈善という三つの美徳の内、最も素晴らしいものが慈善です」。間違いなくこのように、慈善を信心にも勝って位置付けています。慈善はあらゆる人の手の届くところにあるからです。
 つまり、無知な者から、賢者、裕福な者、貧しい者まで、特別な信仰とは全く関係なく、誰の手にも届くのです。更に、真なる慈善を定義し、善行の中ばかりではなく、隣人に対する善意と慈悲心、心のあらゆる特性の中でそれを示しています。

教会なしには救われません。真実なしには救われません

八、
「慈善なしには救われません」という金言が、全世界的な原則として、神の子全てに至上の幸福への扉を開いている一方で、「教会なしには救われません」という教理は、根本的な神に対する信仰と魂の不滅に基づいているのではなく、全ての宗教に共通な、ある特定の教理に対する特別な信仰に基づいています。それは絶対的で排他的なものです。神の子を一つに統合するどころか、分裂させてしまいます。兄弟達に対する愛を刺激する代わりに、家族や仲間同士であるにもかかわらず、お互いを永久に極悪と考え、それぞれの異なる宗派に苛立ちを植え付け、けん制させ合います。墓を前に全てが平等であるという偉大なる法を無視し、これらの教理はお互いを、休息の場所においてさえも反発させます。「慈善なしには救われません」という金言は、神の前の平等という原則と良心の自由を神聖化しています。それを規則とすることにより、人類は皆兄弟であり、創造主を崇拝する方法がどうであろうとも、手を差し出し合い、お互いに祈り合うことが出来るのです。「教会なしには救われません」という教理によれば、お互いが罵り迫害し合い、敵同士として生きることになってしまいます。お互いが容赦することなく非難し合っている為に、父親が息子の為に願ったり、息子が父親の為に願ったり、友人が友人の為に願ったりすることが出来ません。つまり、福音の法とキリストの教えとに根本的に対立する教理なのです。

九、「真実なしには救われません」も、「教会なしには救われません」と同じで、真実という特権を主張しない宗派が存在しないことから、やはり排他的であると言えます。毎日、知識の領域は絶え間なく広がり、考えは改まっていくというのに、どんな人間に、全てを所有していると自慢することが出来るというのでしょうか。絶対の真実はより高い分類の霊達だけに所属し、地上に生きる人類にはその所有を主張することは出来ません。なぜなら、人類は全てを知るようには出来ていないからです。人類は単に、相対的でその進度相応の真実を熱望することしか出来ません。もし神が、絶対的な真実を得ることを、未来における幸福の条件と明示していたならば、その一般的な規則を唱えていた筈であって、一方で、慈善はその最も広い意味においては誰にでも実践することが出来るものなのです。スピリティズムは福音に従って、どんな信仰とも無関係に、神の法が守られる限り誰に対する救済をも認め、「スピリティズムなしには救われません」と言うことはありません。又、未だに真実の全てを教えると主張するようなことは出来ない為、「真実なしには救われません」と言うこともありません。なぜなら、これらの教えは敵対する者達を、統合し永続させる代わりに分裂させてしまうからです。

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