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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第13章

第十三章 右手が行うことを左手に知られてはなりません

見せびらかすことなく善を行うこと

見えざる不幸

やもめの寄付

貧しい者、身体の不自由な者を招くこと。見返りを求めずに与えること

◆霊達からの指導

物質的な慈善と道徳的な慈善

善行

慈悲

孤児達

感謝されない善行

排他的な善行

見せびらかすことなく善を行うこと

一、人々に見てもらおうと、人前で善を行うことがないように気を付けなさい。なぜなら、そうしないと、天の父からの報いを受けることは出来ないからです。
 人に施しを与える時には、偽善者達が路上や神殿でしているように、人に褒められようとして、そのことを言い触らしてはなりません。誠に言いますが、彼等は既にその報いを受け取っているのです。施しを与える時には、右手が行うことを左手に知られてはなりません。そうすれば、その施しは誰にも知られないものとなり、あなた達の父は、密かに行われていることを見て、あなた達に報いを与えてくださるのです。
(マタイ 第六章 一-四)

二、イエスが山から下りて来られると、大勢の人々がその後を追った。その時ハンセン病を患う者がイエスに会おうとやって来て、イエスを讃えながら言った、「主よ、もしあなたがそう望むのであれば、私の病を癒してください」。イエスは手を伸ばすと彼に触れて言われた、「私はそれを望みます。病が癒されますように」。すると、ハンセン病の症状が消えた。そして、イエスは彼に言われた、「誰にもこのことを言ってはなりません。しかし、祭司達にあなたの姿を見せ、モーゼによって教えられた恵みを捧げ、人々に証明しなさい」。(マタイ 第八章 一-四)

三、見せびらかすことなく善を行うことには大きな価値があります。与える手を隠すことは更に価値のあることです。それは確実な道徳的優位性の証ですが、というのも、一般世間より高いところからもたらされるものに対して目を向けるということは、今生から自分を切り離し、来世に身を置くことが必要となるからです。一言で言うならば、人類の上に身を置き、人間の証言によって得られる満足を棄て、神に認められるのを待つことです。神にではなく、人々に認められることを好む者は、神にではなく人々の方を信じているということであり、未来における生活よりも、現世により価値を置いているということになります。もし、そんな筈はない、と言うのであれば、自分の言っていることと信じていることが違っていることになります。
 与えたものを受け取った者が、その恩恵を声を大にして言い触らしてくれることが期待出来なければ、人に与えない人がどれだけいることでしょうか。公の場では多くを与えながらも、隠れた場所では小銭一枚さえも与えない人がどれだけいるでしょうか。だからこそ、イエスは言ったのです。「人に見せびらかすように善を行った者は、既にその報いを受け取っているのです」。真に、善行によって自分自身の栄光を地上に求める者は、既に自分に対してその支払いを行っているのです。その人に対して、神は最早何も負うものがありません。その人にはただその自尊心への罰が残されているのです。
 右手が行うことを左手に知られてはなりません、という言葉は、謙虚な善行の特徴を見事に示しています。しかし、真の謙虚さが存在するとすれば、偽りの謙虚さ、見せかけの謙虚さも存在します。与える手を隠しながらも、そのほんの一端だけが見えるようにしておき、周りを見回し、それを隠すのを誰かが見てくれているかどうかを気にかける人がいます。これはキリストの金言の恥ずべき物真似です。自尊心の強い善行者が、人間の間でさえもその価値を下げられてしまうのであれば、神の前でもそうではないでしょうか。このような人々も地上において既にその報いを受けているのです。人々に見られることにより、彼等は満足しているのです。彼等が受け取ることが出来るのはそれが全てなのです。
 では、善行の恩恵の重さを、それを受ける人に負わせ、恩恵を受けていることを認識していることの証を示すことを強要し、その置かれた立場を意識させ、恩恵を与える為に支払われている犠牲の大きさや、その値段の高さを自慢する人々は、どのような報いを受けることが出来るでしょうか。おお、こうした者からは、その自尊心に対する最初の罰として、その名前を人々に祝福され口にしてもらう機会さえも奪われ、地上における報いを受けることは出来ません。虚栄心の為に乾かされた涙は、天に昇っていくのではなく、恩恵を受ける立場にある苦しむ者の心に再び落ち、その心を痛めることになります。このようにして行われた善からもたらされる益は何もなく、自尊心の強い善行者はそのことを嘆くことになりますが、嘆き悲しまれた恩恵とは、偽りの、価値のない貨幣でしかありません。
 見せびらかすことなく行われた善行には二重の価値があります。受ける人の感受性を守るのであれば、受ける人は人間としての威厳を保ち、自分自身に対して不快を感じることなく恩恵を受けることが出来、そうであるならば、その善行は、物質的な慈善であるばかりでなく、道徳的な慈善でもあります。というのも、ある仕事による対価を受け取ることと、施しを受け取ることでは大いに違うからです。一方、仕事を施しの形に変えることは、その方法によっては、恩恵を受ける者を侮辱することであり、他人を侮辱する時、そこには常に自尊心と悪意が存在します。真なる慈善は、それとは反対に、善行を隠したり、気を悪くさせる可能性のある最も小さなことさえも防ごうと細やかに気を遣い、工夫を凝らさなければなりません。なぜなら、どんな小さな道徳的な不和でさえも、必要以上に問題を大きくすることになるからです。自尊心の強い者の慈善は受ける人を圧迫しますが、真なる慈善は温和で優しい言葉を見つけ、それによって受ける人を、善行を働く者の前に気楽にさせます。本当の寛大さは崇高で、善行者は自らの立場を逆にし、善を働く相手の前に自分が受益者であるのだと感じる方法を知っています。これが、「右手が行うことを左手に知られてはなりません」ということの意味なのです。

見えざる不幸

四、
大きな災害の時には、災害から復旧する為の感情に駆られ、寛大な衝動に満ちた慈善を見ることが出来ます。しかし、こうした一般的な災害と並行して、人目につくことのない幾千もの個人的な災害が発生しています。これらの見えざる目立たない不幸は、救済を求めることを待たずに、真の寛大さによって見つけ出されるものです。
 きちんとした簡素な衣服に身を包み、同じように質素な服装をした女の子を連れたその品の良い女性は誰でしょうか。あるみすぼらしい家へ入って行きますが、勿論そこの住人のことを知っているのでしょう、玄関で丁寧に挨拶をしています。彼女はどこへ行くのでしょうか。子供達に囲まれたある母親が横たわる屋根裏まで上がっていきます。彼女がやって来ると、そこにいる者達の痩せた顔に喜びの笑みがこぼれます。彼女はそこにいる者達の苦しみを和らげに行ったのです。彼女は優しく心休まる言葉と共に、彼等が必要としている物を持って来ましたが、その言葉は、乞食ではない彼等が、恥ずかしいと感じることなくその善意を受け止めることが出来るようにします。父親は入院しており、その間、母親は労働によって家族の必要としている物を賄うことが出来ないのです。この女性のお陰でその可哀想な子供達は寒さに凍えることもなければ、お腹を空かすこともありません。子供達はしっかりとした服を着て学校へ行くことが出来、母親の胸から弟達に与える母乳がなくなる心配もありません。彼等の間で誰かが病気になったとしても、この善き婦人は彼等の必要とするであろう物質的援助を拒むことはないでしょう。彼等の家を出ると彼女は病院へ行き、そこにいる父親を慰問し、その家族の様子を伝えることによって父親を安心させます。道の曲がり角には車が彼女を待っており、その車には皆が必要としている物が全て積まれ、次から次へと人々を訪ねていきます。訪ねる人々に対して、どのような宗教を持っているのか、どんな意見を持っているのかなどと尋ねることはありません。なぜなら、全ての人が神の子であり、自分の兄弟であるのだと思っているからです。一回り終えると自分に、良い一日が始まったと言います。彼女の名前は何というのでしょうか。どこに住んでいるのでしょうか。誰もそのことを知る人はいません。貧しい人々に彼女は何の意味も持たない名前を教えてあります。しかし、彼女が人々を慰める天使であることに間違いありません。毎晩、天の父へ向けた彼女に対する感謝の言葉をカトリック教徒からも、ユダヤ教徒からも、プロテスタントからも聞くことが出来ます。
 どうしてそんなに質素な服装をしているのでしょうか。外見によって人々の貧しさを辱めない為です。なぜ、彼女の娘について来させるのでしょうか。どうやって善行を行うのかを娘が学ぶことが出来るようにする為です。若い娘も慈善を行いたいと思っています。しかし、母親は彼女に言います。「あなた自身が何も持っていないのに、何を人に与えることが出来るのですか。たとえ私があなたに何かを手渡し、それをあなたが誰かに与えたとしても、あなたにとってどんな価値があるでしょうか。その場合、実際に慈善を行っているのは私だということになります。それによってあなたにはどんな功労があったことになるでしょうか。それでは正しくありません。病気の人達を訪ねる時、あなたは私が彼等の面倒を見るのを手伝ってください。それだけでも沢山だと思いませんか。これ以上簡単なことはありません。役に立つ技術を身に付けてこの子供達に洋服を縫ってあげなさい。そうすれば、あなた自身が持つ物を人に与えることが出来ます」。このようにして、真なるキリスト教徒であるその母親は、キリストの教えてくれた美徳の実践をその娘に教えているのです。彼女はスピリティストでしょうか。そのようなことは重要なことではありません。家の中では自分の置かれた立場上、全く普通の女性として振る舞います。しかし、彼女は神と自分自身の良心によって認められることしか求めない為、彼女が何をしているか知る者はいません。ところがある日、予期せぬ時、彼女が世話をしている人の一人が手作りの作品を売りに彼女の家にやって来ました。この女性は彼女を見てそれが自分の世話をしてくれている人だということに気付きました。すると彼女は、「静かに。誰にも言ってはいけませんよ」と言うのでした。それはイエスが言っていたのと同じことです。

やもめの寄付

五、イエスは賽銭箱の前に座り、人々がどのようにそこにお金を入れていくかを見守られていると、多くの豊かな人々が賽銭箱に沢山のお金を入れていくのが見られた。そこへ、ある貧しいやもめもやってきて、レプタ銅貨を二枚だけ賽銭箱へ入れた。するとイエスは使徒達を呼んで言われた、「誠に言いますが、あの貧しいやもめは、誰よりも沢山寄付をしました。他の者達は皆、豊富にあるものを与えましたが、彼女は、乏しい中から持っている生活を支えるもの全てを与えたからです」。
(マルコ 第十二章 四十一-四十四、ルカ 第二十一章 一-四)

六、多くの人が、必要なものが不足しているから望むだけの善を行うことが出来ないと嘆き、豊かになることを望むのは、その富を有効に活用したいからだと言います。それは紛れもなく賞賛に値することであり、それが全く誠実な願いである人もいます。しかしながら、殆どの人が、善を行うことに対して全く無関心なのではないでしょうか。他人に対して善を行いたいと望みながらも、まず自分自身に対して善を行うことを重んじ、自分に不足している贅沢をもう少し楽しみ、その残りを貧しい人達に与えようとしている人がいないでしょうか。こうしたもう一つの欲望は、恐らくそうした欲望を持つ人自身の目にさえも見えていないのですが、もし彼等が自分自身をよく調べてみるなら、それを心の底に見つけ出すことが出来るでしょう。真なる慈善とは、自分のことよりも優先して他人のことを考えることなのですから、そうした欲望は良い意図の功労を全く打ち消してしまいます。この場合の慈善の高尚さとは、各々がその労働の中で、自分の力、知性、才能を活かすことによって、それぞれの寛大な意向を実現させる為に不足しているものを求めるところにあります。その中には、神を最も喜ばせる自己犠牲が存在します。不幸にして大多数の人々は、財宝探しをしたり、偶然の好機を持ったり、予期せぬ遺産相続を期待したりなどといった、途方もない計画に走り、最も手っ取り早く、努力なしに豊かになる方法ばかりを夢見ています。又、そうした目的を遂げる為に霊的な援助が受けられると期待する人達には、何と言えばよいのでしょうか。彼等は全くスピリティズムの神聖なる目的が何であるかを分かっておらず、又、神が人間と交信することを許した霊達の役割というものについては尚更知らないのです。結局彼等は失望によって罰せられることになるのです。
 その意図に全く私欲的な考えを含んでいない人々は、自分に必要なものを少しも失うことなく人に与える金持ちの金よりも、必要なものを失ってまでも人に与える貧しい者の寄付の方が、神の天秤にはより重く計られるのだと言うことを思い出し、心に望む全ての善を行うことは不可能であるということを知って、慰められなければなりません。実際、貧困を大規模に救済することが出来るのであれば、前者の行いの方が偉大です。しかし、もしそうした行いが出来ないのであれば、状況に従って、可能な限りを行わなければなりません。ただ、人の涙を乾かすことが出来るのはお金だけで、お金がないからといって黙っていてよいものなのでしょうか。心からその兄弟の役に立とうと思う者には皆、その望みを叶えることの出来る機会が何回も与えられます。そうした機会は見つけようとすればその姿を現します。ある方法が見つからなかったとしても、別の方法が見つかるでしょう。なぜなら、自分の能力を、仕事をしたり、人の肉体的、もしくは道徳的な苦しみを和らげたり、人の役に立つ努力に向けることの出来ない人はいないからです。誰もが、お金がない、仕事がない、時間がない、休みがないと言っている内は、何も隣人の為に捧げることは出来ません。しかしそこには、貧しい者の寄付、やもめの寄付が存在するのです。

貧しい者、身体の不自由な者を招くこと。見返りを求めずに与えること

七、イエスは自分を招いた者に言われた、「晩餐をしたり、食事の席を設ける時には、あなた達の友達や、兄弟、親類、或は裕福な隣人を招いてはいけません。なぜなら、彼等はその後、あなた達から受けたものを返そうとあなた達を招くからです。小宴を催す時には寧ろ、貧しい者や身体の不自由な者、足や目の不自由な人を招きなさい。彼等にはお返しをする方法がないので、あなた達は祝福されるでしょう。正しい人々が復活する時、あなたは報いられるでしょう」。
 これらの言葉を聞いていた列席者の一人がイエスに言った、「神の国でパンを食べる者は幸いです」。
(ルカ 第十四章 十二-十五)

八、祝いの宴を行う時には、あなた達の友達や、兄弟、親類、或は裕福な隣人を招いてはいけません、と言ったイエスの言葉は、言葉通りにとれば馬鹿げたものですが、そこにある精神を理解するならば、崇高なものです。友達の代わりに、道にいる物乞いを集めて共に食卓につくことをイエスが意図したわけはありません。イエスの言葉が殆どいつも比喩的に使われているのは、思考の繊細な色合いを感じ取ることが出来ない人には、強いイメージによって鮮明な色彩を放つように見せることが必要だからです。この考えの核となる部分は次の言葉に示されています。「彼等にはお返しをする方法がないので、あなた達は祝福されるでしょう」。つまり、報われることを考えに入れた上で善を行ってはならず、単に善を行うことに対する喜びの為に行われなければならないということです。強烈な比較を使うことによって、イエスは言いました。「小宴を催す時には寧ろ、貧しい者や身体の不自由な者、足や目の不自由な人を招きなさい。彼等にはお返しをする方法がないのです」。小宴という言葉は、大きな宴のことではなく、あなた達が普段楽しんでいる贅沢に加わる場合であると理解しなければなりません。
 しかしながら、この注意を促す言葉は文字通りに理解することも出来ます。何と多くの人が、招かれたことを光栄に思い、お返しに招いてくれる人だけを宴の席に招いていることでしょうか。反対に、自分より不幸な親類や友人を招くことで満足する人もいます。あなた達の内の何人がこの中に数えられるでしょうか。このようにすれば、目立たずに大きな事業を行うことが出来ます。誠心誠意、見せびらかすことなく、善を目立たなくさせることが出来るのであれば、このように行う人は、目の不自由な人や身体の不自由な者を探しに行かなくとも、イエスの教えを守ることが出来るのです。

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