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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第12章

第十二章 あなた達の敵を愛しなさい

悪を善によって報いる

他界した敵

あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい

◆霊達からの指導

復讐

憎しみ

果たし合い

悪を善によって報いる

一、「あなた達の隣人を愛し、あなた達の敵を憎みなさい」と言われていたことは、あなた達の聞いているところです。しかし、誠に言います。「あなた達の敵を愛しなさい。あなた達を憎む者に善を行い、あなた達を迫害し、中傷する者達の為に祈りなさい。そうすることによって、あなた達は、善人の上にも、悪人の上にも太陽を昇らせ、正なる者にも、不正なる者にも雨を降らす、天におられるあなた達の父の子となることが出来るのです。なぜなら、あなた達を愛してくれる者達だけを愛するのであれば、一体何を報酬として受けることが出来るでしょうか。徴税官でさえそのようにしているではありませんか。あなた達の兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っているということになるでしょうか。異教徒達も同じことをしているではありませんか」。
(マタイ 第五章 四十三-四十七)
「あなた達の正義が、書記官やファリサイ人達の正義よりも勝っていなければ、天の国に入ることは出来ません」。(マタイ 第五章 二十)

二、「罪人でさえ、愛してくれる人を愛することが出来るのですから、もしあなた達が、あなた達を愛してくれる人だけしか愛さないのであれば、あなた達にはどんな功労があることになるのでしょうか。罪人でさえ同じことが出来るというのに、もしあなた達が、あなた達に善を行ってくれる人だけにしか善を行わないのであれば、あなた達にはどんな功労があることになるのでしょうか。罪人でさえお互いに貸し借りし合い、同じ便宜を受けているのに、もし、あなた達が同じ頼みを聞いてくれる相手にしか貸さないのであれば、あなた達にはどんな功労があることになるのでしょうか。しかし、あなた達は敵を愛し、全ての人に対して善を行い、そのことによって何も期待することなく貸せば、あなたの受ける報酬は大変大きなものとなり、恩知らずな者にも、悪人にも良くしてくださる神の子に、あなた達はなることが出来るでしょう。ですから、あなた達の神が慈悲に満ち溢れているように、あなた達も慈悲に満ち溢れるようになりなさい」。(ルカ 第六章 三十二-三十六)

三、隣人への愛が慈善の原則であるならば、敵を愛することは慈善の崇高な適用です。なぜなら、その美徳はエゴイズムと自尊心に対して収められた大勝利の内の一つであるからです。
 しかし一般に人々はこの場合における愛という言葉の持つ意味を間違えるものです。イエスはこれらの言葉によって、普段兄弟や友人に対して持つ親和さと同じものを、敵に対して持たなければならないと言いたかったのではありません。親和さは信用を前提としています。しかし、私達に悪を望んでいるということを私達が知っている者に対して信用を持つことは出来ません。彼がそのような態度を悪用することを知りながら、彼に対して友情を広げることは出来ません。お互いに疑い合っている人達同士には、同じ考えを共有する人達の間にあるような共感の表現は存在しません。結局、誰にも、友達といる時に感じる喜びと同じ喜びを、敵といる時に感じることは出来ないのです。
 これら二つの間違った状況における感じ方の違いは、物理的法則の結果です。悪意のある思考は、痛々しい印象のあるフルイドの連鎖となります。善意に満ちた思考は私達を心地良いフルイドの広がりによって包んでくれます。そのことによって、敵が近付いて来た時と友達が近付いて来た時の感じ方の違いを経験することが出来るのです。ですから、敵を愛するということは、彼等と友達との間に全く区別をつけてはならないという意味にはなりません。この考え方を実践するのが難しく見えたり、或は不可能であると考えるのは、私達の心の中に、友達の為にも敵の為にも同じ場所を設けなさいと、イエスが私達に示したことを誤って理解しているからなのです。人類の言語は語彙に乏しいので、様々な微妙な違いや感じを表現する為に同じ語彙を用いなければならないとすれば、場合に応じてその説明を変えなければならないのです。
 ですから、敵を愛するということは、自然の中に存在しない愛情を持ちなさいということではありません。なぜなら、敵と接する時、心臓は友達と接する時とは全く違った様子で鼓動するからです。敵を愛するということは、彼等に対して憎しみも、怒りも、復讐の欲望も持たないことです。何かの企みによってではなく、無条件に彼等の行う悪を赦すことです。彼等に対して悪を望むのではなく、善を望むことです。彼等が達成する善に対して苦しむのではなく、喜ぶことです。彼等が必要とする時には、確かな救いの手を差し延べてあげることです。言葉と行動によって、彼等にとって害となるものを回避してあげることです。彼等を辱めることなく、あらゆる悪を善によって報いることです。これらのことを行おうとする者は、あなた達の敵を愛しなさいという掟を守ることになるのです。

四、敵を愛するということは、不信心な者にとっては全く馬鹿げたことです。現世だけが全てであると考える人は、敵を見る時、自分の平静を乱す有害な存在としか捉えることが出来ず、死のみによってその敵から解放されることが出来るのだと信じています。そこから復讐の気持ちが生まれます。世間の目に対して、自尊心を満足させる為以外には敵を赦そうとはしません。場合によっては、本当に赦すことは自分にとって恥ずべき弱さであると感じます。復讐をしなかったにしても同じだけの怒りを保ち続け、悪の望みを心に秘めることになります。
 神を信じる者、とりわけスピリティストの見方は違っています。なぜなら、過去と未来を考慮し、それらに挟まれた現世は一時的なものでしかないことを知っているからです。そこで悪人や不道徳な人達に出会うことを覚悟しなければならないのは、地球という場所がそうした宿命にあるからです。彼等の悪意は耐え抜くべき試練の標的であり、高く引き上げられた場所に視点を置くことによって、物質的であろうと人為的であろうと苦しみの辛さは減ることになります。試練に対して不平を言わないのであれば、その試練の役割を担ってくれている人達に対しても不満を述べるべきではありません。試練の経験を悲しむ代わりに、神に感謝するのであれば、甘受と忍耐を示す為の機会を与えてくれているその手に感謝するべきなのです。このように考えると、自然に赦す心が生まれます。それに加え、寛大であればある程、自分の目にも自分の存在の高さが高く映るようになり、敵の悪意の籠った攻撃が届かなくなるように感じることが出来るでしょう。
 世の中で高い身分にある人達は、自分よりも劣っていると感じる人々に侮辱されても、それを攻撃とは受け取りません。人類の住む物質世界よりも上の、道徳の世界で高い位置へ昇った人も同じです。そのような人は、憎しみや怒りを抱くことを自分を卑しめ、下劣にすることを理解しています。自分の敵を上回るには、より高貴に、より寛大になり、大きな魂を持つ必要があるのです。

他界した敵

五、
スピリティストには、まだ他にも敵に対して寛大でなければならない理由があります。第一に、スピリティストは、人間にとって、悪意を持った状態が永遠に続くものではないことを知っています。悪意を持った状態というのは、一時的に不完全な状態にあるということであり、子供がその欠点を直していくように、悪人もいつの日かその過ちを認識し、善くなるのだということを知っているのです。
 更に、死は敵を物質的な存在から解放してくれるだけであり、敵は地上を後にしてからも憎しみを持って追いかけて来ることが出来るのだということを知っています。そして、このように目的を達成することが出来なかった復讐心は、より大きな苛立ちを生み、一つの存在から次の存在へと続いていくのだということも、スピリティストは知っています。スピリティズムは、経験と、見えない世界と見える世界の間を支配する法によって、「憎しみを血と共に消す」という表現が根本的に間違っていること、そして、本当は死後も血が憎しみを増幅させるのだということを証明することが出来るのです。そうしたことにより、赦すことと「敵を愛しなさい」というキリストの崇高な教えの実際の有効性をスピリティズムは示しているのです。たとえ無意識の内にであっても、善なる行いに感動しない程非道な心は存在しません。善なる行いによって、少なくとも全ての報復の口実を奪うことが出来ます。生前であろうが死後であろうが、敵を友達に変えることが出来ます。悪の行いによって敵が苛立てば、彼自身が神の正義の道具となり、赦さぬ者を罰することになるのです。

六、したがって、敵は生きている人達の中にも、また他界した人達の中にもいます。見えない世界に存在する敵達は、多くの人達に見られるように、憑依や支配によってその悪意を示しますが、それらは試練の一種であり、他の試練がそうであるように、それらについても人間の進歩に寄与する為には甘受し、地球の劣った性格から来る結果であると受け止めなければなりません。地上に悪い人間が存在していなかったとすれば、その周囲に悪い霊も存在していなかったでしょう。生きている敵に対して好意を用いなければならないのであれば、他界した敵にも同じ方法を用いなければならないと言うことが出来ます。
 昔、残酷な生贄によって地獄の神々を鎮めることをしましたが、これらの神々とは悪い霊達のことであったのです。地獄の神々は悪魔達に引き継がれて行きましたが、それらはどちらも同じことです。スピリティズムはこの悪魔というものが、未だに物質的な本能を棄て切っていない不道徳な人間の魂に他ならず、彼等の抱く憎しみを慈善によって葬らなければ、誰にも彼等を鎮めることは出来ないことを示しています。単に悪を働くことを止めるだけでは効き目はなく、それに加えて、彼等が自らを救うように善の道に導くことによってこそ効果があります。「あなた達の敵を愛しなさい」という教えは、現世と地球上についてだけに限って説かれたものではなく、それ以前に、宇宙の同胞愛と連帯の大きな法の一部として存在するものなのです。

あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい

七、「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなた達の聞いているところです。しかし、誠に言います。悪い者に手向かってはなりません。彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一マイル歩けと強いるような者とは、一緒に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断ってはいけません。
(マタイ 第五章 三十八-四十二)

八、一般に「面目」と呼ぶものに関する世界中の偏った見方は、自尊心や自己の性格を賛美する気持ちによって生まれる不快で敏感な状態を生み、その気持ちは人間に、侮辱を侮辱によって報いたり、罵りを罵り返したり、地上の感情の範囲を超えることが出来ない道徳観で正義と思われることによって仕返しをさせます。だからモーゼの法には、「目には目を、歯には歯を」と、モーゼの時代に合った形で表されているのです。キリストが来ると、「悪は善によって報いなさい」「悪い者に手向かってはなりません。彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」と言いました。誇りの高い人にとって、この金言は臆病さを表しているように見えます。なぜなら、侮辱を仕返しすることなく耐える方が勇気が必要であるということを知らないからです。これは、彼等の視界には現在を超えた未来が入らないからです。
 しかし、この金言を文字通り守らなければならないのでしょうか。そうではありません。目を攻撃されたなら相手の目を潰しなさい、というもう一つの金言と同じように、文字通りに受け取るものではありません。これらの教えを全ての価値において理解するのであれば、たとえ合法的であってもいかなる制裁も非難し、悪を行う者には脅すことなく自由な機会を与えよ、と理解するべきです。もし、悪に対して攻撃の歯止めをかけないのであれば、全ての善がその犠牲になってしまいます。自己防衛の法は自然の法であり、誰も殺人者の前に首を出そうとはしません。ですから、この金言の意味をはっきりさせるのであれば、イエスは全ての自己防衛を禁止したのではなく、報復を非難したのです。一方の頬を叩いた者にもう一方の頬を出しなさいということによって、悪を悪によって仕返ししてはいけないということを別の言葉で表したのです。人間はへりくだることによってその自尊心を打ち消すのに都合の良いものは全て受け入れなければなりません。最大の栄光は、人を傷付けるよりも、攻撃をせずに攻撃を受け、人の不正に耐えることです。人を騙すよりも騙される方が、他人を損なうよりは自分を損なう方が善いのです。それは同時に、自尊心の見せ合いでしかない果たし合いを否定するものです。悪を罰しないことはない神の正義と、未来における人生を信じることによってのみ、私達の自己への愛情と自分の利益に対して放たれる攻撃に辛抱強く耐えることが出来るのです。ですから、いつもあなた達に申し上げています。「あなた達の目を未来に向けてください。物質の世界よりも高い世界に自分を引き上げることが出来たなら、この地上の出来事で苦しむことはなくなるでしょう」。

霊達からの指導

復讐

九、
復讐とは、人類の間から姿を消しつつある野蛮な習慣の内で、最後まで残存したものの一つです。復讐は、果たし合いのように、キリスト時代の初期の頃から人類が戦ってきた、野蛮な習慣の最後に残った痕跡の一つであり、したがって、復讐が存在するということは、それを行う人間やそれを行おうとする霊の遅れを示していることになります。友よ、だから、自らをスピリティストであると宣言し、述べる者の心を、この感情が動かすようなことが決してあってはなりません。復讐することは、よく知っている通り、キリストの「あなた達の敵を赦しなさい」といった教えにあまりにも反することであり、赦しを拒む者はスピリティストでないばかりでなく、キリスト教徒でもありません。復讐を思い付く時、心が偽りや低俗さに根差しているのであれば更に致命的です。実際に、この致命的で盲目の感情に身を任せてしまう人は、人目につくところで復讐することはありません。それらの感情の方が強い時、敵がいるだけで情熱、怒り、憎しみが燃え上がり、その残忍な者は、敵と呼ぶ相手の上に襲い掛かります。しかし多くの場合、偽善的な見せかけを装い、その人を活気付ける心の底にある悪い感情を見えなくしています。隠れた道を通り、敵の陰を追い、身の危険なしに敵を傷付けるのに適当な時を待ちます。相手から隠れ、いつもこっそりと観察しながら憎しみのこもった罠を準備し、都合の良い時がやって来ると、相手のコップに毒を注ぐのです。憎しみがそれ程までには至らない場合には、相手の名誉や愛情を傷付けます。中傷を退けることなく、裏切りのあてつけを風に乗せてあらゆる方向へ上手に広め、行く道に積もらせていきます。結果的に、迫害者の一陣が通った後に現れた追われる者は、以前その人を迎えてくれていた友好的で善意に溢れた顔の代わりに、冷たい顔つきに出会って驚くことになります。差し出していた手を、今度は握ることさえも拒否され、びっくりしてしまいます。最後には、最も親しかった友達や家族さえもがその人を避けるようになり、打ちのめされてしまいます。ああ、そのように復讐する者は、自分の敵の目の前で相手を罵る者よりも百倍罪深いのです。
 ですから、こうした野蛮な習慣は棄てなければなりません。こうした過去のやり方は捨て去らなければなりません。今日、未だに復讐する権利があると思っているスピリティストは、「慈善なしには救われない」という標語を掲げる集団には相応しくありません。そうです、大いなるスピリティストの家族の一員が未来において、人を赦す代わりに復讐の衝動に身を任せてしまうなどと私は考え続けることは出来ません。(ジュール・オリヴィエ パリ、1862年)

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