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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第11章

第十一章 自分を愛するように、隣人を愛しなさい

最大の戒め 自分にして欲しいと思うことを他人に行う 債権者と債務者の話

カエサルのものはカエサルに返しなさい

◆霊達からの指導

愛の法

エゴイズム

信心と慈善

罪人に対する慈善

悪人の為に命を犠牲にするべきか

最大の戒め 自分にして欲しいと思うことを他人に行う 債権者と債務者の話

一、さて、イエスがサドカイ人達を黙らせられたことを聞いたファリサイ人達は、一団となって集まった。その内の一人は律法学者であったが、イエスを試そうとして尋ねた、「先生、律法の内で最大の戒めとは何ですか」。イエスは答えられた、「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これが最も大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。全ての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また預言者も同様です」。
(マタイ 第二十二章 三十四-四十)

二、そして、あなたが人々にそのようにして欲しいと思うことを、あなたも彼等にしてあげなければなりません。なぜならそれが律法であり、預言者であるからです。(マタイ 第七章 十二)

三、天の国は、王がしもべ達と勘定の清算をするようなところである。勘定の清算が始まると、一万タレントを借りていた者が現れた。しかし、彼にはそれを支払う術がなかったので、王はその人に、借金を支払えるように、その人自身とその妻子、又その所有する物全てを売るように命じた。そのしもべはひれ伏し、「全てお支払しますから、どうぞお待ちください」と懇願した。すると王はその人を憐れに思い、その負債を免除し、自由にしてやった。ところがそのしもべは出て行くと、自分に百デナリの借金をしていた仲間のしもべに出会ったので、その人の喉元を掴み、首を絞めつけながら、「私に借りているものをみな返せ」と言った。その仲間の奴隷はひれ伏し、「全てお支払いしますから、どうぞお待ちください」と言った。しかし、それを聞こうともせず、負債を全て支払うまでその人を獄に閉じ込めるように命じてしまった。
 そのしもべの仲間達は、この様子を見て心を痛め、王にそのことを報告しに行った。すると王は、そのしもべを目の前に連れて来させて、「邪悪なしもべよ、私はお前が懇願したので全ての負債を取り消してやったのだ。だから、お前も自分の仲間のことを、私がお前を憐れんでやったのと同じように憐れんでやるべきではなかったのか」と言い、大いに憤り、その負債を全て支払うまで獄に閉じ込めるように命じた。
 あなた達一人一人に対して兄弟が行った罪を心の底から赦すのでなければ、天におられる私の父も又、あなた達をこのようになさるでしょう。
(マタイ 第二十二章 三十四-四十)

四、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。他人にして欲しいと思うことを他人の為にしてあげなさい」。ここには、慈善が最も完全な形で言い表されています。なぜなら、これらの言葉には私達が隣人に負う義務が要約されているからです。他人にするべきことの基準として、この中にある、「自分自身にして欲しいこと」ということ以外に、これ程確実な基準は存在しません。私達は同胞に対して、私達の彼等に対する献身、慈悲、寛大さ以上のものを、どうして強要することが出来るでしょうか。この金言を実践することによってエゴイズムは破壊されます。これらの言葉を人間が行動の基準とし、そのつくり出すあらゆる制度の基盤とすれば、真なる兄弟愛を理解し、平和と正義が人々を治めるようになるでしょう。憎しみや不和は最早存在しなくなり、調和、統合、相互の慈悲心が生まれることになるでしょう。

カエサルのものはカエサルに返しなさい

五、ファリサイ人達は出て行くと、どうにかして言葉でイエスを混乱させようと企んだ。そして使徒達をヘロデ派の人々と共にイエスのもとに行かせ、このように言わせた、「先生、あなたは真実によって、神の道を、その人が誰であるかにかかわらずに教えてくれることを知っています。それでは、このことに対してどうお考えか教えてください。私達は税金をカエサルに納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。
 しかし、イエスは彼等の企みに気付き、答えて言われた、「偽善者達よ、なぜ私を試そうとするのですか。税金を支払う時に使う硬貨を私に見せてください」。そして一デナリの硬貨を見せると、イエスはお尋ねになった、「この肖像と銘刻は誰のものですか」。彼等は、「カエサルのものです」と答えた。するとイエスは、「そうであるなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われた。彼等はその答えを聞くと驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
(マタイ 第二十二章 十五-二十二、マルコ 第十二章 十三-十七)

六、イエスに対する質問は、ローマ人の課する税金を忌み嫌うユダヤ人が、その税金の支払いを宗教的な問題であるとした状況から生まれました。多くの政党がその税金に反対して設立されていました。その税金の支払いは、彼等の間では当時の苛立たしい問題となっていたのでした。そうでもなければ、このような質問をイエスにすることはなかったでしょう。「私達は税金をカエサルに支払わなければならないのでしょうか。それとも支払わなくてもよいのでしょうか」。そこには罠が仕掛けられており、返答によって、ローマの権威か、ユダヤの異論者達のいずれかが、イエスに対して逆らうことを期待して質問したのでした。しかし、イエスはその悪意を知っており、それぞれの物が与えられるべき者に与えられなければならないのだという正義の教えを説き、この難題を切り抜けたのです(→序章 Ⅲ「パブリカン(徴税官)」)。

七、しかし、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というこの文は、厳密に全く文字通り理解されるべきではありません。イエスの全ての教えの中にあるように、そこには特定の場合における実用的な形で大原則が要約されているのです。この原則は、自分達に対して行って欲しいと思うように他人に対して行わなければならないという、もう一つの教えの結果なのです。その教えは、どのような道徳的・物質的損害を他人に与えることも、他人の利益を無視することも咎めています。そして、皆が自分の権利を尊重して欲しいように、一人一人の持つ権利が尊重されるべきであるということを示しています。一般に、個人に対しても、家族や社会、権威に対しても、このことは同じように広げて考えられます。

霊達からの指導

愛の法

八、
霊的に進歩することにより、本能はその進歩のレベルまで引き上げられ、情操へと変化していきますが、そうした情操の最も卓越した形である愛の中に、イエスの教義は完全に要約されています。人間はその起源においては本能しか持っていません。それがやがて進化し、形が崩されていくと、感覚に変化していきます。教育され、浄化されると情操に変化します。情操の最もデリケートな部分が愛です。その愛とは、一般的な低俗な意味のものではなく、内なる太陽のように、人類を超えたあらゆる啓示や熱望を、その焦点に凝縮し集めたものです。愛は人間の個人性を人々との協調性に置き換えます。愛は社会的な貧困を打ち消します。人間であることを超え、苦しむ兄弟達を広い愛情によって愛する者は祝福されます。肉体の貧困も魂の貧困も知らない者は祝福されます。そのような者の足取りは軽く、自分の身体を抜け出して移動しているように感じます。イエスが愛という神聖なる言葉を発すると、殉教者達は希望に酔いしれ、劇場へと降りて行ったのです。
 スピリティズムの到来によって、神の言葉の中の二番目の言葉が伝えられました。注意深く聞いてください。「再生」、この言葉は空になった墓場の墓石を持ち上げ、死というものに打ち勝ち、衝撃を受けた人々にその知的財産を示してくれるのです。それは人間を虐待に導くのではなく、自分自身の存在を征服し、高尚に変貌することに導いてくれるのです。血は霊を取り戻しましたが、今度は霊が人間を物質から取り戻さねばならないのです。
 人間はその起源においては本能しか持っていないのであると私は言いました。ですから、まだ本能によって支配されている者は、目的の地よりも出発点に近いところにいるのです。目標に向かって進んで行くには、情操を育てる為に本能に打ち勝たねばならず、つまり、物質の中に眠る種子を抑制し、情操を完成させる必要があるのです。本能は情操の兆しであり、その種子のようなものです。どんぐりの中に樫の樹が隠されているように、本能の中には進歩が隠されているのです。進歩の遅れた者とは、蛹からゆっくり解放されつつも、依然として本能に支配されている者のことです。霊は畑のように耕されなければなりません。未来における豊かさは、今日の労働によってもたらされます。労働は地上における財産以上に、栄光の向上をもたらします。その時、全ての存在を統合する愛の法を理解することが可能となり、天における幸せの序曲である魂の優しい喜びをその中に求めることが出来るでしょう。(ラザロ パリ、1862年)

九、愛とは神なる精髄から出来たものであり、最も卑しい者から最も高尚な者まで、あなた達はこの神聖なる火の火花を皆心の底に持っています。誰でもこのことは証明出来るに違いありません。人間は、どんなに卑しく、貧しく、或は罪深くとも、誰か、もしくは何かしらの物に対し、生き生きとした熱烈な愛情を抱き、その気持ちはそれを弱めようとするどんな試みに対しても抵抗し、多くの場合、崇高な調和に至ります。
 私が誰か、もしくは何かしらの物と言ったのは、あなた達の中には愛に溢れる心を持ちながら、その気持ちの富を動物や植物、或は物質的な物の為に費やしてしまう人達がいるからです。そうした人達は一種の人間嫌いの人達で、人類一般に対して不満を持ち、自分の周りに愛情と同情を求めようとする自分達の魂の自然の傾きに抵抗し、愛の法を本能の条件にまで引き下げてしまう人達のことです。しかし、どれだけそうしようとも、神が人類を生んだ時に授けた活発な種子を抑えることは出来ません。この種子は道徳性と知性と共に発達し、しばしばエゴイズムによって圧迫されながらも、誠実で長続きする愛情を生み出す甘い聖なる美徳の源となり、人生の険しく荒涼とした道のりを乗り越える為の支えとなってくれるのです。
 自分達が羨ましいと感じている愛情深い同情を、他人が分かち合いに来るという考えから、再生を受け付けない人々がいます。可哀想な兄弟達よ。あなた達の愛情はあなた達をエゴイストにしてしまうのです。あなた達の愛は親しい親類や友人の輪の中だけに狭められ、その他の人に対して無関心になってしまいます。よろしいでしょうか、神の教える愛の法を実践するには、あなた達の兄弟を無差別に愛する為に一歩一歩近付いていかなければなりません。その任務は長く、困難ですが、いつか達成されるでしょう。神はそうなることを望んでおり、愛の法が、第一の最も重要な規律でなければならないのです。なぜなら、個人的なエゴイズムの他に、血筋中心のエゴイズム、階級的なエゴイズム、国家的なエゴイズムが存在する中で、どのような形であろうと、あらゆるエゴイズムを愛の法はいつの日か滅ぼすことになるからです。イエスは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言いました。では、隣人とはどこまでを指すのでしょうか。家族でしょうか、宗派でしょうか、それとも国家でしょうか。いいえ、人類全体を指すのです。より優れた世界においては、相互の愛がそこに住む進歩した霊達を導き、和を築いていますが、近々著しい進歩を遂げることになっているあなた達の惑星においては、そこで起きる社会的変化の為に、神を映し出すこの崇高な法を、そこに住む者達が実践するようになるでしょう。
 愛の法がもたらす結果とは、人類の道徳的向上と、地上における人生の幸福です。この規律の実践がもたらす有益な結果を知ることにより、最も反抗的な者や、最も悪徳な者も自らを改めることになるでしょう。自分にして欲しくないことを他人にしてはなりません。その反対に、あなた達が行うことの出来る全ての善を他人にしてあげなければなりません。
 人類の心の不毛さや冷酷さを信じてはいけません。嫌々ながらもそうした心は、真なる愛の前には譲ることになります。真なる愛とは磁石のようなもので、抵抗することは出来ないのです。真なる愛との接触は、あなた達の心の中に潜む愛の種子を発芽させ、活発にさせます。追放と苦境の天体である地球は、やがてこの聖なる火によって浄化され、その表層に慈善、謙遜、忍耐、献身、甘受、忍従、犠牲といった、全ての愛の産物が実践されるのを見ることが出来るようになるでしょう。ですから、福音記者ヨハネの言葉に聞き飽きることがあってはなりません。あなた達が知るように、病と老いによって彼が説法を続けることが出来なくなった時、「子供達よ、お互いに愛し合いなさい」というこの優しい言葉だけを繰り返しました。
 愛する兄弟達よ、これらの教えを役に立ててください。それを実践することは難しくとも、魂はそこから多くの益を得ることになります。私を信じ、あなた達にお願いする崇高なる努力をしてください。「お互いに愛し合いなさい」。そうすることにより、近い将来、地球は楽園へと変化し、そこには正しい者達の魂が休みに集まることでしょう。(フェヌロン ボルドー、1861年)

十、親愛なる同胞達よ、ここにいる霊達が私を通じ伝えています。「愛される為に、大いに愛しなさい」。この考えは全く正しく、その中には日々の苦しみを和らげ、慰めてくれるものの全てを見出すことが出来ます。分かり易く言うならば、この知恵ある教えを実践することにより、あなた達は物質を超えて向上し、地上における肉体の被いを後にする前に霊的に進歩することが可能となるでしょう。未来を理解する為のスピリティズムの研究を発展させることにより、一つの確信を持つことが出来るようになるでしょう。あなた達の魂の熱望に応える約束の全てが、実現されながら神に向かって歩んでいるという確信です。ですから、あなた達は物質に束縛されることなく、自らを高く持って物事を判断しなければならず、神へ考えを寄せることなしにあなた達の兄弟を非難してはなりません。
 愛するということの深い意味は、人間が誠実、正直、良心的に、他人に対して、して欲しいと思うことをしてあげるということです。兄弟達を困らせているあらゆる痛みを自分の周りに探し、それを和らげてあげようと親身になって感じることです。人類全体を自分の大きな家族のように考えることです。なぜなら、この世界にいる期間が過ぎた後、より進歩した世界において、その家族の全ての者と再会することになるからです。そうした家族をつくっている霊とは、あなた達と同じ、無限の宇宙に向かって向上していく神の子です。だから、寛大な神があなた達に授けてくれた兄弟を拒んではなりません。もし兄弟達があなた達の必要としているものを与えてくれていたなら、それはあなた達に喜ばしいことではありませんか。ですから、いかなる苦しみに対しても、いつも希望と慰安の言葉を持ち、完全なる愛と正義を持つことが出来るようになってください。
「愛される為に、大いに愛しなさい」という賢明な勧告を信じてください。この言葉は道を開きます。そしてこの革新的な言葉は、確実で不変の道を辿る言葉です。私の言葉を聞く者は、既に多くを得ています。なぜなら、あなたは百年前に比べれば限りなく良くなっているからです。あなた達の利益の為に、大いに変化し、過去には拒んでいた自由と同胞愛や、無数の新しい考えを喜んで受け入れることが出来るようになりました。このように、今から百年経った後には、疑いもなく、あなた達がまだその頭の中に収めることが出来ないことを、同じような容易さによって受け入れることが出来るようになっている筈です。
 スピリティズムの運動がこれ程大きく前進した今日、スピリティズムの中でいつも変わることなく述べられている正義と確信の考えが、非常に速く知的階層に受け入れられてきたことが分かります。これらの考えはあなた達の中に潜む神聖なもの全てに応えます。それは、あなた達の中には発芽が間もない種子が植えられているからです。その種子とは、一世紀前、地球上の社会の中に植え付けられた偉大なる進歩の考えのことです。そして、全てが神の方向へ向かって連鎖している為、授かり、受け入れられた全ての教えは世界的に隣人への愛に置き換えられることになるでしょう。その為、人間として受肉している霊達は、物事をより良く捉え、理解することが出来る為、地球の隅々にまで手を差し伸べることになります。一人一人がお互いに理解し愛し合い、全ての不正義や、人間同士の不和の原因を滅ぼす為に集まることになるでしょう。
「霊の書」には、スピリティズムによる偉大なる確信の考えが記されています。この規律をよく理解し、適用することによって、あなたは来るべき世紀の驚異的な奇跡、つまり人類の物質的・精神的な全ての関心を調和させる奇跡を起こすことになるでしょう。「愛される為に、大いに愛しなさい」。(元パリ・スピリティスト協会のメンバー、サンソン 1863年)

エゴイズム

十一、
エゴイズムは人類の大きな傷であり、人類の進歩を妨げるものなので、地上から姿を消さなければなりません。様々な世界の階級の中で、人類の階級を上げることが、スピリティズムに託された役割です。故に、エゴイズムは、真なる信者がその武器である力と勇気を差し向ける標的でなければなりません。勇気、と私が申し上げるのは、多くの人が他人に勝つ前に、自分自身に打ち勝つ必要があるからです。ですから、一人一人がその努力の全てを、自分の中のエゴイズムと戦うことに費やさねばなりません。全ての知性を貪る怪物、自尊心の産物であるエゴイズムは、地上の世界における全ての惨めさの原因であることは確かです。エゴイズムは慈善を否定するものであり、それ故に、人類の幸せにとって最大の障害であると言えます。
 イエスは慈善の模範を示しましたが、ポンティオ・ピラトはエゴイズムの例を示しました。つまり、前者、正義なる者が殉教の道を辿ったのに対し、後者は「私には関係のないことだ」と言いながら手を引いたのです。ユダヤ人達に「この者は正しい者であるのに、なぜ十字架にかけようとするのか」とまで言いながら、処刑を続行させたのです。
 人間の心の弊害であるこの慈善とエゴイズムの対立は、キリストの教えがその任務を完全に果たしていないことによるものです。高級な霊達は新しい信仰の使徒であるあなた達にこの悪を根絶する任務と義務があり、あなた達の進行を妨げている障害を取り除き、キリスト教に全ての力を注がなければならないのだということを明らかにしているのです。地球が様々な世界の中で向上することが出来るように、地上からエゴイズムを追放してください。人類はもう大人の服に着替える時期に来ており、その為には、まずあなた達の心からエゴイズムを追放しなければならないのです。(エマヌエル パリ、1861年)

十二、もし人類がお互いに愛し合っていたならば、慈善はよりよく実践されていたでしょう。しかし、その為にはあなた達が心に纏う鎧から解放され、隣人の苦しみにもっと敏感になれるように努力することが大切です。キリストは、キリストを求める人の誰をも決して軽んじたりはしませんでした。キリストを求めた者は、誰であっても拒否されることはありませんでした。姦淫した女や罪人もイエスによって助けられましたが、イエスはそのことによって自分自身の名声に傷が付くことを決して恐れたりはしませんでした。では、あなた達はいつになればイエスを全ての行動の模範とするようになるのでしょうか。地球上を慈善が支配した時、悪は存続し切れず、恥ずかしがってその姿を消していきます。悪はどこにいても居心地が悪く感じる為、どこかに隠れてしまいます。その時、悪は消滅します。そのことをよく理解しておいてください。
 あなた達自身が模範を示すことから始めてください。全ての人に対し、区別することなく慈善的であってください。あなた達のことを軽蔑の眼差しで見る人達のことを気にしないように努力してください。全ての正義は神の手に委ねてください。なぜなら、神は毎日、神の国において麦と雑草とを選別しているからです。
 エゴイズムは慈善を否定するものです。慈善なくして社会生活の中に平和はなく、更には、安全というものがなくなります。エゴイズムと自尊心は手を取り合って存在していますが、それらによって人生はいつもずるい者だけが勝つことの出来る競争となり、もしくは最も尊い愛情もが足元に踏みにじられ、神聖な家族の絆さえも軽んじられる、利害の対立になってしまいます。(パスカル サンス、1862年)

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