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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第10章

第十章 憐れみ深い者は幸いです

神があなたを赦してくれるよう、あなたは人を赦しなさい

敵対者と和解すること

神にとって最も喜ばしい犠牲

目の中のおが屑と杭

人に裁かれないよう、人を裁いてはいけません。罪を負わない者が最初の石を投じなさい

◆霊達からの指導

攻撃を赦すということ

寛大さ

他人を叱ることは許されますか。他人の不完全性を指摘し、他人の悪を広めることは許されていますか

神があなたを赦してくれるよう、あなたは人を赦しなさい

一、憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。
(マタイ 第五章 七)

二、もし人の罪を赦すなら、あなた達の天の父もあなた達を赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなた達の父もあなた達の罪をお赦しになりません。(マタイ 第十八章 十五)

三、もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たことになります。(マタイ 第十八章 十五)

 その時、ペテロがみもとに来て言った、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。イエスは言われた、「七度まで、などと私は言いません。七度を七十倍するまでと言います」。(マタイ 第十八章 二十一、二十二)

四、憐れみ深くない者は、温和で平和を愛することが出来ないことから、憐れみとは温和さを補足するものであると言えます。憐れみは他人の過ちを赦し、忘れることによって成り立ちます。憎しみと怒りは、その魂が小さく、気高くないことの表れです。攻撃を忘れることは高貴な魂だけに属するもので、そのような魂は、人がその魂に対して行おうとした悪を高所から眺めることが出来るのです。一方は常に落ち着くことがなく、悲しく苦しい感覚です。他方は落ち着いた、慈善と温和さに満ちた感覚です。
「断じて赦すことは出来ない」と言う人は不幸です。なぜなら、その人は人間によっては非難されないとしても、必ず神に避難されることになるからです。自分自身が他人を赦すことが出来ないのに、自分の過ちを赦してもらう権利があるでしょうか。兄弟を赦す時、七度までではなく、七度を七十倍するまで赦しなさいと言うことによって、イエスは、憐れみは限りないものでなければならないと教えています。
 しかし、赦し方には違った二つの方法があります。一方は偉大で高尚な、真なる寛大さによって、いかなる下心も持つことなく、その責任の全てが相手にあったとしても、その人の自己感情と感受性を傷付けないように優しく扱います。もう一方の方法は、攻撃されたり、攻撃されたと判断すると、相手に屈辱的な条件を強要し、赦したことの重圧を感じさせ、それによって安心を与えるのではなく、苛立ちを与えることになります。手を差し伸べるのは善意からではなく、見栄によってであり、そうすることにより皆に対し、「私がなんと寛大であるか見るがよい」と言います。このような場合、いずれの側にとっても誠実な和解をすることは不可能です。それは全くの寛大さではなく、自尊心を満足させる為の手段でしかありません。どのような争いにおいても、和解を求めて、自分自身の利害に構わず、慈善と真なる魂の偉大さを見せる者が、必ず公平な人々の同情を得ることが出来るのです。

敵対者と和解すること

五、あなたの敵対者と道を共にしている時は、直ちに和解しなさい。さもなければ、敵対者はあなたを裁判官に渡し、裁判官は役人に渡し、あなたは牢屋へ送り込まれてしまうでしょう。誠に言います。最後の一銭を払い終わるまで、そこから出ることは出来ません。
(マタイ 第五章 二十五、二十六)

六、善の行いと同様に、一般に赦しの行いには道徳的な影響ばかりでなく、物質的な影響もあります。私達の知る通り、死は私達を敵から解放してはくれません。反逆的な霊はいつも憎しみと共に、その怒りの対象となる者を死後の世界を超えて追いかけて行きます。そのことから「犬を殺してしまえばその犬の怒りも消える」といったことわざを、人間に当てはめるのは間違いであるということになります。悪霊は、悪を働きたい相手に対して、その相手が肉体に収まり続け、それによって自由があまり与えられないままであり続けることを望みます。そうあることでその相手は苦しめ易くなり、その利益や最愛のものを攻撃することが可能となるからです。大多数の憑依、特に、かなり重傷な服従的憑依や支配的憑依の原因を、こうした事実の中に見出すことが必要です。憑依された者と支配する者は、殆どの場合、過去の復讐心の犠牲となっており、それがほぼ間違いなくそうした行動の動機となっています。神は、彼等の行った悪を罰する為か、或は悪を行っていないのであれば、寛大さや慈善に欠けたことによって他人を赦すことが出来なかったことを罰する為に、そうした憑依が起こることを許します。ですから、未来の平安に目を向け、出来るだけ早く隣人に対して行ってきた悪を改め、敵を赦すことによって、死を迎える前に、あらゆる不和の原因、あらゆる過去の恨みの深い動機をも消滅させることが重要なのです。こうすることにより、一方の世界における敵をもう一方の世界における友とすることが出来たり、少なくとも、赦すことを知る者が復讐を味わうことがないように神がしてくれる為の良い機会となります。イエスが私達に、出来るだけ早く敵と和解するように勧めた時、単に現世での不和を避けるように望んだのではなく、不和が未来の人生においてまでも続くことがないことを望んだのです。イエスは、「最後の一銭を払い終わるまで」、つまり神の正義が完全に満たされるまで、「そこから出ることは出来ません」と言ったのです。

神にとって最も喜ばしい犠牲

七、だから、もしあなたが祭壇の前で供え物を捧げようとした時、そこで兄弟があなたに対して反感を抱いていることを思い出したのであれば、その供え物を祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。
(マタイ 第五章 二十三、二十四)

八、「まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい」と言うことにより、イエスは、神にとって最も喜ばれる犠牲とは一人一人の悪い感情であるということを教えたのです。神に赦しを求める前に他人を赦すことが必要であり、兄弟に対し何らかの悪を働いているのであれば、それを改めることが必要なのです。そうすることによってのみ、供え物は喜ばれることになります。なぜなら、その供え物はいかなる悪い考えにも汚されていない、純粋な心から送られたことになるからです。ユダヤ人には物質的な供え物を捧げる習慣があり、イエスは人々の習慣に自分の言葉を合わせる必要があった為、この教訓を具現化したのです。キリスト教徒は供え物を精神化する為、物質的な供え物を捧げたりはしませんが、キリスト教徒に対してこの教訓が何の力も持たないわけではありません。魂を神に捧げる時には、清らかな形で捧げなければならないのです。神の宮に入るなら、あらゆる憎しみや反感、兄弟に対する悪い考えをも宮の外にやらなければなりません。そうすることによってのみ、その人の祈りは永遠の神の足元に届くことが出来るのです。もし神に喜ばれたいのであれば、「祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行きなさい」という言葉を、イエスは教えてくれるのです。

目の中のおが屑と杭

九、なぜあなたは、あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えないのですか。また、自分の目の中には杭があるというのに、あなたの隣人に対し、「あなたの目の中のおが屑を取り除かせてください」と、どうして言うことが出来るでしょうか。偽善者よ、まず自分の目の中の杭を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、あなたの隣人の目の中のおが屑を取り除くことが出来るでしょう。
(マタイ 第七章 三-五)

十、人間の悪癖の一つに、自分自身の悪を見つける前に他人の悪を見つけるということがあります。自分自身を判断するには、自分を鏡で見るように、とにかく自分の外へ出て、自分を他人だと思って問うてみなければなりません。「自分が行っていることを他人が行っていたら、それを見て私はどう思うだろうか」。間違いなく自尊心というものが、肉体的であれ道徳的であれ、人間に自分の欠点を見ぬふりをさせているのです。このような特徴は根本的に慈善に反しています。なぜなら、真なる慈善とは慎ましく、簡素で寛容だからです。誇らしげな慈善など非常識なものです。なぜなら、この二つはお互いに打ち消し合うからです。実際に、自分の人間としての重要性とその性格の優越を信じている自惚れの強い人が、同時に、他人の持つ悪によって自分を引き立てる代わりに他人の持つ善を目立たせ、自分を目立たなくさせるだけの自己放棄の気持ちを持つことが出来るでしょうか。だからこそ、自尊心は多くの悪癖を生み出し、又、多くの美徳を否定するものでもあるのです。自尊心は人間の行動の殆どにおいて、その根拠もしくは原動力となっています。進歩の一番の障害となる自尊心を、イエスがあれ程打ち消そうとした理由はそこにあるのです。

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