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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第8章

第八章 心の清い者は幸いです

素朴さと心の清さ

思考による罪。姦淫

真なる清さ。洗っていない手

恥。もしあなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい

◆霊達からの指導

子供達を私のもとへ来させなさい

目が閉じている者は幸いです

素朴さと心の清さ

一、心の清い者は幸いです、その人は神を見るからです。
(マタイ 第五章 八)

二、さて、イエスに触って頂こうとして、人々が子供達をみもとに連れて来た。ところが、使徒達は彼等を叱った。イエスはそれをご覧になって憤り、彼等に言われた、「子供達を私のもとへ来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者達のものです。誠に言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることは出来ません」。そしてイエスは子供達を抱き、彼等の上に手を置いて祝福された。(マルコ 第十章 十三-十六)

三、素朴さや慎ましさと心の清さは切り離すことが出来ません。いかなる利己的な考えや自尊心をも取り除かねばなりません。だからイエスは、慎ましさと同じように、心の清さの象徴として子供を例に取り上げるのです。
 しかし、子供の霊であっても、その霊が歳をとっており、肉体を持った生活に生まれ変わった時点で、その前世において脱することの出来なかった不完全性を持ち合わせていると考えた場合、心の清さと子供のたとえは矛盾するように見えます。完全性を達成した霊だけが本当の心の清さというものを私達に教えてくれることが出来るのだと言えます。それは全く正しい考え方です。しかし、現在の人生の視点から見た場合、子供の内というのはまだ非道徳的な意図を示すことも出来ず、私達の目には無邪気で純粋な姿に映ります。そのことからも明らかなように、イエスは天の国が子供達の為にあると言ったのではなく、子供達のように心の清い者の為にあると言ったのです。

四、子供の霊が、既に過去において地上に生きたことがあるのであれば、なぜ生まれたその時から、その霊がどのような霊であるかを示さないのでしょうか。神のなされる業は常に最高の英知であることを忘れてはなりません。子供には、母親の優しさだけが与えることが出来る特別な心遣いが必要です。同時に、その母親の優しさは、子供の無邪気さと弱さの為に更に増すものです。母親にとってその子供は常に天使であり、又そうあるべきなのです。それにより子供は母親の配慮を引き付けることが出来るのです。もし母親がその子供の飾り気のない恵みを受け取る代わりに、その子供の幼稚な振る舞いの中に大人のような性格や考えを感じ取り、ましてやその子供の過去を知ってしまったら、その母親は同じように献身的に子供を世話することは出来ないでしょう。
 一方で、極端に早熟な子供の肉体はその霊の大きな活動に耐えられないことから、知性の活動は肉体の弱さとつり合っていなければなりません。再生が近付くに従って霊は変化し、少しずつ自分自身の認識を失って行き、ある一定の期間一種の眠りのような状態になり、あらゆる能力が潜在的なものとだけなってしまうのはその為です。この変化する状態は、霊が新たな出発点に立ち、その新しい人生において妨げとなるものは忘れてしまう為に必要なのです。しかし、その者の過去はその者の上に働きます。その為、獲得された経験から得た直感によって支えられ、助けられ、道徳的にも知性的にもより大きく、より強く、生まれ変わるのです。
 生まれた時から霊の思考は、その器官が発達するに従って徐々に刺激を受けていくのですが、最初の何年間かは、その霊の性格の基盤を築く考えがまだ眠っている状態にあり、その霊は本当に子供の状態にあると言うことが出来ます。子供の本能が無意識の間、その霊は従順な状態にあり、その霊を進歩させる本質を変化させる印象を受け易く、その間、親にとってはその課された任務を行い易くなっているのです。
 このように、霊は一時的に無垢の衣を纏うことになります。それ故イエスは、魂の持つ過去にかかわらず、子供を清さと素朴さの象徴とし、真実を示したのです。

思考による罪。姦淫

五、「姦淫してはならない」と言われていたことは、あなた達の聞いているところです。しかし、誠に言います。ある女を見つめ、その女に対し情欲を抱くのであれば、心の中ではその女と姦淫を犯したことになるのです。(マタイ 第五章 二十七、二十八)

六、ここで使われている「姦淫」という言葉は、決してその言葉が持つ通常の意味だけによって理解されてはならず、もっと広義に捉える必要があります。イエスは幾度もこの言葉の意味を広め、悪、罪、全ての悪い考えを示す為に使いました。例えば、「誰でも、この罪深い邪悪な世代にあって、私と私の言葉を恥じる者に対しては、人の子も又、聖なる使い達と共に父の栄光の内に到来する時、その者を恥じるでしょう」。(マルコ 第八章 三十八)

 真の清さは行動の中だけにあるのではありません。それは思考の中にも存在し、心の清い者は悪いことを考えることさえもないのです。イエスが言いたかったのはそのことです。イエスは思考による罪をも非難するのです。なぜならそれは不純の印だからです。

七、この考え方から、自然と次の疑問が出てきます。「どんな行動も伴わない悪い思考の影響を、私達は受けているのでしょうか」。
 ここで重要な区別をする必要があります。霊の世界において魂がその進歩の過程を進んで行くと、悪の道に導かれていた魂も、向上しようとする意欲を示すに従って、その自由意志によって少しずつその不完全性を失っていきます。どんな悪い考えも魂の不完全性がもたらします。しかし、浄化しようとして抱く欲求の強さによっては、悪い考えさえもその魂の進歩の為の機会となります。なぜなら、その魂はその悪い考えを精力的に拒絶しようとするからです。悪い考えを拒絶することは、汚点を消そうとする努力の印です。その場合、悪い欲望を満たす機会が現れても、それに負けまいとします。それに耐えることが出来ると、その勝利によってより強く、より満足を得ることが出来るでしょう。
 反対に、悪い考えを拒絶しようという正しい決心をすることが出来ない者は、悪い行動を実現させる機会を求めます。たとえ実現しなかったとしても、その者の意志によってではなく、実現の機会が不足したからなのです。したがって、彼は、実現していた時と同等に罪深いことになるのです。
 要約するならば、悪い考えを心に抱くことさえも望まない者は、既にある程度の進歩が実現していると言えます。又、悪い考えが浮かびながらも、それを追い払おうとする者にとっては、進歩は実現しつつあります。そして、悪い思考を抱き、それに喜びを感じる者にとっては、悪がその完全な形のまま、未だに存在していると言うことが出来ます。一方の者達においては、なされるべきことは既に行われていますが、もう一方の者達においてまだこれから始めなければなりません。正義である神は、人間の思考や行動に対する責任を問う時、こうした全ての段階的な変化を考慮するのです。

真なる清さ。洗っていない手

八、その頃、ファリサイ人達と律法学者達が、エルサレムからイエスのもとに来て言った、「なぜあなたの使徒達は昔の人の言い伝えを破るのですか。彼等は食事の前に手を洗いません」。
 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなた達も自分の言い伝えの為に神の戒めを破っているのですか。神は『父母を敬いなさい』又、『父母を罵る者は死刑に処せられるべきである』とも言われています。しかし、あなた達はこう言います。『父又は母に向かって、あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にします、と言えば、父又は母を敬わなくてもよい』。こうして、あなた達は自分達の言い伝えによって、神の言葉を無にしています。偽善者達よ、イザヤはあなた達のことを上手く予言したものです。『この民は私を口先で敬うが、その心は私から遠く離れています。人間の戒めを教えながら私を無駄に崇めています』」。
 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた、「このことを聞き、良く理解してください。人間を汚すものは口から入るものではありません。人間の口から出るものが人を汚すのです」。
 すると使徒達がイエスに近付いて言った、「今言われたことをファリサイ人達が聞いて、つまずいたことをご存じですか」。イエスは答えて言われた、「天の父が植えられなかった木は全て引き抜かれます。盲人を案内する盲人はそのままにしておきなさい。盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちてしまうことでしょう」。
(マタイ 第十五章 一-十四)
 しかし、口から出るものは心の中より出ており、それが人間を不純にするのです。悪い考え、すなわち、殺意、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、冒涜、悪口は心の中から出ているのです。これらのことが人間を不純にするのです。手を洗わないで食事をしたからといってその者が不純になるわけではありません」。(マタイ 第十五章 十八-二十)

九、イエスが話をされていた時、あるファリサイ人が食事に招待した。イエスはその家に行き、食卓につかれた。ファリサイ人も家に入ると、イエスを見て不審に思った、「イエスは食事をする前になぜ手を洗わなかったのだろうか」。するとイエスは言われた、「あなた達ファリサイ人達は、杯や皿の外側を綺麗にすることには大変気を遣います。しかし、あなた達の心の内側は強欲と悪意に満ち溢れています。あなた達は愚かな者達です。外側を造った神は内側も造られたのではありませんか」。(ルカ 第十一章 三十七-四十)

十、ユダヤ人達にとって、人間の定めた規則を実践し、その規則を厳重に守ることが重要であった為、彼等は神の本当の戒めを破ったのです。単純な物体は形が崩れると消滅してしまいます。道徳的に改善するよりも表面的に行動する方がより簡単であるように、心を清めるよりも手を洗う方が優しいのです。人間は、人間の決めた規則を、何をどうするべきか数えられた通りに実践すれば、それ以上神に求められることはなく、神との約束を果たしていると自分で錯覚してしまうのです。それを指して預言者は言いました。「この民が人間の戒めを教えながら、口先で私を崇めても無駄です」。
 キリストの道徳的教義の中にも、同じことを確かめることが出来ます。しかし、それは置き去りにされ、その結果、多くのキリスト教徒が、昔のユダヤ人達のように、神の救いは道徳的な実践よりも外見的な実践によって保証されると思っているのです。こうした神の法に人間が付け加えたことに対して、「天の父が植えられなかった木は全て引き抜かれます」とイエスは言ったのです。
 宗教の目的は人間を神のもとへ導くことです。それは、人は完成しなければ神のもとへ届くことが出来ないからです。一方、人間を善に向かって向上させない宗教は、どんな宗教であれ、その目的を果たすことが出来ないことになります。人間が悪を働く為の拠り所とするものは、偽りか、或はその根本から歪んでいることになります。外見上の行いが信念よりも先行してしまっている宗教がそれに当たります。外見的な偶像を信じても、それが殺人、姦淫、強奪、中傷、隣人に対し損害を与えること等の妨げとならないのであればその効力は皆無です。そのような宗教は迷信、偽善者、狂信者を生み、善なる人を生みません。
 見かけだけが清いだけでは足りません。何よりも心の清さを持たなければならないのです。

恥。もしあなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい

十一、もし誰かが、私を信じるこの小さい者を恥じるのであれば、ロバが回している臼(うす)を一つ首にかけられて、海の底深く沈められる方が、その者にとって益となります。恥じることばかりの世の中は不幸です。なぜなら、恥じるべきことは行われなければならないからです。しかし恥ずべき行動をとってしまう者達の可哀想なことよ。この小さい者達の誰をも見くびることがないように十分に気を付けなさい。誠に言います。彼等の天使達は天にいる私の父と、いつも顔を向かい合わせているのです。もし、あなたの片手か片足が恥の原因となっているのであれば、それを切り落として、あなたから遠く離れた所へ投げ捨ててしまいなさい。あなた達にとって、片手或は片足だけで生きる方が、両手両足を持ちながら永遠の炎の中に投げ込まれるよりも良いのです。そして、もしあなたの片方の目が恥の原因となっているのであれば、その目を抉り取ってあなたから遠く離れた所へ投げ捨てなさい。あなた達にとって片方の目だけで生きる方が、両眼が揃ったままで地獄の火に投げ入れられるよりも良いのです。
(マタイ 第十八章 六-十、第五章 二十九、三十)

十二、一般的な意味において、恥とはある表面的な方法で道徳や品行に反する全ての行動を指します。恥とはその行動そのものの中にではなく、その行動がもたらす反響の中にあるのです。恥という言葉はいつも、多くの非難を浴びるものであるという意味を含んでいます。多くの人は恥をかくことから免れたことに満足します。なぜなら恥をかくことによって自尊心は傷付き、その者に対する人からの敬意が低下してしまうからです。もし、自分の恥が見逃されたならば、それだけで良心は落ち着くのです。イエスの言葉によれば、こうした人達は「外見的には真っ白だが中身は腐敗に満ちた墓、外側は綺麗だが内側は汚れた壺」なのです。
 福音の中で数多く用いられている恥という言葉の意義はより広く、したがって、場合によってはその意味が理解し難いことがあります。他人の良心を咎めるものという意味として、悪癖や不完全性がもたらす全てのことを指し、反響の有無を問わず、ある個人から個人への悪い作用を意味します。恥とはこの場合、悪徳のもたらす結果のことなのです。

十三、この世では「恥じるべきことは行われなければならない」とイエスは言いました。なぜなら、地上の人間は不完全であり、悪い木が悪い実を結ぶように、悪を働く傾向にあるからです。したがって、このイエスの言葉から、悪とは人間の不完全性の結果であり、人間にとって行われなければならないものではないということを理解しなければなりません。

十四、「恥じるべきことは行われなければならない」。なぜなら人間は、地上で自分の罪を償おうとする中で、自分自身の悪癖に接し、その悪癖の第一の犠牲者となることによって、自らに罰を与え、その悪さを理解することになるからです。悪の中で苦しむことに疲れた時、善の中にその薬を求めることになるのです。こうした悪癖に対する反応は、ある者には罰となり、ある者には試練となります。このようにして、神は悪の中から善を浮かび上がらせ、人間に自らの悪や値打ちのないことをも利用させるのです。

十五、そうであるならば、悪は必要であり、永久に続くのだと言うことが出来るかもしれません。なぜなら、もし悪が消滅してしまったら、神は罪ある者達を罰する強力な手段を奪われてしまい、よって、人間が向上することは無意味なのだと言われるかもしれません。しかし、その時、既に罪ある者がいなくなっていたとしたら、罰することさえも必要なくなるのです。仮に、人類が皆、善なる人間に変わったとしてみましょう。皆が善人なのですから、誰も隣人に悪を働こうとはせず、皆が幸せになることが出来ます。悪の追放されたより進歩した世界とはそのような状態なのです。そして、地球も更に十分に進歩すればそのようになるのです。しかし、幾つかの世界が前へ進んで行く間、一方ではより原始的な霊によって他の世界が形成されていきます。そして、そうした世界は、幸せになった世界から拒絶され、悪に固まった反抗的な不完全な霊達を追放する世界、又は、不完全な霊達が報いを受ける為の世界となるのです。

十六、「しかし恥ずべき行動をとってしまう者達の可哀想なことよ」とはつまり、いつまで経っても悪であり続け、その悪い本能を利用されて無意識の内に神の正義の道具となったとしても、そのことによって悪が軽く見られることはなく、彼等は罰せられなければならないのだということです。例えば、ある恩知らずな息子は、その子を育てなければならない父親にとっては罰、或は試練です。なぜなら、その父親は多分、過去において彼の父親を苦しませた悪い息子であったからで、だから報復の罰を与えられているのです。しかし、その息子は許されるわけではなく、彼の順番が来た時には、自分自身の息子によって、或は別の方法によって罰せられなければなりません。

十七、「もし、あなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい」。この激しい表現を文字通り理解してしまっては馬鹿げており、これは、自分の内にある恥の原因、つまり悪を破壊してしまうことが必要なのだということを意味しているのです。あなたの心から、全ての不純な気持ちや悪癖の源を根絶することです。更には、人間にとって手を切り落とす方が、その手が悪い行動の為の道具として使われるより、そして盲目である方が、ある物を見た時に悪い考えを与える目を持つことよりも、マシなのだということを意味しています。イエスは、その言葉の持つ深いたとえの意味を理解する者に対しては、何も馬鹿げたことなど言っていません。しかし多くの事柄は、スピリティズムが与えてくれる鍵無しには理解することが出来ないのです。

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