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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第5章

第五章 苦しむ者は幸いです

苦しみの正当性

現世に存在する苦しみの原因

前世に存在する苦しみの原因

過去の忘却

甘受しなければいけない理由

自殺と狂気

◆霊達からの指導

善い苦しみ、悪い苦しみ

悪とその薬

幸せはこの世のものではありません

愛する人の死、早過ぎた死

善人であれば死んでいた

志願して受ける苦痛

本当の不幸

憂鬱

志願した試練、本当の苦行

治癒する望みのない病人の命を短縮することは合法でしょうか

自らの命を犠牲にすること

他人の為に感じる苦しみの利益

一、悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです。義に飢え渇いている者は幸いです、その人は満たされるからです。義の為に迫害されて来た者は幸いです、天の御国はその人のものだからです。(マタイ 第五章 四、六、十)

二、貧しい者は幸いです、神の国はその人のものとなるからです。今飢えている者は幸いです、その人達は、やがて飽き足りるようになるからです。(ルカ 第六章 二十、二十一)
 しかし、富んでいるあなた達は、憐れな者です、慰めを既に受けてしまっているからです。今食べ飽きているあなた達は、憐れな者です、やがて、飢えるようになるからです。今笑っているあなた達は、憐れな者です、やがて嘆き悲しむようになるからです。(ルカ 第六章 二十四、二十五)


苦しみの正当性

三、
地上で苦しむ者にイエスが約束してくれる償いは、未来の生活でしか受け取ることが出来ません。未来への確信を持たねば、これらの金言は意味を持たなくなってしまうか、或は人を騙す偽りの言葉となってしまいます。未来への確信を持っていたとしても、苦しむことによって幸せを得るということを理解するのは大変難しいことです。苦しむことにより、より価値のある幸せを得ることが出来るようになるのだと言う人がいます。しかし、それならばなぜ、ある人は別の人より多く苦しまねばならないのでしょうか。なぜ、理由を明らかにされることなく、一部の人々は貧しい生活を強いられ、他の人々は贅沢な暮らしをすることが出来るのでしょうか。なぜ、全てが上手く行かない人々がいる一方で、全てが上手く行き、笑って過ごせる人々がいるのでしょうか。更に理解出来ないのは、なぜ幸せと不幸が、美徳と悪徳の両側に不均等に散らばっているのかということです。徳の高い人達が、はびこる悪者達の間で苦しんでいるのを見ることが出来るのはなぜでしょうか。未来を信じることにより、慰めを得たり、辛抱を得ることが出来ます。しかしながら、こうした普通とは違った考え方も、その理由を教えてもらえないのであれば、それは、神の不公平さを認めているようなものです。しかし、神の存在を認めるのであれば、その永遠の完全性を考慮に入れずに考えることは不可能です。神は万能、完全なる正義、善良であり、そうでなければ神とはなり得ません。そしてもし神が至上の善と正義を持つのであれば、気紛れやえこひいきによって行動するわけはありません。人生の苦しみには理由があり、神が公平である以上、その理由も正当である筈です。このことを全ての人々が納得出来るように、人類がこの原因を理解出来るよう、神はイエスの教えに託して人類を導いてくれました。そして今日、人類はその教えを理解するのに十分成熟した為、神はスピリティズムを通じ、霊達の声に託し、この原因を完全な形で示してくれたのです。

現世に存在する苦しみの原因

四、
人生の苦しみには二通りあります。言い換えるならば、二つの全く違った種類の原因があります。一種類目の原因とは現世の中にあり、もう一種類は現世以外のところに存在します。
 地球上で私達が体験する苦しみを遡れば、その原因の多くは苦しんでいる人自身の性格、或はその人自身の行いの中にあることが分かります。
 しかしそれでは、どの位の人が自分自身に原因があるということを認めることが出来るのでしょうか。どの位の人が自分自身のプライド、野心、不注意の犠牲となっているのでしょうか。
 どの位の人がその規律の無さ、根気の無さ、不適切な行動、きりの無い欲求によって惨めな思いを強いられているのでしょうか。
 本心を無視し、私欲、虚栄心の計算の下に結ばれ、不幸を迎える夫婦が何組あるでしょうか。もう少し慎重に行動し、怒りをこらえることを知っていれば、何組もの不和、口論、致命的な言い争い、離別を防ぐことが出来たのではないでしょうか。
 不節制や、全てにおける行き過ぎた行いがどれだけの身体が不自由な状態や病気をもたらしているでしょうか。幼い時からのしつけを怠った為に、子供との関係が上手くいかなくなってしまった親が何人いるでしょうか。
 子供に対する弱さと無関心が子供の中に自惚れやエゴ、虚栄心の種を植え付け、乾いた心をつくってしまうのです。暫くして、その植え付けた種を収穫する時、親に対し尊敬を欠いた恩知らずな子供を見て驚き悲しむのです。
 人生の変遷による失望によって心を傷付けられた者は、自分自身の良心に問うてみてください。あなたの苦しみの原因を一歩一歩辿って行けば、殆どの場合、それがあなた自身の中に存在することを知り、「これをやっていなければ」とか「あれをやっていればこんなことにはならなかった」などとは言うことが出来なくなるでしょう。
 自分自身のせいでないとすれば、一体誰のせいで苦しまねばならないというのでしょうか。人間はこのように、殆どの場合、自ら自分の不幸の主要原因をつくっているのです。しかしながら、実際はその人自身の怠慢であるのにもかかわらず、自分の自尊心が傷付かないように、そのことを認めずに、運命や神、チャンスの不足のせいにしたり、或は、星とは自分の不注意であるにもかかわらず、星などのせいにしてしまった方がより容易なのです。
 こうした態度は、必ず人生の中に無数の苦しみを生み出すことになります。人間は、その道徳的・知性的な自己の改善によってのみ、これらの苦しみから逃れることが出来るでしょう。

五、人間の法律は悪に応じて罰を与えるようになっています。悪を働き処罰される者は自らの行った悪行の報いを受けることになります。しかし、法律は全ての悪や罪を扱えるわけではありません。法律は社会的な損害を与える罪を処罰するように出来ており、過ちを犯す者個人に損害をもたらす罪を処罰するようにはなっていません。しかし、神は全ての人間の進歩を見守ってくれています。ですから、正しい道から逸れると、どんな小さな過ちであっても神は罰するのです。いかに小さな過ちであったとしても、神の法に反していれば、多かれ少なかれ、避けることの出来ない悲しい結果を必ず得ることになります。小さな罪であれ、大きな罪であれ、人間はその犯した罪に応じて罰せられます。だから、罪を犯した結果として現れる苦しみは、罪を犯したのだという警告なのです。苦しみはその人に善悪の区別を体験として教え、将来の不幸の源となり得るものを改める必要性を教えてくれるのです。そうした動機がなければ、人間は自分を改めようとはしません。罰は与えられないのだと信じていれば、その人の向上は遅れ、更に幸福な人生への到達も遅れてしまいます。
 そうした改善の必要性を認識させてくれるような経験は、時には少し遅れて来ることもあります。生命が既に消耗され、混乱に陥り、苦しみが最早その人を向上させる為には効力を持たなくなった時、人は概してこう言います。「もし、人生のスタートからこうなることを知っていたら、どれだけの過ちを未然に防ぐことが出来ただろう。もし、やり直すことが出来たら、私は全く別の生き方をしていただろうに。でも、もう時間はない!」。その人は、怠惰な労働者が、「今日も何もせずに一日が終わってしまった」と言うように、「人生を無駄にしてしまった」と言うことになるでしょう。しかし、その翌日、労働者の頭上にはまた太陽が輝き、新しい日が始まり、失った時間を取り戻すことが出来るように、人生においても、墓の中で過ごす夜が過ぎると、新しい太陽が輝くのです。その新しい人生の中で、過去の経験や、未来へ向けて固めた決意を生かすことが出来るのです。

前世に存在する苦しみの原因

六、
しかし、その人自身が原因となっている苦しみが現世に存在する一方で、他にも少なくとも見かけはその人の意志とは全く関係なく、宿命のように訪れる苦しみもあります。例えば、親愛なる人や、家庭を支える者の死のように、誰にも防ぐことの出来ない事故、全く手の打ちようの無い富の没落、自然の災害、生まれつきの病気、特に、その不幸な者から働いて生計を立てる手段を得る可能性をも迫害してしまうような病気。身体の障害、知的障害。
 こうした状態で生まれる者は、現世においては、そのような悲しい運命に遭わねばならないようなことを何もしていないし、その償いを受けることも出来ません。又それを避けることは出来ず、それを変えることも出来ず、社会の慈悲の恩恵を受けることになります。なぜ、同じ屋根の下の同じ家族だというのに、この哀れな者の横には、全ての知覚においてその者より優れている人々がいるのでしょうか。
 早く死んで行った子供は、結局、苦しみしか味わうことが出来なかったのでしょうか。こうした問題のいずれに対しても、どの哲学も未だに答えを出していません。どんな宗教も正しい明快な理由を説明することが出来ていません。肉体と魂が同時に生まれ、地球上で少しの時間を過ごした後、取り消すことの出来ない決められた運命を辿るということであれば、こうした不幸や異常は神の良心、正義、意志を否定するものなのでしょうか。神の手もとから離れて行ったこのような不幸な人達は一体何をしたのでしょうか。現世においてこれ程惨めな思いを強いられ、良い道も悪い道も選択することが出来ないのであれば、既に決められた償いか罰をまた将来にも受けなければならないのでしょうか。
 全ての結果には原因が存在するという公理から、これらの苦しみにも何か原因があっての結果であると言える筈です。正義に溢れる神の存在を信じるのであれば、この原因も正当であると考えられるに違いありません。いつでも原因は結果の先に立つものですが、原因が現世には見当たらないのであれば、その原因は現世以前、すなわち、前世に存在すると考えなければなりません。一方で、神は善行や、行ってもいない悪行を罰する筈がありません。もし私達が罰せられるのであれば、私達が悪行を働いたからである筈です。とすれば、もし、現世で悪行を行っていないのであれば、前世においてそれを行っているということになります。現世か前世のいずれかにおいて苦しみの原因が存在するということは、免れることの出来ない事実なのです。このように、私達の道理は、そうした事実の中に働く神の正義というものがいかなるものかを教えてくれるのです。
 つまり、人間は現世の間に犯した過ちだけ罰せられているわけでも、又現世の内に完全に罰せられて終わるわけでもありません。過去における原因が生んだ結果から逃げることなく最後まで従う必要があるのです。悪人の繁栄は一時的なものでしかありません。もしその人が今日償うことが出来なければ、明日償わねばならないのです。すなわち、今日苦しむ者は、過去における過ちに対する償いを行っているのです。一見その人にとって相応しくない苦しみも、その存在理由があるのです。苦しむ者はいつもこのように言うべきです。「神よ、過ちを犯した私をお赦しください」と。

七、前世に存在する原因から来る苦しみや、又は現世に始まった原因による苦しみは、常に人生におけるその人自身の過ちから来るものです。厳しく、公平に行き渡る正義によって、人は他人を苦しめた方法と同じ方法で苦しむのです。冷たく非人間的な人は、冷たく非人間的に扱われることになります。自尊心の高過ぎる者は屈辱的な経験をさせられるでしょう。ケチで利己的な人、物質的な富を悪用する人は、その有難さや必要性を感じさせられることになるでしょう。悪い息子であれば、自分の子供に苦しめられる、というように様々です。
 このように、人生の多様性や、償いの世界としての地球上での運命が、地上の善人と悪人の間に不均一に分配された人間の幸、不幸の理由を説明してくれます。この不均等性は単なる見かけ上のものでしかありません。なぜなら、私達は現世においてしか各々の問題を見ることが出来ないからです。しかし、思考によって心を持ち上げ、連続性のある人生を考えてみれば、霊の世界において決められている通りに、各々にはその人に相応しい人生が与えられているということを理解することが出来、そこに神の正義が欠けることはないということが分かります。
 人間は、低級な世界に生きているということを忘れてはなりません。人間がそこに存在するのは、人間の不完全性の為なのです。苦しみに出遭う度に、そのような苦しみも、より高級な世界へ行くことが出来れば味わうことはないのだということを思い出し、又、地上へ再び戻って来るかどうかということは、各々の努力とその向上にかかっているのだということを認識しなくてはなりません。

八、人生における労苦は、強情な霊や無知な霊に与えられます。それにより、そうした霊は自分が何をしているのかを自覚した上で正しい選択をすることが出来るようになります。本当の苦しみを心から体験することによって欠点を改め、向上しようという意志を持った霊によって、自発的に選択され、受け留められる苦労があるのです。課された任務を上手く成し遂げることが出来なかった霊は、その任務に就くことによって得ることが出来た筈のメリットを逃さないよう、改めて最初からその任務が課されることを望みます。こうした任務としての苦しみは、過去の過ちへの償いであると同時に将来へ向けての試練なのです。だからこそ、人間に改善の可能性を与え、最初の過ちを永久に批難することなく、人間を絶対に見放すことのない神の好意に感謝しようではありませんか。

九、しかし、人生の苦しみの全てがある特定の過ちの証であると信じてはなりません。多くの場合、苦しみとは、自分の浄化と進歩の速度を早める為に、霊自身が選んだ道であることがあります。そのような場合、苦しみとは償いとしてだけではなく、試練としての意味を持つのです。しかし、試練は必ずしも償いであるとは限らないのです。完全性を得ることの出来た者は試される必要はないのですから、試練に立たされたり、償いの場が与えられるということは、その霊がまだ劣等であることの証明に変わりはありません。しかし、ある段階への進歩を成し得た霊が、更により上の段階への進歩を望むことによって、苦しみに打ち勝った分の報酬として向上をしようと、その向上に値するだけの苦境での任務を神に求めることがあります。善行を、生まれた時から既に身に付け、高揚した魂を持ち、高潔な感覚を持ち、過去からの悪をどこにも引きずっていないような人で、キリストのように苦しい境遇に対し忍従し、不満をこぼすこともなく、神の加護を求める人がいるならば、その人はこのような場合に当てはまるということが出来るでしょう。反対に、その人にとって不満の原因となったり、その人の神への反感の原因となるような苦しみとは、過去の過ちへの償いであると言うことが出来ます。
 ある苦しみがその人に不満をもたらさなかったのであれば、その苦しみは間違いなく試練であると考えられます。そうした苦しみは、霊自身が自発的に求めたものであり、過ちへの償いとして強要されたものではありません。すなわち、そうした苦しみは、その霊の強い決意の証であり、進歩の印なのです。

十、霊は、完成することなく完全なる幸福を求めることは出来ません。どんな小さな汚点があっても、その霊が不完全であれば至福の世界へ入ることは出来ません。ある伝染病が広まった船に閉じ込められた乗組員達が、どの港に到着しても、伝染病に感染していないことが証明されるまでは上陸の許可が下りないのと同じことです。霊は幾度にも亘る再生によって、不完全性から少しずつ脱却していくのです。人生における試練は、上手く乗り越えることが出来れば、霊を進化させます。償うことにより、過去の罪を清算し、霊は浄化されます。それらは傷を癒し、病人を治す為の薬であり、重症であればある程、薬も強いものである必要があります。つまり、多く苦しむ者は多くの罪を償う必要があるのであり、早く治してくれる薬が与えられたことを喜ぶべきでしょう。その苦しみに忍従することによってそれを有益なものとし、その苦しみがその人にもたらしてくれたものを不満をこぼすことによって失ってしまうことがないように出来るかどうかは、その人自身にかかっているのです。そうすることが出来ないのであれば、再び同じような苦しみを繰り返さねばならないでしょう。

過去の忘却

十一、
過去の人生のことを覚えていないから、過去の経験を生かすことが出来ないと考えるのはつまらぬことです。神が過去をベールで覆うことにしたのは、その方が有益と考えられたからに違いありません。過去を覚えていたとしたら、実際に多くの不都合を生じるでしょう。過去の事実によって酷く辱められることもあるでしょうし、又、過大な自尊心を持つようになってしまうこともあるでしょう。私達の過去は、私達の自由意志を束縛することになるでしょう。いずれの場合であれ、過去を覚えていたとしたら、社会的関係において必ず大きな混乱を招くことになります。
 霊はよく、過去に過ちを犯した相手に償う為に、過去に生活した時と同じ環境、同じ人間関係の中に生まれ変わります。もし、こうした関係の中で、過去に憎んでいた人が再び存在していると分かってしまったら、又憎しみが湧いてくるでしょう。もし過去に攻撃した相手を前にしたらいたたまれない気持ちになるでしょう。
 神は私達の向上の為に、私達が必要とするものを、丁度足りるだけ与えてくれているのです。すなわち、神は私達に良心の声と本能的な習性を与えてくれました。私達に不利益になるものを私達から取り除いてくれたのです。
 人間は生まれた時から、それまでに獲得したものを持って生まれます。生まれるものは、過去に生きていた通りに生まれ変わるのです。一回一回の人生の全てが新たな出発点です。過去がどうであったかというのは、重要なことではありません。もし罰せられているのであれば、過去に過ちを犯したからです。その人の現在の悪い習性は、その人自身がまだどこを正さねばならないのかを示しているのです。そうであるからこそ、そうした自分自身の悪い性癖を見逃さないよう、その人は注意しなければなりません。なぜなら、既に完全に正された悪は、表には出て来ないからです。良心の声が善と悪との区別を警告し、悪の誘惑に乗らないようにする力を与えてくれる時、人は善なる決断をすることが出来るのです。
 過去の忘却は、地上で生活をしている間だけのものです。霊の世界へ戻れば、自分の過去を思い出すことになります。したがって、過去の忘却とは、一時的な記憶の中断に過ぎません。それは私達が寝ている間、地上での生活の記憶に一時的な中断があるにもかかわらず、次の日、寝た前日やそれ以前の記憶を失っていないのと同じことです。
 過去の記憶を取り戻すのは、死後だけのことではありません。霊は過去の記憶を失うことはなく、人間は睡眠中、身体の寝ている間、霊がある種の自由を得ることが出来、又、過去の人生の記憶を持っているということを経験は証明しています。したがって、霊はなぜ苦しむのか知っており、又その苦しみが正当なものであるということも知っています。過去の記憶は、霊が地上で寝ずに活動している間だけ消えています。その霊にとっては苦しく、社会的に生活する上で不利益ともなり得る過去の細かな記憶を消されているということが、その解放の時間を上手く利用することが出来る霊にとっては、新しい力を得ることが可能になるのです。

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