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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 第4章

第四章 生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることは出来ません

復活と再生(リインカーネイション)

再生が家族の絆を強める一方で、人生が一度限りであれば絆は断たれることになる

◆霊達からの指導

受肉(リインカーネイション)の限界

受肉の必要性

復活と再生(リインカーネイション)

四、
再生は、復活という名によってユダヤ人の教義の一部として存在していました。死と共に全てが終わると信じていたサドカイ人だけが復活を信じていませんでした。この点に関するユダヤ人の考えは、その他の事柄に対する考えと同様にあまりはっきりと定まっておらず、なぜならそれは、魂や魂と肉体との結び付きについて、ぼんやりとした不完全な認識しか持っていなかったからです。正確にどのような方法で、どのようになるのかは知らぬまま、かつて生きていた人が再び生きることが出来ると信じていました。彼等はそれを「復活」と呼んでいましたが、それをスピリティズムではより正確に「再生(リインカーネイション)と呼んでいます。「復活」という言葉は、既に死亡した肉体が蘇るという考えをもたらします。しかし、朽ちた肉体が既に散乱してしまったり、他の物質に吸収されてしまった後、同じ肉体が再び蘇るということは物理的に不可能であることを科学は証明しています。再生とは霊魂が物質的な生活に戻ることですが、過去において用いた肉体とは全く関係のない、その霊の為に特別に準備された別の肉体に戻ることです。故に復活という言葉はラザロには適用出来ますが、エリアやその他の預言者達には適用出来ないのです。ですから、もし使徒達が信じていたようにバプテスマのヨハネがエリアであったのであれば、ヨハネの肉体はエリアの肉体であった筈はなく、また、ヨハネには子供の時代があり、その両親も知られていたのです。つまり、ヨハネは再生したエリアであり得ますが、復活したエリアではないのです。

五、ファリサイ人達の中に、ユダヤ人の指導者であるニコデモと言う名の者がいた。彼はある夜、イエスのもとへ来て言った、「先生、あなたが神のもとから送られ、師として私達を指導に来られたことを知っています。なぜならあなたが行うような奇蹟は、神が共にある者でなければ起こすことが出来ないからです」。イエスは答えて言われた、「誠に言います。生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることは出来ません」。するとニコデモは言った、「既に年老いた者がどうすれば生まれ変われるのですか。再び生まれる為に母親の胎内に入ることが出来ますか」。イエスは答えて言われた、「誠に言います。人は水と霊から生まれなければ神の国に入ることは出来ません。肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である。再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません。霊は好きなところに息を吹き、あなた達はその声を聞きますが、あなたはそれがどこから来るのか知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません。霊から生まれる人には皆同じことが当てはまります」。ニコデモは答えて言った、「そんなことがどうしてあり得ましょうか」。イエスは彼を見て言われた、「あなたはイスラエルの指導者でありながら、こんなことも分からないのですか。誠に言います。私達は知ることしか述べず、見たことに対してしか証しません。それなのにあなたは私の証を受け入れません。私があなた達に地上のことを言っている時にそれを受け入れないのであれば、私が天のことを言っている時、どうしてそのことを受け入れることが出来るでしょうか」。(ヨハネ 第三章 一-十二)

六、ヨハネがエリアであったという考えや、預言者達が再び地球上に生きることが出来るという信仰は、福音の多くの場所に、特に先に引用した部分に見ることが出来ます。もしこの信仰が誤っていたのであれば、イエスは、その他多くの信仰を否定したようにこの信仰を否定していたに違いありません。しかしそれとは反対に、イエスはその信仰をその権威において全面的に認め、次のように言うことによって必要条件として位置付けました。「生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることは出来ません」。そして、「再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません」と付け加えることにより、繰り返しています。

七、「人は水と霊から生まれなければ」という言葉は、洗礼の水による精神的生まれ変わりと解釈されてきました。しかし、原文には単純に「水と霊から生まれなければ」と書いてあるだけです。更には、「霊から」という言葉は幾つかの翻訳において「聖なる霊において」という言葉と置き換えられてしまい、最早同じことを意味しなくなっています。この重大な点は、福音に対する最初の解釈に端を発していますが、いつかは誤解がなくなり明らかになることでしょう。

八、この「人は水と霊から生まれなければ」という言葉の真なる意味を理解するには「水」という語句の意味に注意しなければなりません。なぜなら、その言葉は本来の意味によって用いられていないからです。
 昔の人々が持つ自然科学の知識は非常に不完全なものでした。彼等は地球が水から生まれたと思い、水を絶対的な発生源となる要素であると考えていました。そのことは「創世記」にも「神の霊は水の上に持ち上げられた。水の上に浮いた」と記されています。「水の中で空が創られ、天の下にある水は一か所に集まり不毛なものが現れる」「水は生きた動物や水の中を泳ぐ動物、地上や空を飛ぶ鳥を生む」。
 この考え方に従えば、水は物質性のシンボルとなり、それは霊が知性のシンボルであるのと同じです。「もし人が水と霊から再び生まれなければ」もしくは「水と霊によって再び生まれなければ」という言葉は、故に次のような意味を持つことになります。「もし人は肉体と魂によって再び生まれなければ」。元来こうした意味でこれらの言葉は理解されていたのでした。
 こうした解釈は、次の言葉からも正しいことが分かります。「肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である」。イエスはここに、肉体と霊とをはっきり区別しています。「肉体から生まれるものは肉体」という言葉は、明らかに肉体が肉体のみから発して、霊はそれとは独立しているということを示しています。

九、「霊は好きなところに息を吹き、あなた達はその声を聞きますが、あなたはそれがどこから来るのか知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません」。このことは、望む者に対して命を与える、つまり人間に魂を与える神の霊について述べているのだということを理解することが出来ます。この最後の「どこから来て、どこへ行くのか」というのは、誰も霊の声を聞くということが何であったか、また霊が何であったかも知らなかったことを意味します。もし、霊もしくは魂が、肉体が創られたのと同じ時に出来たのだとすれば、その始まりを知ることを意味するので、それがどこから来たのかが分かることになります。いずれにしろ、このくだりは魂が以前から存在していたという考え方を神聖化しているのであって、それはつまり存在の複数性を示しているのです。

十、しかし人が一度死に、肉体がその霊から切り離され、消耗してしまうと彼はどうなるのか。一度死んだ人は再び生きることが出来るのだろうか。私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む。(ヨブ 第十四章 十、十四-Le maistre de Sacyの翻訳)
 人は死ぬと全ての力を失い、消滅する。その後どこに在るのか。人は死ぬと再び生きるのか。何かの変化が訪れるまで、私は毎日の戦いの中で待ち続けるのだろうか。(同前 プロテスタント-Osterwaldの翻訳)
 人間は死ぬと、永遠に生きる。地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ。(同前-ギリシャ教会の翻訳)

十五、これら三つの翻訳の中には、存在の複数性が明確に表現されています。ヨブが、全く知る筈もない水の洗礼によって更生することについて言いたかったのだとは誰にも想像出来ないでしょう。「人は死ぬと再び生きるのか」。一度死ぬという考えや再び生きるという考えは、何回も生まれたり死んだりするという考えを含んでいます。ギリシャ教会の翻訳にはこの考えがより具体的に表されており、実際にそれが可能であることを示唆しているかのようです。「地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。つまり、地上における生活へ戻るということです。ここで意味することは明白であり、あたかも「私は家を出て行きますが、やがて戻って来ます」と言っているかのようです。
 「私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む」。ヨブは明らかに、人生の謎に対する戦いについて触れたかったに違いありません。「私か変わることを望む」というのは、甘受することです。ギリシャ語の翻訳においては、「私は待つ」とありますが、そのことは、新たな人生があることをより望んでいるかのようです。「地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。それは、死の後、一つの人生と次の人生を分けるインターバルの間で、再び戻る時を待つ、とヨブが述べているようです。

十六、故に復活という名の再生の原理がユダヤ人達の基本的な信仰の一端であったことは疑いようもありません。イエスや預言者達が正式な形で確認した事項です。したがって、再生を否定することはキリストの言葉を否定することになります。しかし、他の多くの事柄に関してもそうであるように、いつかこの言葉が先入観なしに熟考された時には、このことの持つ権威を確認することになるでしょう。

十七、この宗教的観点から見た権威には、事実の観察から導き出された証拠により、哲学的な権威を加えることが出来ます。結果から原因へと遡る上で、再生は絶対的な必要性として、人類に付いて回る条件として現れます。一言て言えば、それは自然の法として現れるのです。動きが隠された動力の存在を証すように、言わば物質的に、結果によって再生の存在が明らかになります。再生のみが人類に対して「どこから来たのか」「どこへ行くのか」「なぜ地球上にいるのか」を説明し、人生に見られるあらゆる変則や、見かけ上の不公平を正当化することが出来るのです。
 魂の前存在や存在の複数性なくしては、多くの場合福音の教えは理解し難いものとなってしまい、その為にこれ程に矛盾した解釈がなされているのです。真なる意味が蘇る為の鍵はこの原理の中にあるのです。

再生が家族の絆を強める一方で、人生が一度限りであれば絆は断たれることになる

十八、
再生によって家族の絆はどんな破壊をも被ることはなく、一部の人達が懸念するようなことはありません。それどころか、一層絆は強まり固く結ばれることになります。逆に再生しないという考え方においては、絆を破壊してしまうことになります。
 宇宙において霊達は愛情や好意、意向が似通っていることによって結び付いたグループ、もしくは家族を形成します。共に出会うことは幸せなことで、こうした霊達はお互いに相手を探し求めます。肉体を持って生まれることは、一時的に彼等を引き離しますが、霊界に戻ると、旅から戻って来た友達同士のように集まります。お互いに進歩する為努力し合おうと、しばしば肉体を持って生きる世界まで他方を追って行くことがある為、地上で同じ家族に生まれたり、同じグループに生まれることもあります。一方が地上に生まれ、他方が生まれて来ないからといって、思考の上での結び付きまでも失うことにはなりません。自由である側は、束縛されたもう一方を守ります。より進歩した側は、送れた側の進歩の為に努力します。一回毎の人生の後には、皆が完成へ向かう道のりの上で一歩進んでいることになります。物質への執着が少なくなればなる程、相互の愛情はより生き生きとしたものとなり、それは、愛がより浄化されれば、エゴイズムや情熱の陰に脅かされることがなくなるのと同じことです。したがって、このように、互いに愛情によって結ばれた者同士は、お互いを結び付けるそれぞれの気持ちにいかなる打撃をも受けることなしに、制限されることのない回数の物質界における人生を過ごすことが出来るのです。
 ここで述べているのが魂と魂を結び付ける真なる愛情のことであり、肉体の破壊をも超えて生き続けるものである一方、この世の人々は霊の世界において求め合う動機となることのない感情のみによって結び付いています。永続し得るのは霊的な愛情だけなのです。肉体的な愛情は、その愛情の源となった要因がなくなると消滅します。しかし、魂は永遠に存在するのですから、霊の世界においてはこのように消滅してしまうことはありません。お互いの関心事を満たす為だけに結ばれた関係において、一方は他方に対して、さほど重要ではない為、死はそうした人達を天と地とに分けることになります。

十九、親族の間に存在する絆と愛情は、彼等を近付けた、以前から存在するお互いの思いやりの印です。そうしたことから、ある人の人格や趣味、趣向が、肉親や親戚に全く似通っていない時、その人はその家族の人間ではないと言われることがよくあるのです。そのような言葉は、想像する以上に深い真実を言い表していることになります。家族の中に、このような敵意のある者や見知らぬ者の霊が肉体を持って生まれて来ることにより、そのことがある者には試練となり、また他の者にとっては進歩の手段となることを神は許すのです。そのようにして、悪しき者は善い者達と接触し、善い者達が払ってくれる注意によって少しずつ改善されていきます。悪しき者達の性格はより穏和になり、その習慣は洗練され、敵意は消えていきます。このように、地上において異なった人種や民族が混ざり合うのと同じように、違った部類の霊達が家族の中に混ざり合うのです。

二十、親族が再生の結果無限に増えていくのではないかという恐れは、利己的な考えの上に立ったものです。このように考えることは、そうした者に、多くの人達を迎えるだけの広い愛が欠けていることを証明することになります。多くの子供を持つ父親が、その子供達の内の一人を愛す時、例えば一人っ子であった場合に愛する時よりも少ない愛情を持って愛するということがあるでしょうか。利己的な者達よ、心を落ち着けてください。そうした恐れに根拠はありません。ある人が十回再生したということは、霊界において十人の父親と母親、十人の妻とその時に出来た子供達や新しく出来た親族に出会うということではありません。霊界ではその愛情の対象となった人々に必ず出会いますが、そうした人達とは地上において様々な続柄で、或は、同じ続柄によって結ばれていたに違いないのです。

二十一、今度は再生を否定する教義がどういう結果をもたらすかを見てみましょう。その教義は必然的に魂の既存性を否定します。魂は肉体と同時に創造されることになり、魂同士の間にはいかなる既存の関係もなく、したがって、魂同士は全く見知らぬ者同士ということになります。子供にとって父親は親しみのない存在となります。親子関係は、いかなる霊的な関係でもなく、ただの肉体的な親子関係だけに限られてしまいます。そして、先祖がどうであったとか、どんなに素晴らしい人であったからといって栄光に思うことは全くなくなってしまいます。再生の考えにおいては、先祖も子孫も、既に知り合った者同士で、以前共に生活し、愛し合った可能性があり、また、その先においてもお互いの好感の絆をより強める為に集まることが出来るのです。

二十二、以上のことは過去についてのことです。再生のない考え方から生まれた基本的な教義によれば、未来については、魂はたった一度の人生の後、全く悔い改めようのない運命を定められてしまうことになっています。決定的な運命の定めはあらゆる進歩を止めることになります。なぜなら、幾らかでも進歩があるならば、決定的な運命ではないことになるからです。善く生きたか、悪く生きたかによって、魂達は直ちに至福の住み家か、永遠の地獄へ行くことになります。直ちに、そして永遠にそうなることによって、霊達は離れ離れとなり、再び出会う希望も奪われ、父母と子、夫婦、兄弟や友人同士であっても、決して再会を確信することは出来なくなります。そこには家族の絆の絶対的な切断が起こります。
 再生とそこに見られる進歩によってこそ、愛し合う者は皆地球上でも宇宙においても出会うようになり、共に神に向かって引かれて行くことになるのです。誰かが途上で衰えてしまえば、その人は進歩と幸福を遅らせることになりますが、全ての希望を失うことではないのです。その人を愛する者達によって助けられ、勇気付けられ、守られることによって、いつの日か埋もれたぬかるみから抜け出すことになります。再生によってのみ、永遠の連帯が生者と死者の間に存在することになり、そのことから愛情の絆が強まることになるのです。

二十三、要約すれば、墓石の向こう側の未来について、人間には四つの選択肢が用意されていることになります。一、唯物主義者の考える無、二、汎神論者の考える宇宙への合一、三、教会の考える運命の定められたアイデンティティーの存続、四、スピリティズムの考える無限の進歩を可能にするアイデンティティーの存続。最初の二つの考え方においては、家族の絆は死と同時に断ち切られ、未来において魂達が再生出来る希望は残されていません。三番目の考え方は、魂同士が、天国であれ、地獄であれ、同じ場所へ行く限りは再会する可能性があります。漸進的な進歩と切り離すことが出来ない人生の複数性の考え方においては、愛し合った者同士の関係の継続は確実であり、そうした関係が真なる家族を形成することになるのです。

霊達からの指導

受肉(インカーネーション)の限界

二十四、受肉の限界はどこにありますか。

正しく言うならば、受肉(インカーネイション)に正確な限界はありません。霊の体を構成する被いだけを考慮に入れる場合、その被いの物質性は霊の浄化に従って薄れていくのです。地球よりも進歩した幾つかの世界においては、その被いの密度は薄れ、軽量化し、より希薄であり、結果的には変化を受けにくくなります。より進んだレベルにおいて、その被いは透き通り、ほぼフルイド化した状態になります。徐々に非物質化し、最後にはペリスピリト(→第三章 和訳注1)と間違える程になります。生きる為に連れて行かれる世界に応じて、霊はその世界の性質に適当な被いを纏うことになるのです。
 ペリスピリト自体も連続的な変化を遂げていきます。純粋な霊達の条件となる完全な浄化まで、徐々に純粋化していきます。大きく進歩した霊達の為の特別な世界が存在するのであれば、劣った世界でのように束縛されることはありません。彼等のある種解放された状態は、彼等があらゆる場所に行くことを可能にし、必要に応じて各々に託された役割を果たしに行くことが出来るようになるのです。
 物質的な視点のみから受肉を考えるのであれば、地上においてそうであるように、劣った世界にのみ限られるものです。したがって、そこから早く解放されるかどうかは、霊達の自己の浄化の為の努力にかかっているのです。
 また、肉体を失っている間、つまり、肉体を持った存在と存在の合間において、霊の状態は、その霊の進度に応じた世界との関係を保っている、ということを考慮に入れなければなりません。したがって、死後の霊界において、霊は多かれ少なかれ幸福で、脱物質化の程度によって、自由となり高尚になるのです。(聖王ルイ パリ、1859年)

受肉の必要性

二十五、受肉は罰であり、罪を負う霊達だけがその苦しみを被ることになるのですか。

 
霊が肉体の世界で過ごすことは、物質的な行動を通じて神が彼等に託したその意思の実行を遂げる為に必要なことなのです。それらは彼等の為に必要なことであり、彼等に強いられた活動は彼等の知性の発展を助けることになります。卓越した正義である神は、その子達に全てを平等に分配しなければなりません。その為、全ての子達の為に同一の出発点、同一の能力、遂行すべき同一の義務、進む上での同一の自由を設けたのです。いかなる特権も、これを与えることはひいきとなり、不公平となります。しかし、受肉は全ての霊にとって、一過性の状態に過ぎません。それは人生を開始する上で神が彼等に強いる任務であり、同時に彼等がその自由意思を行使する為の最初の経験なのです。この任務を熱意を持って遂行する者は速いスピードで、苦しみもより少なく最初の段階を通り過ぎ、自分の労苦のもたらす結果をより早期に味わうことが出来るようになります。反対に、神が与えてくれた自由を悪用する者はその歩みを遅らせ、そのことは頑固さとなって現れ、受肉の必要性を無制限に引き延ばすことになり、そうなると受肉が罰と化すことになるのです。(聖王ルイ パリ、1859年)

二十六、<備考>一般的に知られた次のような例えがこの違いを理解し易くしてくれます。学生は、高等な科学を学ぶようになるには、そこまで導いてくれる一通りの講義を受けなければなりません。こうした講義は、学生がその目的を達成する為の手段であり、それらがいかなる努力を強いることになろうとも、学生に強要された罰ではありません。もしその学生が努力家であれば、道を短縮し、それにより、その道のりで出遭う茨も少なくなります。一方で怠惰と不精の為に同じ講義を繰り返し受けさせられる人達の場合、同じようにはいきません。講義における努力が罰となるのではありません。同じ努力を再び開始しなければならないことが罰となるのです。

 同じことが地上の人間にも起こります。霊としての生活を始めたばかりの原始的な霊にとって、受肉は知性を発展させる為の手段です。しかしながら、道徳的な感覚が広く発展したより明晰な人にとって、既に終わりに到達していたであろう時に、苦しみに満ちた肉体生活のステップを踏むことを再び強いられることは、不幸でより劣った世界での滞在を延長しなければならないという意味で、罰となります。反対に、道徳的進歩の為に積極的に努力する者は、物質的な受肉の時間を短縮することが出来るばかりでなく、より優れた世界と自分を隔てている途中のステップを一度に進んで行くことが出来るのです。
 では、霊達はある天体に一度だけ生まれ、次の人生は他の天体において過ごすということはないのでしょうか。もし地球上において全ての人間が知性的にも道徳的にも全く同じレベルにあったとしたら、同様の見方を認めることが出来るでしょう。しかし、未開人から文明人に至るまでの人々の間に存在する相違は、彼等がどのような段階を昇らなければならないかを示しています。ところで、受肉は有益な目的を持っている筈です。では、幼少で亡くなる子供達の儚い受肉の目的は何でしょうか。自分にとっても他人にとっても、利益なく苦しんだのでしょうか。神の法は全てが卓越した英知に満ちており、何も無益に行うことはありません。同じ地球上における再生によって、同じ霊達が、再び接触し、お互いに被った損失を取り戻す機会が与えられることを神は望んだのです。又、そればかりでなく、以前にあった関係を通じて、自然な法である連帯、兄弟愛、平等に寄り添い、家族の絆が霊的な土台のもとに確立することを望んだのです。

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