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カテゴリ:★『スピリティズムによる福音』 > スピリティズムによる福音 序章


 本書には、スピリティズムの教義に基づいたキリストの道徳的原理の解説、
 並びに、日常生活での様々な場面におけるその応用が著されている。

 揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても
 道理と真正面から立ち向かうことの出来るものでなくてはならない。

 -アラン・カルデック


 序文

 天の美徳である神によって送られた霊達は、前進する偉大な軍隊のように、天命に従って地球上のあらゆる場所へと広がって行きます。流星のように行く道を照らし、盲者達の目を開かせていきます。闇を散らし、驕り高ぶる者を辱め、真に正しい者を讃える時代が来たのです。
 偉大な天の声は、ラッパのように鳴り響き、天使達はそれに合わせて合唱します。人類よ、あなた達を、神のコンサートにお招きします。あなた達の手でリラを奏で、あなた達の声を合わせ、宇宙の隅から隅まで響き渡る神聖なる歌を唄いましょう。
 親愛なる兄弟、人類よ、私達はあなた達と共にあります。お互いを愛してください。そして天におられる神の望みに身を任せ、「神よ、神よ」と唱えてください。そうすれば天の国へ入ることが出来るでしょう。

 真実の霊


●備考
 このメッセージは、霊媒を介して伝えられたものですが、スピリティズムの真なる性格と、本書の目的を同時に要約しているものです。その為、ここに序文として掲載致しました。

序章

一、本書の目的

二、スピリティズムの教義の権威

三、歴史的背景

四、ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者達

  ソクラテスとプラトンの教義の要約

  キリスト教とスピリティズムは同じことを教えている

一、本書の目的

 福音書に記された内容は五つの部分に分類することが出来ます。
 一、キリストの生涯における出来事 二、奇跡 三、予言 四、教会の教義を確立させる為に用いられた言葉 五、道徳的な教え
 最初の四つの部分は議論の対象となってきましたが、最後の一つに関して異議を唱える者は誰もいません。この神聖なる法の前には、不信心さえも屈するのです。道徳的な教えは、全ての宗教が交わるところであり、この法の旗の下には、信仰の対象がどのように違っていようとも、万人が宿ることが出来ます。教義の違いが引き起こす、様々な宗教的論争の対象にはなり得ないものなのです。もし、これについて議論しようとするならば、その宗派は、自らに対する非難に出遭うことになるでしょう。又、そのような宗派は殆どの場合、一人一人の改革を強いる道徳的な部分よりも、神秘的な部分に執着しているものです。
 キリストの道徳的な教えとは、人類の個人的・社会的生活のあらゆる状況における行動の規則であり、最も厳格な正義によって築かれた、全ての社会関係の原則となるものです。幸福を手に入れる為に何よりも間違いのない道であり、ベールに覆い隠された未来の生活の一端を垣間見せてくれるものなのです。本書を発刊する極めて重要な目的はこの部分にあります。
 誰もが福音の道徳に感心し、その崇高さと必要性を唱えます。多くの人が、他人が言ったことを信じたり、格言と化した教えの言葉を用いたりしていますが、その深い意味を知る者は非常に少なく、そこから結果を引き出すことが出来る人は、更に少ないと言えます。それは殆どの場合、読み方が難しくて、多くの人が福音を理解出来ないからです。これでは、意味を理解することなく祈りを唱えるのと同じで、全く無益なことになってしまいます。福音の朗読が、義務感から強要されて行われるものになってしまっていることは否めません。
 福音を理解出来ない原因の一つとして挙げられるのが、装飾的な表現や意図的に神秘性を加えられた言葉の多用です。方々に散らばった道徳の規律は、物語の間に入り交じっている為に見失われてしまい、全体を一つとして理解し、朗読の対象となるものと、熟考の対象となるものとに区別することが出来なくなってしまうのです。
 これまでにも、福音の道徳に関する様々な専門書が確かに書かれてはいます。しかし、その現代的で文学的なスタイルは、素朴な簡潔さを失ったことで本来の魅力と威厳を薄れさせ、中には、最も際立った教えを、格言的な表現に簡略化してしまったものさえあります。簡略化された教えは気の利いた格言に過ぎず、その教えが伝えられた時の状況や場面の説明が伴っていない為に関心が奪われてしまっているのです。
 こうした不具合を避ける為に、本書では信仰する宗教が何であるかに関わらず、全世界共通の道徳の法として構成することの出来る条項を集めました。引用については、その考えを発展させる為に有効な箇所は残し、テーマに関連しない部分だけを除外しました。又、節の分割に関しても、サシー(Sacy)による翻訳に正確に従いました(→和訳注1)。しかしながら、教えを年代順に負うことが不可能なこと、又、そうすることによって得られる実質的な利点がないことから、相応する性格に従って系統的に分類し、一つ一つの教えが繋がっていくよう、出来る限り努めました。章の番号と節の番号を付したことにより、必要に応じて一般的な分類で調べることも出来ます。
 しかし、これは本書の物理的な特長であり、二次的な目的でしかありません。最も肝心なことは、曖昧な部分をきちんと解説し、生活のあらゆる条件に当てはめることを考えながら、教えを十分に展開させて、皆の手の届くところに置くことです。本書では、私達を見守ってくれている善霊達の助けを借りながら、そうすることを試みました。
 福音書や聖書など、一般的な聖典には不明瞭な部分が多く、中には本当の意味を理解する為の鍵が見当たらない為に、道理に適っていないのではないかと誤解を受けるようなものもあります。スピリティズムにはこのような鍵が完全な形で存在しています。教義を真剣に研究した者達を納得させたように、後になれば、その鍵がどれ程役立つものかを知ることが出来るでしょう。スピリティズムは、太古より人類のあらゆる時代、そして全ての場所に存在してきました。文献、信仰、記念碑等、あらゆるものの中にその形跡を見つけることが出来ます。曖昧さを解く鍵と長い歴史の中で育まれた英知が、未来へ向けて新しい地平線を拓くと共に、過去の謎に明るい光を投じるのです。
 各々の戒律について、補足として幾つかの指導を選択して加えてありますが、それらは様々な国で様々な霊媒を通じて霊達が伝えたものです。つまり、一か所だけから得られたものではないということです。したがって、特定の個人やそれを伝えた者達の影響を受けているというものではありません。この、様々な所から得られたという事実は、霊達が国や人種を超えて同じ教えを伝えていること、又、そうした教えによって、どんな特権を受けた者もいないのだということを証明するものでもあります。(→備考1)。
 本書は全ての者の為にあります。本書から全ての者が、キリストの道徳に則して行動する方法を知ることが出来ます。その方法とは、スピリティストにとっては特に関係の深いものです。人間と不可視の世界との関係が今後も永遠に成り立って行くおかげで、霊達が全ての国々に教えてくれた福音の法は、最早死語ではなくなるのです。なぜなら、一人一人がそれを理解することによって指導霊達の忠告に従い、継続してそれらを実践することを強いられることになるからです。霊達によってもたらされるこうした指導はまさしく天の声であり、人類の謎を解き明かし、福音の実践へと導いてくれるものなのです。

●備考1
それぞれのテーマに関して本書の中で引用されたもの以外にも、他の町や他のスピリティスト・センターにおいて多くの通信が受けられていたことが勿論考えられます。しかし、無意味な繰り返しによって単調になることを防ぐ必要があった為、又、基調と形式において本書の計画に最も適当なものに選択を絞らねばならなかった為、本書に記すことの出来ないものについては今後の出版の為にとっておくこととしました。
 霊媒達に関しては、彼等の名前を記すことは避けました。なぜなら、名前を記すことは自尊心を満足させることでしかなく、彼等はそのようなことには全く価値を見出さないからです。本当に真剣な霊媒は、霊達と通信するという自分の役割が、単に受動的なものであり、自身の価値を高めるものではないということをよく理解しています。その知性的な仕事に自分は機械的に協力したに過ぎず、驕ってしまうことが愚かであることを知っているのです。

●和訳注1
和訳においては、ここに記されたSacyによる翻訳を参照することが出来ない為、FEB版のポルトガル語訳の内容と、日本聖書協会発行の聖書(旧約聖書 1955年改訳、新約聖書 1954年改訳)を参照し、聖書の引用としました。

二、スピリティズムの教義の権威 霊達による教えの普遍的管理

 もし、スピリティズムの教義が、全く人間だけの考えによって成り立ったものであったとしたら、この教義を実際に思い付いた人を啓発すること以外に、何の保証もすることは出来なかったでしょう。この世における唯一絶対の真理を手に入れようと考えることは誰にも出来ません。
 又、もし霊達が、啓示をたった一人の人間にだけもたらしていたとすれば、その啓示がどこから来たのかを誰にも保証することは出来ないでしょう。なぜなら、霊達から教えを受けたと主張する者一人だけの言葉を、私達は信じなければならないからです。その教えを、いやしくも私達がこの上なく誠実に受け止めたとしても、その者が出来ることは、せいぜい自分の周囲にいる人々を納得させること位でしょう。一つの宗派を設立することが出来たとしても、世界中の人々を集結させることは出来ません。
 神は、新しい啓示が最も速く正当な方法によって人類に届くことを望んだ為、地球の端から端まで啓示が運ばれて行くよう霊達に託し、霊達はあらゆる場所で啓示を残しました。特定の人間だけにその言葉を聞く特権を与えるようなことはありませんでした。啓示を受ける者が一人であれば騙されたり、間違えたりします。しかし何百万もの人々が同じことを見たり聞いたりした時には、そうではありません。更に言うならば、一人の人間を消すことは出来ても、全ての人を消すことは出来ないのです。そして、本を焼却することは出来ても、霊達を燃やすことは出来ません。たとえ全ての本を焼却したとしても、教義の源は無尽蔵であり続けます。それは教義の源が地上にあるのではなく、どのような場所にも現れる霊達の中にあるからで、誰もがそこに胸の渇きを癒すことが出来るのです。
 後は教義を普及させる人々がいればよいのです。霊達は、常に全ての人々に対して働きかけているのですが、そうした霊達の存在に全ての人が気付くわけではありません。その為、霊達は、無数の霊媒の力を借りて教義の布教を行っているのであり、世界中の様々な場所から教えを示してくれているのです。
 もし、ただ一人の紹介者しか存在しなかったとしたら、その通訳の内容がどんなに良いものであっても、スピリティズムはこれ程までに知られることにはならなかったでしょう。その通訳者がどんな階層に属していようとも、多くの人々から警戒され、全ての国々で受け入れられることはなかったと思われます。
 霊達は、地球上のあらゆる場所で、全ての国の人々や全ての宗派、全ての政党に対して通信してくれるので、誰もがそれを受け入れることが出来ます。スピリティズムには国境がありません。又、既存の宗教の一部をなすものでもありません。誰もが他界した家族や友人から指導を受けることが出来るのですから、社会階級を問うこともありません。そうでなければ、スピリティズムが人類全てを兄弟愛へと導くことが出来ないからです。中立的な立場を維持しなければ、不和を鎮めるどころか勢い付けることになってしまいます。スピリティズムの力と、その大変速い普及の理由は、こうした遍在性ある霊達が普及させているということにあります。
 たった一人の人間の言葉でしかなければ、出版という力を借りたとしても、全ての人々に知れ渡るまでには何世紀もかかることでしょう。それを、幾千もの声が地球上のあらゆる場所で、最も無知な者から最も博学な者まで、誰もがそれを受け継ぐことが出来るように、同じ原理を同時に宣言してくれるのです。これは、今日までに生まれたいずれの教義も享受したことがなかった有利な点です。したがって、スピリティズムが真理であるならば、人類に嫌われたり、道徳的な革命が起こったり、或は地球が物理的に崩壊したりすることがあったとしても、その影響が霊達のもとまで及ぶことはないのですから、恐れることはないのです。
 このような特別な立場にあることからスピリティズムに与えられた有利な点は、こればかりではありません。スピリティズムには、人々の野心や、霊同士の矛盾から生じるどんな意見の違いからも攻撃されることはないという保証があります。意見の相違が起こることが障害となることは間違いありませんが、善と悪とは隣り合わせですから、その障害自体が、その障害を取り除く薬を持ち合わせているのです。
 霊達は、自分達の能力には差異があって、真理の全てを手にすることはとても出来ないということを自覚しています。ある種の謎については、限られた霊にしか知ることが許されておらず、一人一人の霊の知識は、各々の浄化の程度に応じているのです。
 平凡な霊達は、多くの人間が知る以上のことを知ることはありません。しかし中には、人間同様、自分の知らぬことを知っていると思い込んで、己惚れたり知ったかぶりをしたりする者がいるのです。自分の考えが真実であると思い込む者もいます。又、自分達が描く理想郷を真の理想郷だと信じ込ませようと、自分達よりも高級な分類に属する霊の名前を平然と名乗って、人を騙そうとする霊がいることも知られています。結局のところ、現世的な偏見や考えを捨て去っているのは、物質的な観念から完全に脱却し、より高級な分類に属する霊達だけなのです。
 ですから、啓示を得たとしても、それが道徳的な教えの範疇から外れたものである場合は全て、その啓示が個人的な性格を持った不確実なものであると疑う必要があります。このような啓示は一人の霊の個人的な意見として捉えるべきであり、それを絶対的な真実として軽率に広めては、慎重さに欠けることになります。
 その啓示が確実なものかどうかを証明する為の第一の分析方法は、霊から伝えられた全てのことを、もれなく理性によって分析することです。良心や厳格な理論、既に得られている肯定的な事実に矛盾する理論は、それがどんなに表敬に値する名前によって署名されていたとしても、全て否定されるべきです。しかしながらこの分析方法は、自分自身に対して絶対的な自信を持っていない限り、行うのが難しいと言えます。実際、知識が欠けていたり、自尊心の強い傾向にある人が多かったりすることから、多くの場合、この分析方法だけでは不十分でしょう。では、他にどんな方法があるのでしょうか?大勢の人々の見解を求め、それを自分の意見の指針とすればよいのです。これは、霊達が私達に与えてくれている方法でもあるのです。
 霊達は、様々な場所で複数の人間に、同じ教えを示します。霊達からの教えが一致していることが、最良の真偽の証明になるのです。しかし、それがある決められた条件下で示されたものであることが大切です。例えば、ある疑わしき事項について、一人の霊媒が様々な霊に対して尋ねるというのでは、証明する力が弱くなります。なぜなら、その霊媒が憑依の下にある場合、もしくは人を騙す霊と結び付いている場合、その霊が同じことを様々な名前を用いて述べるに違いないからです。又、一つの集会所で様々な霊媒を通じて得られた教えが一致したとしても、やはり、霊媒達が同じ影響下にある可能性がある為、それが確実な啓示であることを十分に証明することにはなりません。

 霊達の教えの唯一の保証が存在します。お互いに知らない多数の霊媒達を通じ、様々な場所で霊達によって自発的に伝えられた啓示が一致していることです。

 これは、二次的な関心事に関する通信についてではなく、教義の原理に関した通信についてそうであるということに注意してください。経験によりある新しい原理が述べられる時、それは自発的に様々な場所で、同時に、その形式や真意までも同じ方法で伝えられるということが分かっています。ですから、もしある霊が、風変わりな方法で自分の意見を前面に出して真実を除外するようであれば、その意見は広まることなく、あらゆる場所において伝えられる確実な真理の教えの前に、必ずや崩されることになるでしょう。そのような事例は、これまでにも沢山あります。スピリティズムの始まりにおいて、可視の世界と不可視の世界との関係を支配する法が知られる以前には、こうした不一致を排除する方法が、部分的に現れた、霊現象に対する個々の独自の説明を崩していったのです。
 教義の原理を確立する際に、私達はこうした不一致を排除する方法に頼りました。霊達の教えの一致です。私達の考え方の一致ではありません。真実は、私達がつくり上げたものではないのです。ですから、「信じてください。なぜなら私達が信じなさいと言っているのですから」などと、私達が至上の真実の裁定者であるかのように主張することは決してありません。私達の意見は個人的な意見にしか過ぎず、それが真実であるにせよ偽りであるにせよ、他の考え方と比べて絶対に確実であるとも考えていません。私達がそのことを真実としているのは、単にある原理が教えられたからではなく、一致した容認を受けたからなのです。
 地上のあらゆる場所に、霊達からの通信を受ける、千に近い敬虔なスピリティズムの集会所があり、それぞれの受けた啓示が一致することで、どんな原理を確立しているのかを観察する条件が、私達には備わっています。この観察が、今日まで私達を導いて来たのです。そして又今後も、スピリティズムが新たに開拓しなければならない分野へと導いてくれるでしょう。なぜなら、フランス国内を始め、諸外国から来た通信を注意深く観察すると、それぞれの啓示には共通した特別なメッセージが込められており、スピリティズムが新しい方向に進もうと、前へ向かって大きく踏み出す時が来たことを示唆しているからです。
 これらの啓示は、隠された言葉によってなされることが多い為、それらを受けた人達にもしばしば見逃されてきました。又、自分達だけが啓示を得られるのだと、勘違いしてしまう人もいました。霊達から送られる啓示は、一つ一つを個別に受け取ったというだけでは、私達にとってどんな価値も持ち得ません。それらの通信内容が一致していることで初めて、重要性を持つことになるのです。各々が同じ意味の通信を受けていたことは、後に公開されて知ることになります。こうした全体的な動きについて、どう扱うかの判断を助けてくれている私達の指導霊達に助力を受けながら、私達は観察・研究したのです。
 こうして世界的に証明されることは、スピリティズムの未来永劫の普遍性を保証し、それに矛盾する全ての理論を打ち消すことになります。それを実現することが出来るようになった時こそ、スピリティズムは、真実の基準となり得るのです。
『霊の書』『霊媒の書』に著された教義が継承され続けて来たのは、人々がこれらの本に書かれたことを証明する啓示を、あらゆる場所で霊達より直接受けたからです。万一、霊達が、これらの本の内容と矛盾することを世界各地に出没して伝えていたとしたら、他の空想的な概念の全てが被ったように、これらの書物はとうに支持されなくなってしまっていたことでしょう。そうなると、いくら出版社が本を出したところで無駄な努力です。しかしながら、そもそも『霊の書』『霊媒の書』は、出版社から助けを得ることが出来ませんでした。それでも道を閉ざされることなく、速い速度で広まっていきました。そこには霊達の助力があったのであり、彼等が十分な意志をもって普及させたことになり、人間の悪意をも圧倒したのです。いかなる思想も、霊達から発せられたものであれ、人間から発せられたものであれ、あらゆる対決の試練に耐え抜くことが、誰にも反対出来ない力の存在を示すことになるのです。

 仮に、本書に対抗する内容の本を書くことに喜びを感じる霊がいたとしましょう。そして、敵意を持って、スピリティズムの教義の信用を失わせようと、偽の通信を引き起こしたとします。しかし他の全ての霊が、その霊と反対のことを言っていたとすれば、その霊が書いた書物が本書に一体どんな影響を及ぼすことが出来るでしょうか。どんな考え方であれ、自分の名を名乗って掲げるのであれば、このように多くの霊達との合意を得ようとしないことには、それが存続する為の保証を得ることは出来ません。たった一人の唱える主義主張と皆が唱えるものとの間には、一瞬から永遠までの距離があります。何百万もの友好的な声が届き、それが宇宙の隅々から家庭の中にまで聞こえ亘る時、それを汚し、その価値を失わせようとする論議に何が出来るというのでしょうか。この理論については、何も出来ないということを既に実証済みです。スピリティズムを倒そうと意図して、これまでに書かれた無数の出版物はどうなったでしょうか。その内の一冊でも、スピリティズムの歩みを遅らせることが出来たでしょうか。現在に至るまで、そのようなことが重要な問題として議論されたことはありません。いずれの書物も、それぞれが勝手な考えを伝えたのに過ぎず、霊達が伝える真の啓示に従ったものではなかったのです。
 一致の原則は、スピリティズムが特定の個人の都合のいいように変更を加えられたり、利益目的の宗派に変えられたりしないように保証するものでもあります。根本的な神意を曲げようとする者は、成功することはないでしょう。なぜなら、霊達の教えは普遍的なものであり、霊達は、真実から遠ざけようとするいかなる変更をも地に倒そうとするからです。
 こうしたこと全てから根本的な真実が導かれます。既に確立された公認されている考えに対抗しようとする者は、確かに、ごく限られた場所で一時的に動揺をもたらすことが出来るかもしれません。しかし、その時においても、又、未来においても、全体を支配することは決して出来ないのです。
 又、霊達によって与えられた指導であっても、それがまだ教義によって解説されていないことに触れており、孤立して存在している内は、それが法をなすものではないのだということを強調しておきます。故に、結局のところそうした指導は、今後解明されることが必要なものという制限付きで、受け入れられなければなりません。
 これらの指導を公表するか否かについては、この上なく慎重に吟味する必要があります。そしてそれを公表してもよいと判断された時には、必ず、それが正確な啓示であるという確認を事前にとった上で、まだ一致による容認を受けていない、個人的な意見に過ぎないものとして公開することが大切です。軽率であるとか、浅はかな信心だと非難されたくなければ、ある主義主張を絶対的な真実であると公開する前に、その確認がとれるのを待つことです。
 人知を超越した英知によって、優秀な霊達は啓示を行います。教義の大きな問題については、知性がより高い水準の真実を理解することが出来るようになるに従って、又その状況がその新しい考えを送信するに相応しくなった時、徐々に伝達していきます。このような計画があったので、最初から一度に全てのことを伝えなかったのです。今日においても未だ全てを伝えられてはおらず、だからといって、機が熟していない内から啓示を求めたところで、与えられるものではないのです。神がそれぞれの事柄に対して割り当てた時間を早めようとすることは、無駄なことです。なぜなら、時間を早めようとした時、本当に真剣な霊達はそれに同調することを拒むからです。軽率な霊は、真実に囚われることなく、全てのことに返事をします。その為に、機の熟していないあらゆる質問には、いつも矛盾した答えが返って来るのです。
 この原則は、個人的な理論によってもたらされたものではありません。霊達が置かれている状況から必然的にもたらされたものなのです。ある一人の霊があることをある場所で言う一方で、何百万もの別の霊がその反対のことをどこかで言うのであれば、推し量られる真実とは、たった一人、もしくはほぼ一人と見られる者が持つその考えの中にある筈はありません。誰か一人が、その他全ての者に反対されながら、理に適っていると主張しようとすることは、人間の間で理屈に合わないのと同様に、霊達の間でも理屈に合いません。本当に思慮深い霊達は、ある問題に関して十分に理解しているという自信がない限り、自分が絶対に正しいと主張して、その問題を解決することは決してありません。彼等は、自分の個人的な観点からその問題を扱っていることを宣言し、その確認を待つことを勧めます。
 その考えがどんなに美しく、正しく、偉大であったとしても、啓示を受けたばかりの時は、あらゆる意見を集約することが不可能です。したがって、複数の意見が衝突するのは避けられないことです。しかし、複数の意見を衝突させることは、真実をより際立たせる為には必要なことであり、偽りの考えが直ぐに取り除かれる為にも、早くから起きた方が良いことなのです。ですから、スピリティストはこれに関して恐れを抱く必要は全くありません。孤立したあらゆる思い上がった考えは、普遍性を持つ偉大で強力な基準の前に、自ら淘汰されることになるのです。
 ある一人の意見に他人が集まるのではなく、異口同音に発せられる霊達の声に集まるのです。それは一人の人や、私達や、スピリティズムの正統性を確立させることになる別の誰かでもありません。又は誰であれ、一人の霊が強要しに来るのでもありません。それは神の指示により、地球のあらゆる場所において通信する霊達の教えの普遍性に集まるのです。それがスピリティズムの教義の根本的な性格であり、その力であり、権威です。神はその法が揺るがぬ基礎の上に君臨することを望み、その為に一人の儚い頭をその基礎としなかったのです。
 派閥や妬み深い競争相手、宗派、国家さえも存在しない、それ程強力な審判の前には、あらゆる反対意見も、野心も、個人的な優位性に立った自惚れも崩壊してしまいます。私達が自分自身の考えによって至上の法を変更しようとすれば、自らを破滅させることになってしまうのです。神のみが論争すべき問題を決定し、異論者には閉口させ、道理に適う者にはその正当性を与えるのです。こうした天からの威厳あるあらゆる声の前に、一人の人間や霊の意見に何が出来るというのでしょうか。一つの意見、それは海の中に落ちて消滅する一滴の水や、嵐によって打ち消される子供の声よりも小さなものなのです。
 普遍的な意見こそが最高の審判であり、それは最後の時に発せられることになるのです。普遍的な意見はあらゆる個人的な意見によって形成されています。もしその内の一つが真実であれば、秤にはその相対的な重量しか示されないことになります。それが偽りであれば、その他の意見に対して勝ることはありません。この広大な集合の中に全ての個人的な偏った考えが消えていくことになり、人類の自尊心(→和訳注2)はここでも生き延びることが出来ないのです。
 神の意志の下に働く霊達の動きは既に出来上がっているのです。今世紀は、その働きが輝くことにより、不確実な部分を明らかにすることなしに終わることはないでしょう。既に土地は十分に耕されている為、今からその時までは使命を受けた力強い声が、人類を一つの旗の下に集めることになります。それが実現するまでの間、二つの相対する主義の間を彷徨う人には、一般的な考えがどちらの方向に向かって形成されていくかを観察することが出来るでしょう。その方向を正しく示すのは、様々な場所において通信する霊達の大半が発言することであり、それが、二つの主義の内のどちらが生き残るかを示す確かな印となります。

●和訳注2
「自尊心」という言葉には、「自分の人格を大切にする気持ち」という肯定的な意味もあります。しかしながら、自分の人格が他人と比べてより優れているとの思いから、「自尊心」が過ちの原因となってしまっているのも事実です。又、本書では神の基準から見た道徳性を扱っており、その前には不完全な人間が尊いと信じることも小さく映ってしまう場合があります。したがって、本書では「自尊心」という言葉が克服すべきものという意味で使われています。

三、歴史的背景

 福音のくだりには、当時のユダヤ人社会の習慣を特徴付ける語彙がしばしば用いられている箇所があることから、より理解を深める為には、そうした語彙が持つ正しい意味を知っておく必要があります。いずれも今日では、最早当時と同じ意味を持たない為に、その意味を誤って解釈されることが多く、不確実性をもたらす原因になっているのです。これらの語彙の意味を正確に理解することにより、これまで妙だと感じられていたような金言についても、その真の意味を知ることが出来るでしょう。

サマリア人-十部族の分裂の後、サマリアはイスラエルから分裂した王国の首都となった。幾度も破壊されては再建され、ローマ時代には、パレスチナの四つの分割された地区の一つであるサマリア国の長となった。偉大なるエロデは、贅沢なモニュメントを美化し、アウグストゥスを讃え、彼をギリシア語でセバステと命名した。
 サマリア人達は、殆どいつもユダの王達と戦争状態にあった。分裂の時代以来、深い敵意が二つの民族の間に持続されることになり、お互いに避け合うような関係になっていった。その溝は更に広がり、宗教的な祭を祝う時でさえ、エルサレムに行かなくてもいいように、自分達だけの宮を建て、教義に幾つかの変革を加えた。彼等はモーゼの法が記された『モーゼ五書』だけを用い、それらに後で付け加えられたその他のいずれの書物も用いなかった。彼等の聖典は最も古いヘブライ語で書かれていた。正統派のユダヤ人にとって彼等は異教徒であり、それ故に蔑視され、敵視され、迫害されることになった。お互いに信仰の起源は同じであったにもかかわらず、二つの国家の間に根強く浸透した敵意は、宗教的な意見の不一致によるものであった。当時のプロテスタント達である。
 今日に至っても、ナブルス及びジャファといったレバンテの一部の地域には、サマリア人が存在する。彼等は他のユダヤ人達よりも厳格にモーゼの律法を守り、サマリア人同士で結婚をする。
ナザレ人-古代の法において、一生涯、もしくは一時的にでも純粋さを完全に保つことを誓約したユダヤの人々に与えられた呼び名。彼等は貞節を守り、アルコールを飲むことを避け、髪を伸ばしていた。サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネはナザレ人であった。
 イエスがナザレ出身であったことにちなみ、後になってユダヤ人達は初期のキリスト教徒達にこの呼び名を与えた。
 又、この呼び名は、西暦初期200~300年に存在した異教の宗派にも与えられた。この宗派はエボナイト派と同様に幾つかの原則を持っており、モーゼの法とキリストの教義の実践の両方を混在させていたが、四世紀に消滅した。
 パブリカン(徴税官)-古代ローマ時代において、所得税を始めとするあらゆる税金の徴収を引き受けていた人々を指して言う呼び名。ローマを始め、ローマ帝国全土でこのように呼ばれていた。アンシャン・レジーム時代のフランスで見られた競売人や貸借人のような人々であり、その姿は今日も目にすることが出来る。彼等は、一部の者から不当に徴税するなど、不正な手段によって利益を得ていたが、危険を伴う職務であったことから、人々は彼等が蓄えた富に対して目をつむっていた。パブリカンという名は後になって、公的資金を管理する人々や、それに従属して働く代理人までをも指すようになった。今日では、慎重さに欠ける財政官や代理人の代名詞として、軽蔑の意味を込めて用いられている。不当な手段によって富を得た人を指して、「パブリカンのように貪欲である」とか「パブリカンのように金持ちである」という表現が使われることもある。
 ローマの支配下において、ユダヤ人は中々税金徴収を受け入れず、パブリカンを大いに苛立たせていた。やがてユダヤ人の中に多くの反発が生まれ、そこから宗教的な問題に転化し、税金を徴収することを法に反するものであると考えたのである。そして、ゴロニテのユダと呼ばれた者を中心に、税金を支払わないことを原則とする強大な政党までもが組織された。結果としてユダヤ人達は、税金とそれを徴収する任務にあった者を嫌い、あらゆる種類のパブリカンを嫌悪するようになった。パブリカンの中には尊敬すべき人物がいたにもかかわらず、その職務故に蔑視され、又、彼等と関係を持っていた人々までもが同じ非難を受けた。ユダヤ人の有力者達は、こうした人々と親しくなることは、我が身に危険を招くことだと考えていた。
 関税徴収人-階級の低い税徴収者達で、主に町に入る為の税金の徴収を行っていた。その役割は、関税の徴収を行う税関職員の職務内容にほぼ相当する。当時は、パブリカン(徴税官)が一般的に反感を受けていた為に、関税徴収人も同じように非難を受けざるを得なかった。福音の中で、しばしば関税徴収人が罪深い人々の表現として用いられているのは、このような理由からである。罪深い人々とはいっても、堕落した者や浮浪者という意味は含まれていなかった。関税徴収人は、「悪い仲間を持つ人々」の同意語であり、他の人々と共に生活するに相応しくない人々という意味で用いられていた。
ファリサイ人(ヘブライ語で分離・区別を意味する「parush」がその語源)-ユダヤ人の神学の中で、伝統は重要な位置を占めていた。その神学は、聖典の意味に従って代々継承された解釈を教義の条項として採用し、編集されたものから成り立っていた。博士達の間では、最も単純な言葉や形式の問題について、中世におけるスコラ学派の神学的議論に類するような、終わりのない論議がしばしば交わされた。そこから様々な宗派が生まれ、各々が真理を独占しようとして、お互いを憎み合うようになった。
 この時に生まれた宗派の内、最も影響力を持っていたのはファリサイ人達であったが、その長であるヒレル(Hillel-このファリサイ人の宗派を設立したヒレルと、その二百年後に生き、ヒレリズムとして知られる忍耐と愛の宗教的社会的原則を築いた同名のヒレルを混同してはならない)は、バビロニアに生まれ、有名な学校を設立し、そこでは聖書のみに信仰を抱くべきであると教えた。ファリサイ人の起源は紀元前180~200年に遡る。ファリサイ人達は様々な時代において迫害されたが、中でも激しかったのは、ユダヤの王であり教皇であったヒルカノ(Hircano)と、シリアの王であるアリストブーロスとアレクサンドロスの時代であった。しかし、後者がファリサイ人達に名誉を与え財産を補填したことから過去の勢力を回復し、西暦70年頃にエルサレムが没落するまでそれを維持することになった。没落後はユダヤ人達が離散した為にその名は消えていった。
 ファリサイ人達は宗教論争に積極的に参加した。外見的な儀式や習慣を厳格に守る人々であった。ユダヤ教を改革しようという熱意に満ちた革新者達を敵視し、その主義を厳格なまでに貫き通す人々でもあった。しかしこれらは、細心の注意を払った熱心な見せかけにしか過ぎず、実際は、ふしだらな習慣には目をつむり、自尊心が強く、何よりも支配することに過剰なまでの欲望を抱いていた。彼等にとって宗教とは、誠実な信仰の対象というよりも、自分達の欲望を満たす為の手段に過ぎなかったのである。見せかけや目立ちたがること以外に、どんな美徳をも有していなかった。しかし、中には民衆に大きな影響を与える者もいて、民衆からは聖なる人々であると見られていた。そんなことから、ファリサイ人達は、エルサレムにおいて大きな勢力を持っていたのだった。
 神を信じていたというのではなく、せいぜい神や魂の不滅、永遠の罰、死者の復活(→第四章 四)を信じているふりをしていただけである。イエスは法の中で何よりも簡素さや魂の質を重んじており、殺す学問よりも生を与える魂を重要視した為、その使命の間に彼等の偽善を暴こうとした。その為、ファリサイ人達の中に残忍なイエスの敵が現れた。ファリサイ人達は主要な聖職者達と同盟を結び、民衆が反乱を起こしてイエスを消すようにけしかけたのである。
書記官-主にユダヤの王の秘書やユダヤ軍の監督官に与えられた呼び名。後にモーゼの律法を民衆に解説する博士達の呼び名として用いられるようになった。彼等の従う主義、及び改革者達に対する敵対心には、ファリサイ人達と共通している点があることから、イエスはファリサイ人達を戒めるに当たって、対象者として彼等をも含めた。
シナゴーグ(集合、集会を意味するギリシャ語の「synagoge」がその語源)-ユダヤの国には、エルサレムのソロモンの宮一つしかなかったが、そこでは宗教の様々な儀式が行われた。ユダヤ人は毎年そこへ行き、過越祭り、奉納の祭り、神殿の祭りといった主要な祭りがある度に巡礼した。こうした機会には、イエスもそこへ行くことがあった。その他の町には宮がない代わりにシナゴーグがあった。そこではユダヤ人が毎週土曜日に集まり、長老や書記官、律法学者達が指揮をとって公式に祈った。又そこでは聖典の朗読も行われ、続いて解説や説教が行われ、誰もが参加することが出来た。そうしたことから、イエスは司教ではなかったが、土曜日になると、シナゴーグで教えを説いたのであった。
 エルサレムが没落してユダヤ人が分散した後、シナゴーグは、ユダヤ人達が生活を続けた町で、その宗派の祭りを行う寺院となった。
サドカイ派-紀元前248年頃に形成されたユダヤの宗派であり、その名は創始者のサドックに由来する。不死と復活を信じず、良い天使と悪い天使をも信じない。とはいえ、彼等は神を信じていた。死後に待ち受けるものは何もないので、一時的な報酬だけを目的に神に仕えていたのである。彼等によれば、その報酬は神の意志により決められているという。サドカイ派は、このように考えることによって、肉体的な感覚を満たすことを人生の根本的な目的としたのである。法典については、旧法に従った。伝統やいかなる解釈をも受け入れなかった。善の行いをし、法を簡素かつ純粋に守ることを、外見的な儀式の実践よりも上に置いていた。彼等は当時における唯物主義者、多神教者、官能主義者であったのだ。宗派に属する人は少数であったが、幹部に重要な人物が何人かいた為、ファリサイ人と敵対する政党となった。
エッセニア人-紀元前150年頃、マカベウの時代に創設されたユダヤ人の宗派の一つ。修道院のような場所に住み、道徳的・宗教的結社として活動していた。その寛大な習慣や厳格さを特徴とし、神と隣人に対する愛と霊魂の不滅を教え、復活を信じていた。独身生活を営み、奴隷制と戦争を非難し、その財産を分かち合い、農業に従事した。不死を否定した官能主義のサドカイ派や、見せかけだけの美徳や単に表面的にだけ厳しい習慣を持っていたファリサイ人とは違って、エッセニア人達は宗派論争に決して参加することはなかった。彼等の説く道徳原則の内容と生活様式が、初期のキリスト教徒達のそれと似通っていることから、イエスはその任務を開始する前は、エッセニア人の社会に属していたのではないかと多くの人々に思わせることになった。イエスがエッセニア人達のことを知っていたことは確かであるが、その社会に属していたことを証明するものは何も存在せず、それについて書かれたものは全て仮説に過ぎない(→備考2)。
セラペウタ(「仕える、面倒を見る」を意味するギリシャ語「therapeuein」が転じて、「神に仕える、治療者」を意味する「therapeutai」になった)-キリストと同時代のユダヤの宗派で、特にエジプトやアレクサンドリアに存在した。エッセニア人との関係が深く、あらゆる美徳の実践を受け入れた。食事は極端に質素であった。又、独身主義であり、孤立した生活を送ることをよいと考え、宗教結社を形成していた。アレクサンドリアのユダヤ人でプラトン主義哲学者のフィロンは、セラペウタをユダヤ教の一宗派として考えた最初の人であった。一方、エウセビオス、(聖)ヒエロニモス、及びその他教会の司教達は、彼等をキリスト教徒であると考えた。実際にそうであったか否かは別にせよ、エッセニア人と同様にセラペウタも、ユダヤ教とキリスト教を統合させた面影を残していることは明らかである。

●備考2
 エッセニア人によって書かれたと言われる『イエスの死』は全くの偽りの書物であり、その唯一の目的はある考えを支えることに過ぎない。その著書自体の中に、それが現代に書かれたものであることが証明されている。

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