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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 地上の喜びと悲しみ

霊の書 地上の喜びと悲しみ 目次

幸福と不幸

愛する者の死

失望・忘恩・裏切られた愛情

相性の悪い結婚

死の恐怖

生の倦怠-自殺

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自殺してはならない理由


○愛する者を失うことは、取り返しのつかないことであり、また自分の力ではどう仕様もない事です。これこそ悲しみの中の悲しみではないでしょうか。
「金持ちにも貧者にも等しく襲い掛かるこの悲しみの源こそ、人類普遍の法である。これは試練であり罪滅ぼしであるのだから。しかし、諸君等は既に友人等と交通する方法をもっており、それから慰めを得ている。また、もっと直接的に諸君に感覚される別の方法が、将来あるだろう」

○死者と交通することは、神聖を汚すものだという意見は、どのように考えられますか。
「思慮と共感をもって、敬虔な気持で心を込めてやれば、また招霊もそれに相応しい敬意を込めて行えば、神聖を汚すなどということはない。その証拠に、諸君を愛している霊達が、諸君を訪れるのを楽しみにしているではないかね。彼等は諸君等に思い出してもらい、言葉を交わすのが嬉しいのである。だが、もし軽々しい気持でこれを行えば、神聖を汚すものとなるだろう」
〔注解〕霊と交通できることは最大の慰めである。先立った身内の者や知友達と通信できるのだから。私達が招霊すれば、彼等は私達の傍に来る。私達が語れば、彼等は答える。彼と我々との間には、もはや別離はない。彼等は私共に助言してくれ、我々が彼等を記憶していることを、彼等は喜んでくれる。私共は、彼等の新しい環境の詳細を知り、彼等が幸福であることを知り、やがて番が回って、次は我々が確かに彼等に加わるのだと、こう悟ることは我々にとっての満足である。

○後に残された者達の慰めようもない悲しみ、これは当の悲しみの対象である霊自身に、どんな影響を及ぼしますか。
「霊は人が自分を思ってくれることには感銘するし、また自分が愛した人達を名残惜しくは思っている。だが、いつまでも酷く悲しみ続ければ、霊本人にも苦痛を与える。と申すのは、このように悲しみ深ければ、来世への確信とか神への信が欠けていることが目に映るから。また、このことは、悲嘆者の進歩の障害、やがて二人が再会する為の障害ともなりかねないと、かように思うからである」
〔注解〕霊は肉体から解き放たれると、地上にあった時より、ずっと幸福になるので、彼の新しい生命への変化を悲しむことは、彼の幸福を嘆くことになる。今二人の友人があり、牢に閉じ込められていたとする。二人はいつか釈放されることになっているが、一人が先に放免されたとする。この友人が釈放されたことを、獄に残った一人が嘆くことは、思いやりがある事だろうか。自分と同じように、その友人が獄に囚われたまま永く苦しむことを望む事は、愛情ではなく自分本位の気持ではなかろうか。地上で互いに愛し合っている二人の間についても、同じ事である。最初に地上を去る者は、最初に釈放されるのである。もう一人は、彼の釈放を、やがて来るべき自分の番を耐えて待ちながら、喜んであげるべきなのである。
 来世が実在し、しかも我々の身近に存在し、それに、愛しい者達は今でも愛情を持ち続けている確かな証拠がある。それだけでなく、我々は彼等と別れ別れになってしまった訳ではない、この事もはっきり教えてくれる。この心霊主義こそ、世の最も深く切ない悲しみのもとでも、最も大きな慰めを与えてくれるもの。これは孤独も別れも追い払ってくれるもの。心霊主義こそ、人間が深い孤独にあっても、いつも親しく言葉を交わせる多数の友等に囲まれている事実を示してくれる。
 我々は辛い試練に会えば、もう耐えられないと思う。それは酷く耐え難いので、もう駄目だと、そういう気持になってしまう。だが、勇気を奮ってこれを耐え、愚痴をぐっと抑えるなら、この世を終えた時、きっと苦難を耐え切ったことを喜びに思うだろう。それは丁度、治りかけている病人が、辛い治療を耐え忍んだ後の喜びに似ているだろう。

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○地上で、人間が完全な幸福を味わうことは可能でしょうか。
「できない。と申すのは、地上での生命は、人間の試練の為、又は罪の償いの為、そのいずれかの為に与えられているから。だが、運命を好転さすのも、地上で出来る限りの幸福になるのも、本人いかんにかかっている」


○人類が変革された暁には、人間の地上生活は幸福なものになろうと、想像しております。しかしですね、個々の人間の場合、自分である程度の幸福にはなれないものでしょうか。
「人間は自分自身の不幸を生み出す職人、これはよくある事だ。もし、人間が神法に従いさえすれば、それ程の悲しみを受けることはなく、また、地上生活の檻の中にあっても、全ての幸福を確保するものである」
〔注解〕来世の実在を確信する者は、現世の生命を、単に旅人の一夜の宿りと思っている。それで、今の苦しみは未来の新しい幸福を開く束の間のものと、また、今しっかりやれば未来は一層よいものになると、心に慰めを持つことが出来る。現世でも、我々は現世の法に背くことで罰を受ける、その法違反及び不節制の結果の苦しみという形で。いわゆる病気もその源を探れば、道からの脱線の結果であることが分かる。この脱線で道を誤り、歩一歩と苦しみの深みへ入って入ったのである。


○地上の幸福は人によって違います。ある人には幸福であることが、他の人には不幸でもありましょう。しかしですね、人類すべてに共通な幸福の基準がありましょうか。
「肉体について申せば、生活に必要な資を持つこと。精神について言えば、良心と来世への確信である」


○その立場が違えば、ある人には余分な物が、他の者には不可欠な物と、そういう事はありませんか。またその逆の場合も。
「それはある。諸君等の物質的な観念、偏見、野心、その他馬鹿げた考え方、これらは物事の真実が分かればなくなっていくものではあるが、これがある間はそれに応じ、質問のような事がある。成る程、数千の収入のある人が何百かに減ったら、自分を全く不運と思うだろう。何となれば、彼はもはや世間では問題にされず、地位も保てず、馬も馬車も従僕も置けず、趣味も欲望も充たせなくなるから。彼は生活に欠くべからざる物を失ったと思うだろう。だが、彼は本当に哀れむべき存在だろうか?その傍で、多くの人が飢えと寒さで死にかけている、寝るに枕する場所もない多数の人々がいる。賢い者は、自分より下の者と比較し、決して上の者とは比較しない、それが自分を無限へ向って高めることでなければ」


○本人の行為とはかかわりなく、身に降りかかる災難があります。これは最も正直な人にも降りかかります。これから身を守る方法はありませんか。
「もし、諸君が進歩していれば、これら災難にぶつぶつ言うこともなかろう。だが、諸君が必要な努力さえすれば、未来が幸福になるという希望で、常に心は慰められていよう」


○神は何故、そんな価値があるとも見えぬ人達に、富を与えたりなさるのですか。
「現在にしか目の向かない者にとっては、富は恵のように見える。だが、心得られよ、富は貧困よりももっと危険な試練であることが多い」


○文明は新しい必要を生み出すことによって、新たな苦悩の源になりませんか。
「地上の不幸は、諸君が自分の手で創り出した人為的な欠乏によるものである。自らの欲望を抑制し、自分より富む者を羨望の目を持たずに見ることの出来る者は、地上の数多の失望を味わわずに済む者である。最大の富者とは、最も欲しがらない者である」
「諸君等は、恵まれた富者達の楽しみを見ては、これを羨む。しかし、彼等の多くを待ち受けているものを、諸君は知っているか。もし、彼等がその富を自分の為だけに使い、利己的であるなら、恐るべき逆転が彼等の前途にある。彼等を羨むことをするな、彼等は哀れむべき者達である。神は時折、悪人に繁栄を許し給う、しかしその栄えは羨むべきものではない。何となれば、やがてその者は涙と歯軋りで、それを償う者となろう。もし正直者が不幸に苦しむことがあったら、それは試練である。その者が勇敢にそれを耐えれば、豊かな収穫を刈り取る者となろう。イエスの言葉を思い出されよ、[苦しむ者は幸いである、その人は慰めを受けるであろう]」


○物が有り余っていれば必ず幸福だとは言えません。しかし、生活必需品に関しては別です。それを欠くことは、本当に不幸なことではないでしょうか。
「生活に健康に必要な物が欠けている時、人間はまことに不幸である。その窮乏が自分の誤りで起こったのなら、自分を責めねばならぬ。しかし、それが他者の過誤なら、その原因を作った者に重い責任がかかる」


○私共の素質の違いは、明らかに神が私共に固有の職業を与えておられることと存じます。この世の諸悪は、私共がその職業に従事していないことから起こっているのではないでしょうか。
「その通り、両親は貪欲とか見栄から、子供が本来進むべき道とは別の方向へ押し進める。だが、彼等はこの誤導の結果の責任を取らされることになろう」
-では、あなたは、例えば、名士の子息に靴直しの才があれば、靴直しにするよう勧められますか。
「馬鹿げたこと、また極端に走ってはいけない。文明には必要というものがある。名士の息子が、なぜ靴直しにならねばならないのか、もし彼に何かもっと重要な事が出来るとするならば。何かそんな事で彼はもっと役に立ち得るのだ、本人の能力の器に従うなら、常識の線を逸脱しなくても。例えば、本人が良い法律家に向いていなければ、良い技術者とか機械技師などになれるのだ」
〔注解〕人が天性と違った職業に就くと、失敗と絶望の原因になることが多い。本人に、就いた職業の素質がなければ、どこまでも悲運が付きまとうことになる。こうして一つの職業に失敗すれば、自尊心が邪悪になって、別の低い職業に道を見出すことは出来ない。その為、屈辱に甘んじるくらいならばと、自殺に走ってしまう気持に駆られることが多い。もし、完全な精神教育によって、馬鹿げた誤りなどという偏見を超越しておれたら、本人が生活の手段を得損なうことはなかっただろう。

○周りはみんな豊かなのに、お金がない為、餓死するより外に道のないという人達がいます。こんな場合、本人達はどうすればいいのですか。彼等は餓死の道を選ぶべきなのですか。
「餓死しようなどという考えを持ってはならぬ。誇りが邪魔をして仕事と欠乏の間に立ち塞がらなければ、人は必ず食べていける道が見出せる。[正直にさえやれば、どんな職業も恥ずかしい職業はない]、こういう言葉がある。だがこれは、自分に向ってよりも、他者に対して言う時に使われる、格言の一つだが」

○野放しの偏見がもし無ければ、仮にその地位は低くても、人は必ず生きていけるだけの仕事が何か見つかる筈である。この事は明白なことです。しかし、そういう偏見がない、あるいは拘らない人達の中にも、病気の為、又は万止むを得ぬ事情の為、生きるに事欠くという人達はいないでしょうか。
「キリストの教えを基に社会が作られていれば、飢えの為死ぬ者は一人もいないだろう」
〔注解〕英知と深慮で社会が組織されていれば、本人の過誤以外で、食べるに事欠くということはあり得ない。しかし、人間の過誤は、本人が置かれている環境の結果であることが多い。人間が十分に進歩を遂げ、神法を実践するようになれば、人間一人一人の本質が良くなるだけでなく、正義と愛の基盤に立った社会関係が組織されることになろう。

○私共の世界には、富裕な者より、苦しむ者の方が多いのではありませんか。
「あなた方の中、一人として完全な幸福という者はいない。世間が富裕と思うものの中には、恐るべき不幸が隠されている。苦しみは何処にでもある。しかし、あなたの質問の意味を斟酌して、次のように答えておこう。諸君等の言う苦しむ階級が地上に満ち充ちている、その理由は、地上が罪の償いの場所だということである。諸君等が地上を美徳と善霊の逗留地と変えた暁には、不幸は地を払うであろう。その時、すべてのそこに住む者にとり、地上は楽園と化すであろう」

○この世では、邪悪な者が善良な者を支配することが多いのですが、これはどうしてですか。
「それは善良な者の弱さの結果である。邪悪な者は陰謀を企てるし、また大胆であるが、善良な者は臆病であることが多い。もし善良な者が邪悪な者にうち勝とうと決意すれば、善良な者はこれが出来るのである」

○人は自分の世俗の災厄を生み出す職人です。人間はまた、自分の精神的な苦痛を生み出す職人でもありませんか。
「そちらの方が多い。と申すのは、世俗の災厄は本人の行為と関係のないことが割にある。ところが精神の苦痛とは、傷つけられた誇り、挫かれた野望、貪欲、嫉み、あらゆる激情、このような魂の苦悶、かようなものなのである」
「羨望と嫉妬、この二つの苦悩の種を知らない者は幸いである。羨望と嫉妬があるところ、静穏も安らぎもない。この二つの奴隷となる者は、その目の前に、切願、憎しみ、怒りの対象が、幻のように立ちはだかり、眠りの中までもつきまとう。羨む者、嫉妬する者は、常に熱に浮かされている者である。これが望ましい状態だろうか。お分かりかな、この激情によって人は自分で地獄を作っている、地上はまさに彼等の地獄である」
〔注解〕次の言葉をみれば、これら激越な感情がよく分かる。「のぼせ上がってる」「死ぬほど羨ましい」「悪意に満ち充ちている」「嫉妬に狂う」等々。随分と露骨な表現だが、大抵の場合、こういう悪感情にはこれと決まった相手がないのである。例えば、人の立身出世を羨む人、何事によらず目立った事には何でも嫉妬する人、こういう手合いがいるものである。それが自分に何の関係のない場合でも、自分がそういう成功が収められない、唯それだけの理由でそうなのである。他人が自分より優れていると、侮辱を受けたように思うのである。凡人の嫉妬は、常に、出来るなら他人を自分のレベルまで引き下ろそうとすることである。
 人生の不幸の多くは、人間が世俗時の事に余りにも重きを置き過ぎる結果である。その悩みの多くは、自惚れ、挫かれた野望、貪欲、そういうものである。もし志を大きく狭い世事から一歩踏み出すなら、人間の思考を無限へ向って高めるなら、世の浮き沈みは何程の事でもなくなるだろう。子供が壊れた玩具に泣き喚くようなもので、他愛も無いことに思えよう。
 高慢と物欲を満たすことに幸福を求める人は、これが満たされないと不幸に感ずる。他方、贅沢な生活を求めない人は、よそ目には不幸に見えても、本人は幸福なのである。
 我々が今話しているのは、文明人についてである。未開人は、必要なものがずっと少ないから、羨望については同じ刺激を受けることはない。物の見方が全く異なっている。文明国では、自分の不幸をあれこれ詮索したり、論じ立てたりするので、辛さが殊更酷く思われたりする。だが、慰める方法を力の範囲で、色々論及分析もしたりする訳である。このような慰めはキリスト教によって、人間にもたらされる。これは人間に希望の未来を約束する。更には、心霊主義、これが人間にこの来世への確信を与えてくれるのである。

○忘恩、そして世の友情のはかなさ、それが原因で味わう失望は、また人間の心の悲しみそのものではないでしょうか。
「左様。だが、我等は諸君等が、これら忘恩、また誠意を欠く友等に対して、憐みの心を持つよう教えたい。彼等の無情は、諸君等に対してより、彼等自分自身を傷つけることになろう。忘恩は利己主義から出る。利己的な人間は、いつか、自分と同じ冷酷な人間達に会うだろう。次の事を思いなされ、諸君等より善行の士達が、諸君等にまさって価値ある人士が、しかも、その愛の行為の見返りとして忘恩をもって報いられた事を。また、イエスの事を思い出してみなされ、その生時、あざけられ軽侮を受け、悪漢か詐欺漢のように取り扱われていたということ。諸君等が同じように取り扱われたとしても、だから驚くことはない。自分自身が良いことをした、この思いこそ、現世の報酬としておくがよい。自分が親切にしてあげた人達について、あれこれ頭を悩ますでない。忘恩があって初めて、諸君等は自分が善事を為す際の、忍耐力が試される。その事が諸君の今後の為になる。諸君の親切を心に留めなかった者達は罰せられる。その忘恩が大きければ、それに応じ罰も大となる」

○忘恩で失望すれば、人は心を無慈悲、無情にしようと思いませんか。
「実際はそうばかりではない。心の広い人々は唯善行をしたことを喜ぶものだから。彼等は心得ている、仮に彼等の善行をそれを受けた者が現世では忘れても、あの世では思い出し、恥じて忘恩の責めに苦しむということを」
-そうは分かっていても、だからといって、現世で心が傷つかないというわけではありますまい。この苦で本人はこう思いませんか、もっと自分が薄情なら、もっと案配がいいのだがと。
「左様だな、本人が利己的な喜びを求めるのならば。だが、その種の幸福はまことに憐れむべきものである。そのような人には次の事を理解させたがよい、つまり、彼を見捨てた忘恩の徒は、彼の友情に値しない者達である。また、自分が彼等を見損なっていたのだから、彼等を失ったとて別に悔やむことはないのではないのかと。今に自分をよく理解してくれる、別の友人達が沢山できるだろう。まことに憐れむべきは、自分にいわれなき苦しみを与えた彼の者達である。彼等は今にその重い罰をもって報いられよう。諸君等はこのような不義に、必ず傷つき冒されることのないよう。この不当な行為に超然としていてこそ、諸君は彼等を超える者であり得よう」
〔注解〕自然は人間に愛し愛されたいという思いを植え付けた。地上で得られる最大の喜びの一つは、自分と共感する心の持ち主と巡り会うことである。この共感は、これすべて愛と献身に満ちた至高の霊の世界で、いつの日か彼が味わう、それの毒味である。いささかの利己もないその幸福。

○共感し合う霊は互いに引き付けられるのに、霊が肉体をとると、愛が一方通行となることが多いのはどうしてですか。心底深い愛が片思いであったり、肘鉄を食ったりします。更にまた、命を懸けた相思相愛なのに、その愛が冷めたり、憎しみに変わったりもします。
「そういう感情の不一致は一つの罰である。しかしそれは一時的なものだ。それに、本当に愛し合っていると思っている人はどれだけいるだろう。と申すのは、二人はお互いを外観だけで判断しており、さて一緒に生活する段になると、お互いの愛が気まぐれにすぎなかったことに、やっと思い当たるのである。感じが良くて、素敵な人と、そう思うだけでは不十分。あなたの心を捕えた外観の裏にある真価が分かるのは、共に住んでからである。その反対に、初めは愛など芽生える筈ないと思えたのに、時を経て、不変の愛に入って行くカップルがどんなに多いことだろう。彼等の間には、互いの長所をしっかり認め合った、そこから生まれた相互畏敬の念が根ざしているのである。霊が愛するのであって、肉体が愛するのではない、この事を心得られよ。また、肉体的な魅力の迷妄が消えた時、霊は結ばれたものの真義に思い及ぶのである」
「愛には二種類ある-一つは肉体の愛、他は、魂の愛。この二つはよく間違えられる。魂の愛は、純粋でうまく共感し合っていれば、永続する。ところが、肉体の愛は壊れ易い。永遠の愛と思い込んでいる二人が、夢うつつの時が過ぎれば、憎み合ったりすることが多いが、これはその為である」

○一緒に暮さねばならない二人に、心が通い合ってないということは、悲哀の種ではありませんか。それも生活全体が傷つけられるわけですから、酷い悲しみではないでしょうか。
「それは確かに辛い。だが、それは常に諸君等の方に原因があって、そういう巡り合わせになっているのだ。第一に、諸君等の物差しが間違っている、好き合ってもいない二人が、一緒になるよう神が定めているなど、なぜそう考えたりするのか。第二に、その罪は諸君等自身にある、と言うのは、この結婚で、二人の愛による幸せよりも、プライドだとか野望の満足を目的としたりすることが多いのだから。その歪められた結果が、自ずからそこに現れているのである」

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